其の十五
もう何も入っていない箱を放り投げ、懐中電灯を手に鷹を追うヒロ。
「待ってくれよ!」
ヒロの声は暗い階段に反響し、虚しく響き渡る。白い鷹の姿はもうどこにも見えはしない。
狭い階段を駆け上がり、低い通路に頭から滑り込む。
(何にもしてやれないなんて!)
自分の頼りなさ、何もできない歯がゆさに苛立ち、ただ固く冷たい土壁に左手を叩きつけるヒロ。
少女が楽しそうに眺め、指でなぞった鈴蘭の壁画が目に映る。
ついさっきまでは側にいて一緒に進んだ、わくわくするような秘密の隠し通路は、今は一人で焦燥と不甲斐なさを噛みしめて這いずるだけの、狭く息苦しいあなぐらに感じる。
(くそ! この通路、こんなに長かったのか!)
やけくそで両足を動かすが、懐中電灯を持っているため左手しか前進に使うことができないヒロは何度も肘を床に打ち付け、口には砂が入るが、お構いなしで出口目指して突き進んでいく。
やっとの思いで樹と梢のいる蔵の室内に這い出るヒロ。
咳き込み、唾を吐き捨て口の砂を追い出す。
「と、父さん……」
普段なら注意されるべき行動を取ったヒロの身体は汗に塗れ、その汗には砂や埃がまとわりついている。その姿を見た樹は息子を咎める事はなかった。
「天狗様はさっき飛んで行ったよ。一瞬だった――」
薄汚れてしまった姿の息子に声をかけながら、身体の埃を落としてやろうと伸ばされた母の手を拒絶し、蔵の出口を目指して走り出すヒロ。
「母さん、ごめん」
振り返ることなく走るヒロは、背後の両親に大声で伝える。
「二人とも、今日は蔵から出ないで! 俺が連れて戻るから!」
何か言おうと口を開いた梢の肩に手をやり、黙らせる樹。
「でも、樹ちゃん!」
「ヒロは天狗様が守ってくれる。今は止めてはいけない。行かせてやろう」
蔵の入り口に辿り着いたヒロ。
予想はしていたが、蔵の扉には光の筋が見える。その向こうには日の暮れた暗い屋外が見える。梯子の上の開口部を見上げるが、同様に奔る光の筋がある。
思わず両手で光の筋でなぞられた蔵の出口を叩くヒロ。
ヒロの両手は分厚い防音ガラスでも叩いたように、空中で重く固い何かに遮られて止まる。口惜しさに歯を食いしばり、何度も両手を叩きつける。
ズキン、と左掌が疼く。その疼きは、自分のものとは違う心臓の鼓動に共鳴するように脈動する。
(戦ってるんだ)
昨日の鼠と白い鷹の戦いが脳裏に蘇る。傷つき、悲痛な悲鳴を上げる白い鷹と、汚らしい前歯の覗く口元を涎まみれにしてニタニタと笑う大鼠。
途端にこみ上げ溢れる、言葉にできない感情。背中や胸から火でも出そうなほどの焦り、苛立ち、憤り。
ズキン、ズキンと疼きの増す左掌の×(バツ)印。
戦い傷つく白い鷹を、少女の姿を思うと、頭の芯がジリジリと音を立てて軋み、鼠にいたぶられているかと思えば、本当に血液が逆流しているのではないかと思うほどの眩暈と頭痛に吐き気がする。
(嫌だ!)
具体的な事など考えてもいない。今現在の何もできない自分と一人で何もかも背負おうとする少女に、ただそう思う。
「やれる!」
誰かに何かを言うために口から出たのとは違う言葉。
ただ自分と少女の現在を変えるためなら、何だってやれる。そう思って口から毀れ出た言葉だった。
裏付けもなく振り上げた左掌を、説明できない確信と共に光の筋で囲われた出口に押し付け、力強く握りしめる。叩きつけてもびくともしなかった空間は遮られるはずの空間を歪め、ヒロの掌には固いのか柔らかいのかもわからない感触が伝わる。
次第に白く発光し始めるヒロの左掌。握りしめた空間を引っこ抜くように、力いっぱい後ろに向かって左腕を引く。
パン!と弾けるような音が頭に響き、光の筋は消え失せた。
通れるかどうか確認することもなく、全速力で山の入り口に向かい疾走するヒロの髪は夕日も沈んでしまったというのに赤味がかって見え、真っ直ぐに前を睨みつけるその瞳はうっすらと緋色の光が燃えていた。