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其の十八

 ヒロの意識は見知らぬ何処かで徐々に覚醒する。

 僅かづつ開かれた瞼の奥には黒い瞳。赤味がかっていたはずの髪も、本来の黒髪のままだった。

 (どこだ……?)


 気付いたときからずっと、膝上まで泥水に浸かり、泥水の向こうに沈んでいるはずのつま先に視線を向けた姿勢で立ち尽くしている。


 (沼か?)

 はっきりしない意識で、そう感じるヒロ。

 無意識に足を動かそうとしてみるが、膝上までの高さの泥水は酷く重く、石膏型にでもはめられたように動かすことはができない。


 首の骨を軋ませて、俯いたままだった頭を持ち上げてみる。


 沼の岸は見えない。視線を左から右へとゆっくりと動かしてみるが、彼方に沼から直接生えたような、異様に真っ直ぐ伸びた針葉樹らしき影が疎らに映るだけ。動かすことのできない足に頼らず、首だけを緩慢に動かし肩越しに背後を伺うが、そこにも岸は見えない。


 果ての知れない沼に一人、自分はいる。ヒロがそう認識すると、どこかの誰かの呼吸とでも呼応するかのように、ほんの少しづつ、沼の水位が増してくる。……もしかすると、少しづつ自分が沈んでいるのかもしれない。と、もやがかかったように鈍い意識でそう考えるヒロだが、岸も見えないこの場所で正解など知る由もなく、知ったところで何をできるとも思えなかった。


 更に首の骨を軋ませ、眼球を動かし、空を見上げるヒロ。


 太陽の見えない空は斑のない濃紫に染まり、水平線に近づくにつれその色調は真紅へと変わる。そしてそこから下は果て無く広がる沼。

 視線を沼へ、さらに下げて再び自分の足元へ。軋む身体で自分のつま先へと意識をもってゆく。


(ああ、これが……)


 沼の中には人影がある。意識が戻った時には気づくことができなかった人影。

 鏡の上に立って下を見下ろしたように、足から対象に立ち、同じようにこちらを見下ろす人影。

 人影は沼よりも黒く、その表情はうかがい知れないが、真っ赤な眼光を逸らすことなく見つめて来る。

 

 (これが、『混じる』ってことか……)


 沼の水位が増してゆく。気づけばもう、腰まで浸かっていた。

 真っ赤な瞳と見つめ合う、黒い瞳のヒロ。


 口を動かして言葉を発することもできないヒロは、意識で赤い瞳の自分に語り掛ける。

(助けられたのか……?)


 しばしの間を置いて、赤い瞳は答える。

『ああ。心配ないよ』

 優しさを感じさせるその声は限りなくヒロと同じだったが、沼の向こうからだからなのか、くぐもって耳に響く。

 赤い瞳は、急に笑いを堪えるように声を漏らし、今まで感じなかった邪悪さを滲ませて呟くように言葉を続けた。


『……ぶっ殺してやった……』


 鈍い意識に頭痛を感じるヒロ。水位は更に増し、へそのあたりまで到達していた。

 赤い目の自分が震えているのを感じる。

 押し殺したように漏れだす吐息。

 両方の赤い瞳から、流れ落ちる涙。

 赤い瞳の自分が笑っているのではない事を、足の裏で重なるヒロは理解できていた。

 わなわなと震え、必死に嗚咽を堪えようとする、もう一人の自分。

 悪辣な魂に浸食され、邪悪に染まりそうな自分が、苦しみに耐えている。


 足元に映る自分は他の誰でもない、自分自身。

 今、沼と認識している何かは、その境界に入り込み心と体を蝕んでいるのだと気づく。


 水位は胸に達するほどに増している。

 むせ返りそうな泥の匂いがたちこめて来る。

 足元の自分は、もう殆ど見えない。この泥水に完全に浸かってしまったら、あの鼠のように自分は人ではなくなるのだろうと思う。

 脳裏に浮かぶ友達、両親。


(……それでも、助けたかったんだ)

 喉まで泥に浸かるヒロは目を閉じ、白い少女を思い浮かべていた。


 沼に立っていると感じたときから、一切動くことがなかった空気が僅かに流れ、吹き始めた微かな風に、ヒロの黒髪が揺れる。

 うっすらと目を開けるヒロ。眼前には顎まで迫る泥水。

 

 「ヒロ!」


 遠くから近づいてくる、自分の名を呼ぶ澄んだ声。

 強まってゆく風が、たちこめる泥の匂いを散らし、果てのない沼と濃紫の空に強く差し込む白い光が見えた。

(良かった。無事だったんだ)


 頭上に降り注ぐ白い光は、ヒロの身体を抱きしめるように包み込み、身動き一つとることができなかった重い泥水は、 重力とは逆方向の空へ向かって立ち昇ってゆく。


 空も沼も真っ白な光に覆い隠され、動くことができたヒロは足元の自分を見る。

 そこには同じくこちらを見返す自分がいる。赤い髪と瞳。それ以外は毎朝鏡で見る自分と何ら変わらない。

 しかし、二人のヒロの接点、二人が重なる境界線には自分を中心に作られる波紋がある。  

 沼はその鈍い色と水位をを失いつつも、確かに今も存在する。

 そう思うヒロの意識は、白い光の中で再び遠くなっていった。


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