其の九
樹が待っているであろう座敷に入るヒロ。樹が居るのは、家族が使う奥座敷ではなく、客を迎える表座敷だった。和箪笥や掛け軸といった調度品の置いてある、あまり使うことのない広いばかりの座敷。普段は開けられている奥座敷への襖と、庭を望む板敷へつながる障子は閉じられている。
「ヒロ、そこに座りなさい」
座敷には大きなテーブルがあり、姿勢を正し坐する父 樹の変わらず改まった口調に、着席を促されヒロは戸惑ったが、無言のまま少女は先に樹と対面するように座ってしまう。
座敷に梢の姿はない。思わず樹の顔色を伺うヒロ。
樹の視線は正面から座る少女を見つめている。
狼狽えるヒロに対し樹は再度着席を促し、ヒロは強張った表情で少女の隣に座る。
「天狗様。いつぞやは助けていただき、ありがとうございました」
床に手を突いて深々と首を垂れる樹。
その行動にヒロは驚くが、少女は柔らかに微笑む。
「樹、立派になったね。嬉しいよ」
二人のやり取りに驚くばかりのヒロ。
父が昔、天狗様に助けてもらったと聞いたことがあったが、その存在を昨日まで信じていなかったうえ、父が少女を天狗様と認識して、全く狼狽えずに対応している状況にも驚いた。
「と、父さん、この子が見えてるの?」
母は天狗様を見ても『大きな鳥』としか言わなかったことを思い出し、聞いてみる。
「この子? お前には、そんな風に見えているのか?」
(何、言ってるんだ?)
父の問いにヒロは更に混乱し、何が何やらさっぱりわからない。思わず少女の顔を覗き込む。
「この姿は、お前以外には見えないんだよ。柊兎」
混乱するヒロに少女が静かに答える。
「な、なら、父さんにも白い鷹に見えてるの?」
「ああ、そうだ」
再び視線を少女に向ける樹。その視線は間違いなくヒロからすると、少女の座るところへ向けられているのだが、少女が座っているところに鷹が居たとすれば、テーブルよりも下に居て見えないはずなのだ。
(ダメだ。俺が考えても、わかりそうにないや)
きっと何か、自分には理解できないような仕組みで上手いこといっているのだろう。と難しそうなことを考えるのを止めてしまうヒロだった。
「失礼いたします」
座敷の襖が少しづつ、三度に分けられて開かれ、正客をもてなす作法で梢が入って来る。これまた普段は使うことのない、上等な湯呑を美しい所作で丁寧に底を布巾で拭き、茶托に乗せ少女の座る位置に置く。躾に厳しい梢だが、こうして客をもてなす姿を見たことがないヒロは内心驚いてしまう。
樹とヒロにも湯呑を配り、自らは樹の隣に控えるように静かに座る。
梢が座るまで見守った少女は、自分の前に置かれた湯呑に視線を落とし、内側の淵に描かれた小さな花の模様に目を細める。
「先ほどは、失礼いたしました」
一呼吸置いてから、姿勢を正した梢が少女に声をかける。大きな鳥と言ったことを誤っているのだろう。それは無理もない話なのだが。
「良い良い。そう畏まらないでおくれ」
樹と梢の酷く改まった対応に、少女はむしろ恐縮しているようだ。
そう考えていたヒロの目には部屋にある、古い振り子時計が映る。
『日が暮れたら、あの鼠がここへ来るだろう』
少女の言葉を思い出すヒロ。あまり時間はない。
「父さん、母さん。説明したいけど、俺も良く分からないし、時間もあまりないんだ。天狗様のために、急いで探さないといけないものがあるんだ」
訴えるヒロの言葉に反応する両親。
「どういうことだ?」
樹の問いにこれまでの経緯(昨夜と今朝の事以外)を掻い摘んで話し、日下部家の何処かにあるはずの天狗の団扇を急いで探さなければならないと付け加える。
「そんな大事なことを、どうしてすぐに言わなかったんだ!」
話を聞いた樹は驚き、すぐに知らせなかったことに対しヒロを咎めるが、少女が口を挟むように樹を宥める。
「樹よ。柊兎はちっとも悪くないのだぞ。柊兎は私を助けてくれたのだ。部屋を閉じたのも私だ。柊兎を責めないでおくれ」
少女のその言葉に樹は次の言葉を飲み込むが、ヒロは時間に余裕がない事の方が気にかかる。
「天狗の団扇を探さないと、天狗様が危ないんだ! 何処にあるか分からない?」
家の何処かにあるという団扇を探すため、両親の協力を求めるヒロ。予定外だったが、一人でこの大きな家を探し回るよりもずっと心強いと思ったのだが、樹は梢を期待に満ちた目で見つめる。結局頼りになるのは母なのか、と冷ややかに父を見るヒロ。