其の十九
再びヒロの意識は覚醒する。
しかし、先ほどとは違い、僅かづつ開かれた瞼からは淡く輝く緋色の瞳がある。
その視界は何かに邪魔されて良く見えないが、若々しい芝生に横たわっているのだと、身体に少しづつ戻ってくる五感で分かる。
鼻をくすぐる新鮮な空気と緑の香りに再び目を閉じるヒロ。
全身をそよ風に包まれるように安らかな気分だった。
沼の情景ははっきりと覚えている。あれは夢なんかではないと分かっている。
改めて息を吸い込み緑の香りで生の実感を得ると、暖かな温もりに包まれていることに気づき、再び目を開ける。
顔に当たる温もり。それは呼吸するように小さく、規則的にヒロの顔面を柔らかに圧迫する。
(これは、まさか……)
視界を邪魔する何かは、小さな寝息らしき呼吸と共に当たる、薄い胸。
うーん……。と小さく声を発する少女は、ヒロの頭をその胸に深く抱きしめ、そのまま添い寝するように一緒に横たわっていた。
抱えたヒロの後頭部を優しく撫でる少女。抱きしめられたままのヒロは、状況を理解すると、みるみる朱に染まっていく。
しかし、狼狽える反面そんな自分の感情に、冷静に向き合う自分がいることに気づくヒロ。
少し勿体ないと感じながらも、眠っているであろう少女を起こさぬようにと、ゆっくりと腕をすり抜け身を起こす。
抱える物を失った少女の腕は、ヒロを探すようにもぞもぞと動く。ヒロが少女の手を取ると、安心したように再び安らかな寝息を立てた。
ヒロは辺りを見回す。
周囲は季節とは切り離されたように若葉が茂り、様々な花がそこかしこに咲く小さな空間だった。よく見れば蝶が飛び、鳥のさえずりも耳に聞こえた。天狗の社のある日下部家の山では、あまり見かけなくなってしまったもの達だ。
ぐるりと周囲を囲む木々の中心辺りには小さな涌泉があり、音もなくきれいな水が湧き出ている。ヒロと少女はその涌泉の傍らに居た。
見上げると白んだ空が映る。空と比べると、周囲の方が明るいように感じる。少女と一緒に居ることと、春にしか見かけない花や、夏も終わりに近づく今、新緑の芝生に座っていることからも、考えても無駄なことなんだろうと思えてしまう。
(それにしても、ここ何処なんだ? 山の中には間違いなさそうだけど)
小さい頃から山に出入りしているヒロは、山のあらゆるところに行ったことがあるつもりだった。
(これも考えても無駄なことなんだろうな)
少女と出会ってからの短い時間に不思議な体験ばかりしてきたヒロは、理解できないことは考えずに受け入れることにした。
ヒロが握る少女の手に僅かに力が入り、うーんと唸りながら僅かに目を開けるのが見えた。
まだ寝ぼけているのか、手を握るヒロを見上げてぼーっとした顔で佇んでいる。
ヒロがその姿を無言で見つめていると、手を握ったままもぞもぞと身じろぎしてから、身体を起こす。
「おはよう、なのかな?」
「うん。おはようだ」
時間が良く分からないヒロが声をかけると、回答と共にまだ少し寝ぼけたような少女が挨拶を返した。
ヒロは少女の乱れた白く長い髪をそっと直してやる。少女はぼーっと座ったままされるままにしている。
紙を直したヒロが何から聞こうかと思案していると、先に口を開く少女。
「無理をさせてしまったね。身体はどうともないかい?」
沼の情景と赤い目の自分が一瞬脳裏に浮かぶが、何事もなかったように答えるヒロ。
「うん。平気だよ」
自分の目をじっと見る少女の視線に耐えられず、話題を変えるように質問するヒロ。
「ここは何処なんだ? 全然覚えがないけど」
「ここは……いろんな呼び名があるからねぇ。天狗の相撲場とか狗賓の住処とか。まぁ、山に隠してある、私の領地といったところだね」
改めて辺りを見回しながらヒロが口を開く。
「まだ山にこんなところがあったなんて、うれしいよ」
「そう言ってもらえると、私もうれしいよ。……しかし、ここもいつまで持たせられるか」
そう。急場を凌いだとはいえ、依然問題は根本的に何も解決していないのだと、ヒロにも分かっている。
「ヒロ。お前に大切な話があるよ」
居住まいを正し、正座で改まって告げる少女に、ヒロも対面して座り込み、真っ直ぐに見つめ返して答える。
「……お、俺も話したいことがあるんだ」
緊張しているのか、少し声が上ずっているように思える。しかし、ヒロは意を決して少女の言葉を待った。