其の五
窓の外、遠くに赤く光る悪意に塗れた双眸を見てしまったヒロ。
即座に、鷹は翼を広げ、白い光を放つ。
山からの道は、日下部家の手前に現れた光の筋で寸断された。赤い目はそれを見ると、邪な光をこちらに向けたまま、すうっと山の奥へ遠ざかってゆく。
『見られてしまったか……。しかし、お前にもらった力のおかげで、今日一晩は大丈夫だろう。明日からしばらくは、山に入らないようにな』
そう言いながら鷹はベッドから立ち上がり、窓の近くにある机の上にひょいと飛び乗り、窓を開けるようにヒロに促す。
「山に帰るのか? まさか、またあいつと戦うつもりじゃないだろうな?」
『戦わない訳にはいかないだろうな。放っておけばお前たちが危険だ』
「また、あんな目に遭うかもしれないだろ! 行かせるわけにはいかないよ」
ふむ。と一息ついた鷹はヒロに向き直り、落ち着いた小さな声で諭すように口を開く。
『私は人ではないのだぞ。どうしてそこまでするんだい?』
鷹の目は血の止まったヒロの左手を見つめている。
「理由なんていらないだろ! そうしたいと思ったんだ。死んでほしくないんだ!」
ヒロの言葉を反芻するように、静かに緋色の瞳を伏せる鷹は、落ち着いた声で一言一言、丁寧にヒロに伝える。
『優しい柊兎。悲しむことはないよ。人の理とは違うのだ。私はお前たちを今まで見守ることができただけで、幸せさ』
「そんな悲しい事言わないでくれよ。俺も行く。一緒に戦うよ」
緋色の瞳を瞼で隠し、澄んだ声で呟く鷹。
『……困らせないでおくれ』
今この白い鷹を行かせてしまったら、きっと死んでしまうとヒロは思った。
鷹は強かったが、ついさっき山からの道に白い筋を走らせたときに、力を使ってしまっている。ヒロの血液で淡く発光していたその身体は、今は光を失っているからだ。
「いいや! 駄目だよ。絶対に行かせない!」
ヒロは床に転がったままのカッターナイフを取り上げ、再び掌に向ける。
「どうしてもって言うんなら、もっと俺の血を持って行ってくれ!」
『もうやめないか! 困ったねぇ』
鷹はオロオロと落ち着かなくなった。
(きっと、この鷹は天狗様なんだ)
ヒロはそうは思うのだが、慌てる鷹の様子を見て妙に人間臭さを感じ取り、かわいいとさえ思った。
『……よし、わかったよ。今日はここで休ませてもらおう。後の事は、明日にでも考えるとしよう』
急に態度を変え、机からベッドのタオルの上に戻る鷹。
「俺が寝たら勝手に出て行くの、無しだからな」
明らかにギクッと動きを固くする鷹。
「……今、ギクッてなったな」
『な、なってないぞ』
「いや、なったよ。そういう事するんだ」
こちらを向かない鷹の顔が見えるように、側に寄るヒロ。
『……ちょっと、何言ってるか、わからないな』
視線が合いそうになると、ふいっとそっぽを向く。
追いかけるヒロの顔を懸命に逸らす鷹。それを何度か繰り返した。
「絶対に行かせないからな」
しびれを切らしたヒロはベッドに仰向けで横になり、自分の胸の上に鷹を乗せる。爪はあるが、どういうわけか全く痛くない。胸の上で仕方なそうに、大人しく居住まいを正す鷹。
『優しくて、強情か。なかなか厄介な心柄だねぇ』
ヒロは鷹を撫でながら、家で代々信じられてきた『天狗様』に対して、随分と不遜な事をしているような気もするが、気持ちよさそうに目を閉じる鷹にはとても親しみを覚える。
(綺麗だな)
そう思いながら、ヒロは血を失ったせいか、少しづつ気が遠くなってくる。
しかしここで眠ってしまったら、鷹は不思議な力でも使って家を出て山に帰ってしまうだろう。気を失うわけにはいかない。
緋色の瞳を片方だけ開けて、その様子を見ていた鷹は小さな溜息一つ零し、静かに語り掛ける。
『仕方がないね。……だったら、私が力を取り戻すまで、ちょっとした契約をしないかい?』
それを聞いたヒロは、眠そうだった表情をパッと変え、鷹を見る。
「力が取り戻せるなら、何でもするよ」
『ほーう? 何でもかい?』
澄んだその声には、意地悪そうな含みを感じるが、ヒロは構わず食いつく。
「あ、でも、血を残らず寄越せとかは……」
バツが悪そうに言いかけるが、鷹は首を横に振る。
『お前たちを守る私が、そんなことを言うと思うのかい? 違うよ』
少しホッとしながら鷹の言葉を待つヒロ。
『私はお前の命を借りて生きる。その代り、お前には私の力を分け与える。……とは言っても、あんまり残ってはいないのだけれどな。その力で、私を手伝ってほしいのさ』
その声は少女のように澄んでいたが、低く、怪談話をしているような、そんな含みを持たせた言い方だった。
言葉の意味がよくわからないヒロだが、それで鷹が、天狗様が死ななくて済むなら、と思う。
「うん。よくわからないけど、それでいいよ。でも契約って、悪魔か何かみたいだね」
澄んだ声で意地悪そうにクスクスと笑う鷹。
『ひょっとしたら、そうなのかもしれないよ……?』
ふっと部屋の電気が消える。そして部屋の入り口は、ドアの形に沿って白い光の筋が奔る。
突然の変化に狼狽するヒロ。胸の上の鷹は白く淡い光を纏いながら、その形と大きさを変えていく。
疲れのせいか、失血のせいか、気が付けばヒロの身体は痺れたように動かない。
「お前は、一体……?」
『うん? 教えてほしいかい? そうだろう、そうだろう』
声は相変わらず澄んでいるが、小さな声で愉快そうに笑う。
『さあ、契りを交わそうじゃないか――』