其の三
社に辿り着いたヒロの目の前でいたぶるように鷹を握りしめるコートの大男。
その光景に目を疑うヒロを見て、絞り出すような声で力なく声を上げる白い鷹。
ヒロは乱暴な性格ではない。その時どうしてそこまでしたのかはよくわからなかったが、気が付けば男を突き飛ばすように手を出していた。
「やめろよ!」
しかしコートの大男はそんなヒロをまるで相手にしていないかのように、鷹を握る手に力を入れ、鷹はさらに苦しそうに高く声を上げる。
間違いない。悲鳴はこの鷹だ。
そう思うヒロは、鷹を離そうとしないこの異様な大男に対し、自分でも理解できない苛立ちと怒りを覚え掴みかかるが、男が鷹を掴んでいない腕で無造作に払いのけるように腕を振ると、ヒロの身体は簡単に吹っ飛び、地面に倒れる。
したたかに撃ちつけた肩を庇いながら立ち上がるヒロ。そのヒロには興味もないように、大男は手に握ったままの鷹をいたぶる。
(何なんだよ、こいつの力)
ますます力なく悲鳴を上げる鷹の羽を毟り取る大男。
その目は赤黒く濁って淡く輝く。声を上げる鷹の姿をニヤニヤと見ながら涎を垂らす口元には更に大きくなった、汚らしい前歯が見えた。
ヒロの脳裏には、この大男が次の瞬間、白い鷹の翼をもぎ取り、頭からかぶりつく映像が浮かぶ。
「やめろ!」
力いっぱい叫び、気が付けば男に向かい飛び蹴りを放っていたヒロ。
男の背に触れたヒロの靴底には、岩を蹴ったような感触が伝わる。
微動だにしない男はその赤黒い瞳をヒロに向ける。
ヒロは足元に転がる太い枯れ枝を拾い上げ、怒りのまま男の頭を殴りつけた。
枝は呆気なく折れ、男はヒロを見たまま、不快に潤う笑い声を漏らし、涎まみれの大口を開け白い鷹に向き直る。
「ふざけんなよ!」
鷹が男に喰われると直感したヒロは、捨て身の体当たりで男の腕に突進する。
男は僅かに体制を崩し、忌々しげにヒロを睨みつけ、湯気が上がるほどの吐息を漏らしながら、社の傍らの地面に白い鷹を投げつける。
小さな悲鳴を上げ身体を振るわせる白い鷹。
大男は不自然に頭を振りながらヒロににじり寄り、胸座を掴んで持ち上げる。
威嚇するように喉の奥から空気を漏らしながら、まともな人間の数倍の大きさになった前歯を剥き出しにする。
男の赤黒く濁った眼球と汚らしい前歯に、改めて胸の奥から嫌悪感が湧き出す。
男がその口から、ぼう、と空気の塊を吐き出すと、周囲の空気までが震動する。
ヒロは息苦しさと恐怖で、何とか男から逃れようと持ち上げられたたまま、腕や顔を何度も蹴りつける。大して効いてもいないようだが、邪魔なものを捨てるように社の手前に投げ飛ばされ、その拍子に軽く頭を打つ。
すぐ近くで微かな鳴き声を上げる白い鷹と、注意を引くように周囲の小石が大男の顔めがけ飛んでいく。
少し気が遠くなりかけるが、小石を避ける事もせず、ヒロの近くに横たわったままの白い鷹に再び大口を開きながら近づく男を見たヒロは無理やりに体を起こす。
悦に入るようなだらしない笑顔で地面に四つん這いになり、地に手を付いたまま鷹に噛みつこうとする男。
もはや声も出さず白い鷹に飛びつき、抱きしめるように胸に抱えるヒロ。
『ガリ』
白い鷹を庇うように包むヒロの右腕に突き立てられる男の歯。
痛みに苦痛の声を漏らしながらも大男を振り払い、社から飛び退くヒロ。
腕の中の、薄汚れ羽を毟られた痛々しい姿の鷹はか細い声を上げ、ヒロを見つめる。
その目は濁った男の目とは違い、澄んだ色彩を放つ赤。その緋色の瞳には悲しみを乗せ、やはり弱々しくヒロに向かい声を上げる。
ヒロの腕から流れる鮮血が、鷹の白い身体にかかる。
ヒロはこの状況で、白い身体が汚れてしまう。と感じたが、やはりそんな余裕はなかった。言葉にならない苛立ちを振りまく大男の息づかいが聞こえる。
(逃げないと!)
鷹を抱いたまま、何とか立ち上がろうとしたヒロだったが、ついさっきまでくすんだ色だった鷹の身体が、白く発光しているのに気付く。
『……どうして来たのだ』
頭の中に響くその声は、心地よい風のように澄んでいた。
ヒロは、間違いなくその声が、鷹が発しているものだと理解し、その姿を見る。
ついさっきまでの弱り切った姿ではなく、毅然とした目で大男を睨みつける白く輝く鷹。
痛々しく毟り取られた羽も、急に生えたかのように整っている。
「お前、一体……?」
思わず口から出るヒロだったが、同時に自分の腕から流れ出て、鷹にかかってしまった血液はその身体を汚すどころか、吸い込まれるようにその身体に染み込み、その度に白い光が強まり、鷹が精気ををり戻していくように感じる。
大男は涎をまき散らしながら喚きだし、コートの下に身に付けていた汚れた衣服が小さく裂けるほど上半身を膨らませた。
(……こいつ、人間じゃない)
耳障りな金切音のような叫び声を上げる男の姿は、頭髪から肌の違いが無くなったように黒い毛に覆われ、身体に対して不恰好に小さく細い腕に鋭い爪が伸びていた。
目の前で異形に姿を変えた大男に目を疑うヒロだったが鷹は一層輝きを増し、周囲にあるこぶし大の石は、ふわりと持ち上がったかと思うと、次々に男の顔面に向かい勢いよく飛んでいく。男は連続で命中する石に足をふらつかせ後退するが、目と前歯を剥き出しにして叫び声を上げながら大口を開ける。
鷹が力強く一鳴きすると、男の周囲の空気が、まとわりつく見えない壁のようになって大男の動きを鈍らせ、その開いたままの涎まみれの口に、拳よりも大きな火の玉が叩き込まれる。
男は劈くような高い叫び声を発し倒れ込むが、火の玉は次々と現れ男の身体に放たれる。
四つん這いにばった男は、意味不明な破裂音を何度も口から漏らし、地面に散らばっている鷹から毟り取った羽を集めて、貪るように喰いはじめる。
その姿は欲に塗れた亡者のように醜く、ヒロは吐き気すら覚えた。
羽を喰らった大男は更に体を膨らませ、背は盛り上がり衣服を内側から引き裂く。
もはや人の姿はしていない。身体は黒くぬらりと光る毛に覆われ、身体に対して頭と腕が異様に小さく、四つん這いで体を震わせるその姿は、並の人間よりも大きな黒い鼠だった。
『早く逃げろ!』
再び頭に響く澄んだ声と共に、輝きを増した鷹はヒロの腕から飛び出し、翼を羽ばたかせると、大鼠の身体は鋭い刃物で切り付けたようにいくつもの傷口を開かせ、喚き声とその目と同様に黒ずんだ血飛沫をまき散らす。
羽ばたきながら低空で静止する鷹と睨みあうように対峙する大鼠。
飛び掛かろうとする大鼠の身体を、風で作った壁で押し戻し、更に羽ばたいて傷口を増やしていく。
効いてはいるようだが、大鼠はそれだけでは倒れない。
しかし歯を剥きだして叫ぶ大鼠の周囲は数十個にも上る小さな火の玉に囲まれていた。
大鼠がそれに気づいた瞬間、一斉に放たれ同時に直撃する。
火は消えず、大鼠の身体を灼く。
もがいても離れないその火の玉を振り払らおうとするが、それが叶わないと知ると、突然発する絶叫と共に鷹とヒロを憎しみに満ちた目で睨みつけ、叫び声を轟かせながら猪のような勢いで社から逃げていく。
それを見送った鷹は光を失い、糸の切れた凧のように地面めがけ落下していく。
呆然と鷹の戦いを見ていただけのヒロは、落ちる鷹を寸でのところで抱き留め、ぐったりと翼を広げ目を閉じる鷹を見つめた。
(……一体、何が起こってるんだ?)