花火
「今日はとても楽しかった」
少女と手を繋ぎながら、夜の紅葉坂を下って行く。歩道には一足早く祭りから帰ろうとする人々で溢れ返っていて、亀といい勝負ができそうな歩みの遅さだった。
これでは普段の倍以上の時間を費やさなければ、坂を下れないだろう。それはとてももどかしいことのように思えた。
「お兄さんは……」
仮設照明のない夜道は薄暗かった。それでも彼女の顔は、暗がりから浮かび上がるようにしてよく映えた。
「紺色の浴衣の人が好きなんでしょ?」
いきなりの言葉に、ぼくの表情はさぞ強張ってしまったことだろう。
不意打ち過ぎて、正直なところまともなリアクションがとれなかった。
周囲の人々のざわめきで聞こえなかった振りをしたかったけれど、彼女は大きな瞳で見上げてきて、ぼくの応えを待っている。
「きみは、いきなり何を言うんだ?」
「……違うの?」
「それは」
違わないけどさ。
「ふうん」
彼女はそう言うと、悪戯を企んでいるような笑みを浮かべた。
「……な、なんだよ?」
「ううん、なんでもない」
「嘘つけ」
「あの人と仲良くなれるといいね」
「余計なお世話だよ」
ぼくは思わず唸った。
もしかして、ぼくの瀬奈さんに対する想いは、六歳児にもわかってしまうくらい直球なのだろうか。
それは由々しき事態だ。
ぼくは、密かに瀬奈さんに憧れているというのに、小学生にもバレてしまってはお話にならないじゃないか。
瀬奈さん本人にも、ぼくの真意が伝わっていなければいいのだけれど。さすがに、彼女にも筒抜け・丸分かりじゃあ、いくらなんでもカッコがつかない。
不意に、彼女がぼくの手を引いた。
「ん、横浜駅方面なのかい?」
「うん」
「じゃあ、そっちへ行こうか」
桜木町駅方面の道を少し外れただけで、さっきまでの人の波が嘘みたいだった。
途端に歩きやすくなったと感じるのは、前後左右に人の姿がいないからだろう。人から発せられる圧迫感が全然ないから、精神的にはかなり楽だった。
「凄く、楽しかった」
彼女は急に身体をむず痒そうにして捩った。
「そう言ってくれると、ありがたいよ」
「わたし、今まででこんなに楽しいこと、なかったと思う」
「……それは、言い過ぎじゃないかな」
「ううん、生まれて初めて、心の底からホッとできたと思う」
ぼくは彼女の様子を伺った。
スポーツを観戦する時みたいに、彼女の言葉の端々には熱がこもっていた。
頬が熟れた果実みたいに桃色に染まって、空いた手を握り拳にして、最初会った時のようなある種の冷たさをかなぐり捨て、彼女は滔々と語った。
「わたし、今日のこと、一生忘れない」
ぼくは思わず押し黙ってしまった。
ぼくにとっては、毎年訪れる夏祭りの思い出の一幕でしかないというのに。
いくら、まだ周りのもの全てが新鮮に見える幼い女の子とはいえ、いくらなんでも言い過ぎのような気がする。
「お兄さんも、わたしのこと、忘れないでね」
その時の彼女の顔は、どんな女性が浮かべる表情よりもずっと艶っぽかった。
幼い顔であるにも関わらず、ぼくにはそれが瀬奈さんのものと勝るとも劣らないくらいの雰囲気を纏っていて、こころがこれでもかと大きく揺さ振られる様だった。
「もちろんだよ」
駅に近付くにつれて、徐々に道が大きく、明るくなっていくのがわかる。
「……寂しいな」
彼女の小さな声を掻き消すように、不意に夜空が明るくなった。
「何?」
「ほら、あっちを見て」
打ち上がった花火が、まるで黒いキャンパスに色とりどりの光で筆を走らせたようにして広がっていく。
少女は思わず息を飲んで、その光景を見守っていた。
立て続けに打ち上げられる花火の爆音は、まるで早まる心臓の鼓動だった。空で爆ぜているはずなのに、それはぼく達の耳元で、そして胸元で鳴り響いているかのような、物凄い迫力だった。
声を上げることもなく、はしゃぐこともなく、ただ、その目を輝かせている姿は、純真無垢だなと思った。
大粒の瞳に、この情景を決して忘れまいと網膜に焼き付けているように、ぼくには見えた。
彼女の丸くて大きい瞳に映る花火を、ぼくは目を細めて眺めた。
「やっぱり、今日は最高の一日だと思う」
「それは良かった」
「……本当だよ? 嘘じゃないよ?」
「はいはい、ちゃんとわかってるから」
「お兄さんも、忘れちゃ駄目だよ」
「うん」




