迷子
夏の湿った空気が、背中に張り付いているようだ。
体にねっとりとまとわりつき、歩みを妨げているような気がして気持ちが悪かった。
もっと軽快に歩ければいいのに。
らしくもない独り言を呟いて、ハッと我に返った。
雑踏はぼくの言葉を容易にかき消してしまって、ぼくの呟きに反応する人間は皆無だった。
皆、思い思いに祭りを楽しんでいるように思えた。
幼い子どもは親と手を繋ぎ、綿飴やリンゴ飴を片手に露店の出し物を楽しんでいる。
少年少女は互いに着慣れない浴衣や甚平姿を披露し合い、頬を赤く染めている。
若者達は徒党を組んで闊歩し、恋人達は幸せな思い出を紡いでいる。
年老いた方々もまたそんな彼らを見て目を細め、ありし日を思い出して物思いに耽っているように見えた。
喧噪のなかを泳ぎながら、自分がまるで迷子になってしまったかのような、そんな錯覚を覚えた。
気が付いたら、自分の知らない場所に放り出されているような感覚に、こころのなかがざわめいた。
一人、取り残されたような感覚だった。
そんなぼくを、携帯が現実に呼び戻した。
自分が気付くまでの間に、かなりの時間が経ってしまったように思える。それでも、電話は切れることなく鳴り続けていた。
「あ、もしもし」
その第一声だけで、誰がかけてきたのかぼくにはすぐにわかった。
若い女性の落ち着いた声音。間違えるはずもない。瀬奈さんからだった。
「迷子の届けが本部にありましたので、探して下さいませんか?」
「ええ、構いませんよ。それが今日の仕事ですからね」
すぐに応じた。
自分に与えられた仕事でなくても、ぼくは瀬奈さんからの依頼であれば快く引き受けるつもりだった。
たとえ、それが深い皺を幾重にも顔に刻んだ町内会長の指示だったとしても。
「横浜市中区から来た子で、お名前がアシナケイ……」
彼女の明瞭な声がノイズで途切れる。
「あの、もしもし?」
「……すいません。聞き取れましたか? イネ科の多年草の『芦』に、名前の『名』、土を二つ重ねた『圭』です」
「はい、わかりました。年齢は?」
「六歳です。……小学校の一年生」
スピーカーから砂を擦るようなノイズが増えて、瀬奈さんの言葉が急に遠くなる。
ぼくは思わず携帯を握る手の力を強めた。瀬奈さんの声をかき消すなんて。味気ない雑音相手に、ぼくは子どもじみた苛立ちを覚えていた。
「小学生なら自分の漢字、まだ習ってないかもしれませんね」
何気なく言った言葉だったけど、瀬奈さんからの返事はなかった。
ササッという雑音が随所に入り込んで、彼女の声を明瞭に聞き取ることができない。
これでは、埒が明かないな。ぼくは思わず自分の後頭部を掻いた。
せっかくの彼女からの依頼に水を差されたような気がした。居心地の悪さに耐えられなくなって、ぼくは言った。
「わかりました。ちょっと電波の状態が悪いみたいなんで、また後で追って連絡致します」
少し間が開いた。
瀬奈さんからの反応がない。
やはり、こちらの声が聞えていないのだろうか。だとしたら、虚しいなどと思ってしまう自分に苦笑した。
辛うじて聞き取れる声でお願いします、と一言あってから電話は切れた。
芦名圭。
横浜市中区に住んでいる小学校の一年生。
そこで、ぼくはこの圭くんが一体どんな生立ちなのか、訊くのを失念していたことに気が付いた。
Tシャツにズボン姿の普段着なのか、それとも甚平姿なのか、習い事の帰りのユニフォーム姿なのか……。
往来の激しい祭りのなかで、手がかりを欠いた状態で人探しをするなんて。我ながら無謀過ぎる。
ぼくは後頭部に手をやった。体中からどっと湯気が上がるような、羞恥にも似た焦りを感じた。
しかし、今ここで瀬奈さんにかけ直しても、またノイズの嵐だったら。きっと彼女を煩わせてしまうだけだろう。
とりあえず、ここは本部にいる瀬奈さんの元へ戻って、改めて詳細を確認しよう。
そして、そこに至るまでの間に芦名圭くんらしき人物がいたら、声をかけてみよう。
ぼくは両手で自分の頬を叩いた。
大雑把ではあるけれど、当面の予定を立てると途端に落ち着き始めていた。
金魚掬いに熱中している男の子に声をかけてみたり、仮設のベンチや休憩所を覗いて歩く。
人と向き合うのが苦手なぼくだったけれど、年下相手、それもお喋りな子ども相手となれば、自然な受け答えができた。なんだ、ぼくもちゃんと話せるじゃないか、と妙に安堵していた。
そうやって慣れてくると、今度は親子連れにも声をかけてみることにした。誘拐事件だったら厄介だと思ったからだ。
しかし、ぼくの心配はどうやら杞憂に終わりそうだった。人間の機微な感情に疎いぼくでも、さすがに誘拐犯を見逃す程の節穴ではないだろう。手を繋いだり、肩車される少年達の表情は晴れやかで、ぼくには眩し過ぎるくらいだ。
そろそろ本部というところで、ぼくはふと歩みを止めた。




