其の十六
山の社へ、少女のもとへと疾走するヒロ。
敷地を抜け、足を緩めることなく山の入り口から山道に入って行く。
鼠が山の何処かで様子を伺っていると聞いたが、山に入った瞬間から少女の位置をはっきりと知覚することができた。日下部家から引き離すために、社まで一気に飛んでいったのだろう。
(待っててくれよ!)
ズキン、ズキンと疼きの止まらない左掌を強く握りしめ、通い慣れた社までの道のりをひたすらに駈ける。
昨日の小石や風のように、何らかの抵抗があるかとも思ったが何も起こる事はない。その理由が、一切余裕がないせいだろうと、左掌の疼きと山全体から感じるざわつきで充分に理解できる。
昨日、眩暈がしたように揺れて感じた見慣れた木々は、明らかに軋みをあげ枝を揺らし、決して豊かではない葉を散らす。生命力をあまり感じなくなってしまったこの小さな山は、主の危機に悲鳴をあげ、嘆いているのだと感じる。
ヒロは流れる汗を意識に止める事もなく、一切足を緩めずにひた走る。
疲れはあるはずだが、感情の爆発と加速する鼓動に操られるように、少女のいる社に向かっていた。
小さな社の屋根の上に、傷つき所々に真っ赤な染みをつけた白い鷹が小さな体を震わせながら、視線の先でボタボタと涎を滴らせる、並の人の身の丈を超えるほどの大きな黒い鼠と睨みあっている。
昨日対峙した時に比べても明らかに力を増している大鼠。白い鷹は何度も攻撃を繰り出したが、大した手傷を与えることもできず、あしらわれるように反撃を受けてしまう。
(ヒロ……来てはいけないと言ったのに)
白い鷹もまた、山に入ってからヒロの位置を知覚していた。
大鼠は白い鷹の悲鳴を楽しみ、自分の爪に残る血液を指ごと舐めまわしては、人の姿であったことが疑われるような醜い顔を歪め、喉の奥からゴボゴボと声を出す。
その顔は愉悦に塗れ、喉を鳴らすその音が笑い声であろうと分かる。
白い鷹は自らの赤い血に染まった小さな体をがくがくと震わせ身を起こし、翼を広げて風を起こそうとするが、広げられた翼を持ち上げることもできず、苦痛に漏れ出すその声は一層醜く鼠の顔を歪ませるばかりだった。
涎を垂らしながらゆっくりと社に近づく大鼠。
充分に痛めつけ、いよいよ抵抗する力もなくなった白い鷹を乱暴に掴み、自分の赤く光る眼の前持ってくると、どす黒い欲望を滾らせて鷹を掴む掌に少しづつ力を入れる。
ギリギリと締め上げられ、潰されそうな苦しみにか細い悲鳴を漏らす白い鷹。
大鼠は興奮も頂点に達したのか、唇が捲れあがるほどの吐息を何度も何度も漏らし、その汚らしい前歯の間から嫌な臭いと涎を迸らせまき散らす。
もはや死は覚悟の上の白い鷹は、自らの身体に着いた血液を発火させ、自分ごと鼠の掌を焼き、思わぬ反撃に握る力を緩めた鼠の手の中でなけなしの力を振り絞り、痛みも構わず風を起こす。
風は鋭い刃となり鼠の指を数本斬り飛ばす。
どす黒い血液をまき散らしながら、痛みと怒りに地面が突き上げるような唸り声上げる大鼠。白い鷹はぎこちなく宙を舞い、最後の力を振り絞るように大きく一鳴きすると、頭上に大きな火球を作り出す。
二度大きく羽ばたき停空飛翔の姿勢を取り、大鼠に向かい打ち出そうとするが、大鼠は大蛇のような長い尾を地面に叩きつけ巨体を空中に躍らせると、白い鷹を火球ごと地面に叩き落としてしまう。
地面に打ち付けられた火球は消え失せ、高く鋭い悲鳴を上げた白い鷹は地面に這いつくばり、もうまともに動くこともできない。
(……せめて刺し違えなければ、ヒロが危ない)
息も絶え絶えに首を動かす白い鷹の視界には、人の頭を丸かじりできそうなほどに大きく開けられた口をこちらに向け、真っ暗な洞窟のような喉奥を晒しながら四つん這いで迫ってくる大鼠が映る。
(ああ、ごめんよ。ごめんよ、みんな……ヒロ)
もう声を上げることもできない白い鷹は、力ない己の身を情けなく想い、ただただ無念に謝罪の念を募らせる。
『ぐしゃ』
鈍い音が耳に聞こえ、恐る恐る固く閉じた緋色の瞳を開く白い鷹。
視界に映るのは右のこめかみと眼球の間に深々と石礫をめり込ませた大鼠。右目からボトボトと零れ落ちるどす黒い血液と、排水溝から響くような吸引音を喉から迸らせる。
社のある小さな丘はすっかり暗くなり、濁った赤い目を更に血走らせた大鼠がゆっくりと首を捻って睨む先には、丘の入り口に立ち、暗がりに燃える淡い緋色の双眸がある。
大鼠の喉から洩れる吸引音は嘶きに変わり、暴悪な感情をその目に込めて睨みつけるが、全く臆することなく睨み返す緋色の双眸に覗く光もまた、それに負けないほどの憤怒が滲んでいる。