其の七
母は一階の廊下にいた。ヒロを見つけると怒ったように風を切ってズンズンと迫ってくる。
「コラ! あんた昨日は夕飯も食べないでどうしたのよ?」
「ごめん。ちょっと体調が悪くてさ」
心配そうに顔を覗き込むが、特に顔色も悪くないのを見ると、軽く頭を小突いてくる。
「昨日呼びに行っても、今朝起こしに行っても鍵閉めてて返事もないしさ、父さんだって心配するんだから」
(部屋にに来た?)
多分これも、光の筋の影響か何かだろう。やはり、まずはちゃんと説明してもらわないと、と思い直し母には体調が悪いので今日は休むと誤魔化して台所に急ごうとしたのだが、ヒロの顔をジロジロと見る母に呼び止められる。
「……あんた、髪染めた? なんか変だよ?」
「え? そんな事するわけないだろ」
何言ってるんだと思いながら、自分を訝しそうに覗く母を後に台所に移動した。
冷蔵庫の中に何かないかと思ったら、昨日買ったお供え物代わりのシュークリームとコーラが入ったままだったのでそれを取り、ついでにお茶のペットボトルも持つ。居間を覗くとテーブルの上に残されていた、恐らくヒロのための物であろう朝食のパンと目玉焼きがあったので、お盆に乗せて念のために廊下を覗く。
見つかったら部屋で食べるのを不自然と思われるのは当然だろう。面倒なことにならないためにも、できれば接触したくないと思ったのだが、幸いにも庭の手入れの為か、丁度母が玄関から出て行くところだった。
余計な手間が省けたことに感謝しつつ、母の姿が見えなくなるとそそくさと移動する。
部屋に戻ると、待ちかねたように少女が顔を上げる。
「好きなものを食べて。あ、饅頭とかはないんだ」
ベッドの上にお盆を置き、机からベッドの横に椅子を持ってくる。
少女はお盆をじっと見つめ、不思議そうにシュークリームを指さす。
せっかくお供えに買ってきたのだからと思い、包みを開けてやったシュークリームとコーラを渡してみる。
少女は物珍しそうにシュークリームの匂いを嗅いだり、持ち上げて下から覗き込んだりしている。
(見たことないのかな)
「そのまま齧るんだよ。バクって。クリームが出るから気を付け……あ」
案の定というか、ヒロに言われて元気よく噛みついたのはいいが、在らぬところからカスタードと生クリームが少し飛び出す。
(ああ、これどうやって説明したらいいんだろう)
少女は両目を瞑って何かに耐えるようにふるふると震えていたが、パっと目を見開いて、満面の笑顔を見せた。自分のはもちろんだが、なかなか満面の笑顔というのにはお目にかかることがない。気に入ったのは一目で分かる。
少女は口の周りにクリームをつけたまま満面の笑顔をシュークリームの食べ口から覗く中身に向け、再び食べ始めた。運が悪ければ少女の服やベッドが汚れてしまうかもしれないが、あまりにもいい笑顔に水を差すのが嫌で、ヒロは黙っていた。
(やっぱり饅頭以外でも食べるじゃないか)
ただの偶然だが、饅頭が売れ切れていて良かったと思うヒロ。
コーラはどうかと思い勧めてみたが、ボトルをじっと見て、あっさりと突っ返される。
シュークリームを食べ終わった少女は、手に付いたクリームを舐めながら両目を瞑り余韻に体を震わせていた。
「そっちは随分気に行ったみたいだけど、コーラは駄目なんだね」
お茶のボトルを手渡しながら言うと、うーんと唸って答える。
「その、炭酸というのは、口の中が落ち着かなくていかんよ」
シュークリームの包みを手に取って興味深そうにしげしげと見つめる。ヒロは目玉焼きを乗せたトーストを齧りながら少女の様子に見入ってしまう。
見た目の年齢はそれほど変わらないと思うのだが、少女の持つ浮世離れした雰囲気とシュークリームとは、組み合わせの妙か、何とも可憐に映るのだ。
気が付けば少女の視線は手元から自分を見つめるヒロに映り、それに気づいたヒロは焦って口いっぱいにもぐもぐとパンを押し込み、コーラで流し込む。
いつの間にか少女はそんなヒロを、穏やかな表情で見つめていた。
少女に向き合うヒロ。いよいよ本題に入ることができそうだ。
「……天狗様、でいいんだよね?」
昨日、悪魔か何かと例えたヒロの言葉に『そうかもしれない』とからかうように言った少女の言葉を思い出すが、それだけはないと確信していた。
少なくても、少女はヒロに害成す存在であるはずがない、と。
少女はヒロの言葉を聞き、静かに一度頷く。
(やっぱり、そうだったんだ)
「聞きたいことはいろいろあるんだ。まず、あの黒い鼠男は何なんだ?」
「簡単なことさ。私の力が弱っているから喰らって力を得て、ついでに名を上げ、あわよくば成り変わろうと言うところだろうね」
とんでもない内容の話しを、いかにも当たり前という具合に淡々と話す少女。
「本来、私たちが居る山やその周囲には、あの程度の者は近寄ることもしないのだからね」
「どうして力がなくなってしまったんだ? 昨日も力が生み出せないとか……」
ヒロが詳しく知るはずもないが、それでも昨日の醜い大鼠と天狗を比べてどちらが格上かぐらいは考えるまでもない。
「……それは……ちょっと、な」
随分と言いにくそうに、少女は視線を下に向けて言葉を噤んでしまう。
「ちょっと、何?」
「ちょっとは、ちょっとだよ」
自分が喰われる話を平然と話したというのに、酷く歯切れが悪い。
(相当、ヤバいことなのか?)ヒロは息を呑み、改めて少女に尋ねる。
「つまりは、力が生み出せなくなったから、あんなのに襲われてるんだろ? 教えてよ。」
うーんと唸りながら言いたくなさそうな表情を見せる少女。
「それがわからないと、手伝うことなんてできないだろ?」
いかにも仕方ない、という顔で少女はようやく語りだした。
「……実はな……」
言いにくそうにぼそぼそと語る内容は、山の力を自分に取り込むための重要な道具を、人に貸してしまったというものだった。
「そんな大事なものを貸すなんて……一体誰に貸したのさ?」
「うーん、もう随分昔の話だからなぁ」
「でも、それを返してもらえば一件落着じゃないか。俺はそれを手伝えばいいんだね?」
「うん……それは、まぁ、そうだな」
まだ何かありそうだと思わせる言い方と表情だったが、ヒロは話を先に進めるために質問する。
「で? その道具ってのは何? 誰に貸したのさ?」
少女は再びうーんと唸り、どうにも言いにくそうにもじもじする。
ヒロは誤魔化されないぞという意思を込めた表情で少女を見つめる。
小さな溜息を一つ漏らし、観念したように少女は口を開く。
「貸したのは団扇さ。天狗の団扇。聞いたことくらいはあるだろう?」
ヒロは頭に昔話の絵本で見た記憶か、大きな掌のような葉でできた団扇を思い浮かべる。それは風を起こし、鼻の長い赤い顔の天狗が常に持っているイメージのある、象徴的な物だ。
「ああ、何となくわかるよ。天狗様はあれで力を生み出していたのか」
そうかそうかと納得するヒロは、更に質問する。
「それはどこの誰に貸して、今どこにあるの?」
「いや……実はな」
仕方なそうに語る少女の答えは、意外なものだった。
「俺の祖先?」
思わず大声を出したヒロと、その言葉に小さく頷く少女。
「どうしてそんな大事な物、俺の祖先に貸したりしたんだ? 何かあったの?」
少女はもう観念したように事の経緯を話す。
正確にはヒロの五代前の日下部家当主がまだ小さな子供だった頃の話しだった。当時の日下部家はまだこの山を所有してはおらず、大きな農地を持ってはいたが、毎日汗水流して懸命に生きるだけの普通の家柄だったが、それ以前から今と変わらず、山岳信仰のようにこの山を敬っていたそうだ。
「この家の小さな童が社の傍らでな、こう、竹筒を持って麓を覗いていたのだ」
少女は望遠鏡を覗くように方目の前で両の手を握ってつなぎ合わせる。
「私は社の裏からそれを覗いていたんだが、その童が、やれ庄屋が転んだと言って笑ったり、猫が喧嘩していると騒いだり、終いには都が見えると言い出してな。退屈していた私は、どうしてもそれが見てみたくて、声をかけたんだよ」
ヒロは、何だか嫌な予感がしてくる。似たような話を、昔話で読んだ覚えがあるのだ。