それでも、愛してるから。
「本日は大変良いお日柄でございますね」
「本当に。きっとこのご縁談は祝福されたものなのですわ」
勝手にすればいい。あの方でないのなら、誰だって一緒。この身を包む明るい色遣いの振袖とはかけ離れた気持ちで一杯だった。
燦々と輝く太陽が、ひどく憎らしく思えた。ここに、あの方はいらっしゃらないのに、どうしてお前はそんなに輝くのか、と-。
***
「汝、三鷹雅人は神楽咲を妻とし喜びをともに分かち合い苦しみはともに乗り越え生涯愛し続けることを誓いますか」
「誓います」
牧師の前で滑らかにそう答えたのは私の夫になる男性。形式だけの見合いを行い、1年半後には挙式という、名家同士の婚姻にしては急ぎ目の日程だった。私は逃げも隠れもしないのだから、もっとゆっくり進めてくれて構わなかったのに。しかし、社交界に出る人間の中では嫁き後れに該当する私の年齢ではゆっくりするわけにもいかなかったのかもしれない。
「…か?」
「咲さん?」
夫の呼びかける声ではっと気づいた。いけない、ぼーっとしていた。聞き返さなくても、聞かれた文言は分かっている。しかし、こんな間が空いてしまってから答えるのでは三鷹家に恥をかかせてしまう。どうしようと思案していると、唇をすっぽりと覆われた。
彼の唇で。
今更、ファーストキスでもないから黙って夫に身を任せる。誰でもいいとは思ったけれど、こうやって妻となる私の失敗をカバーしてくれるほど寛大なら私は幸運だったのかもしれない。
「牧師様、咲さんは誓ってくださるそうです。口付けで証明になりますよね?」
「え、ええ。まあ」
煮え切らない返事ではあったが、牧師は了承してくれた。
牧師が退席すると、両席でざわめくノイズが広がった。当たり前だ、こんな形式を無視した式なんて前代未聞だろう。
そこへ、夫が右手を掲げた。すると、ざわつきが一気におさまった。
「今、私達は夫婦となりました。両家のますますの繁栄は誓われたのです」
周囲がわぁっ!とわき、今までの厳正な雰囲気は一掃されて談笑の場と早代わりした。
-これが三鷹家次期当主の器、か。
私はその人の妻になるというのに、第三者の視点から彼を見ていた。
実感が、わかなかった。数回しか顔をあわせていないこともあって、彼とはまるで他人のような気がする。
だって、私には2年前まで、婚約者がいたから。
***
現婚約者-いや、夫は穏やかで常に敬語を崩さない気性の持ち主。まさに外見は虫も殺せないっていう感じ。三鷹家当主だから、本当は虫どころか人の人生くらい簡単に殺せそうだけど。
元婚約者-九条浩之は、その逆だった。見た目はすっごく怖くて、中身も九条ホールディングスの後継者としての冷酷さはあったけど、誠実で、優しかった。私は小さい頃はヒロにい、大きくなってからはヒロって呼んで、私の中心はヒロだった。
私は別にそれをだめなことだとは思っていなかったし、寧ろいいことであると信じていた。私とヒロは結婚するのだから、どんな不都合があるのかと。
「申し訳ありません。婚約を、破棄させてください」
私は考えなかった。ヒロの私に対する態度の意味を。その裏に隠れる、私への気持ちを。私が好きなのだとしても、相手はそうだとは限らない。
ヒロには、愛する女性ができたのだ。
ヒロは、いの一番に私の実家へ謝罪に来た。結局、私はその程度にしか思われていなかった。所詮は神楽家の付随品に過ぎなかった。
ヒロが謝罪に来たのは私が26歳のとき。そんな年で婚約を破棄されてしまえば、上流階級ではその後の婚姻は望めない。私の両親は顔が真っ青になった。けれど、これは小さい頃-神楽家がまだ栄えていた頃の婚約。事業で失敗し、落ちぶれている今となっては身分不相応な婚約だとあちらこちらでささやかれていた。そんな神楽家が世界の九条ホールディングスを相手取り戦えるはずもない。両親は小さく了承の意を示した。
でも。
「待ってっ!」
家を出たヒロを必死に呼び止める。ヒロは足を止めてこちらを振り返った。あたりは暗くて、表情は掴めなかった。
「ねえ、どういうことなの?」
「…ごめんな、咲。大丈夫、お前なら俺よりいい男がすぐに見つかるさ」
「そういうことを言ってるんじゃないっ!私はヒロがす」
私を厳しくいさめる眼差しに気づき、言いかけていた言葉を飲み込む。そんな、仕事用の眼差しを使われるだなんて思いもしなかった。私は、もう特別なんかじゃない。気づいてしまった事実を、必死で見ない振りをする。
「俺を本気で怒らせるな」
あまりに冷たい声と態度。呆然とする私を残し、ヒロはさっと踵を返して去っていった。
それからの私はとてもじゃないけれど目を当てられたものじゃない。ヒロに拒絶された事実に打ちのめされた私は手始めに興信所を使ってヒロの恋人を探し当てて嫌がらせを始めた。
-あの女がいるから、だから私は振られたんだ。
いつだったか、何かの本で読んだ。浮気をされた男は恋人を恨み、浮気をされた女は浮気相手を憎む、と。あのときの私はまさにそれ。ヒロはひどい女狐に騙されているだけなのだと、頑なに信じ込んでいた。
女の家には公衆電話から無言電話をかけ続け、
女の職場には男を寝取ったとFAXを送り続けた。
ついに業を煮やしたヒロに呼び出された。
「お前は自分が何をしたのかわかってるのか!?」
頭ごなしに怒鳴りつけるヒロの腕にはあの女が縋り付いていた。見ててイライラして、持っていた鞄をそいつにぶつけようと手を振りかざした。でもそれは呆気なくヒロに止められて不発に終わった。ヒロは一つ大きなため息を吐いて私と向き合った。
「お前には新しい婚約者を用意した。だからもう二度と俺たちに関わるな」
「っー!じゃあ、貴方は!?貴方は私に何をしたのかわかってるの!?」
必死の思いで告げたのに、返ってきた答えはひどく残酷なものだった。
「愛のない結婚生活を取りやめてやったんだ。逆に感謝されるべきだ。
-顔合わせは一ヵ月後の料亭『四季』にしてやった。詳細はお前の両親に伝えておく」
そのままヒロは振り返らずに去っていった。この期に及んでも、昔の優しかったヒロの記憶が、私にヒロを憎ませてくれない。
-愛してくれないなら、いっそその手で殺してくれればいいのに。
なんて。贅沢な願いかしら?
***
「咲さん、今日は本当にお疲れ様でした」
十六夜の月が寝所を淡く照らす中、夫はそう言った。
「お疲れ様でございました。
-早速で申し訳ないのですが、今後のことをお話してもよろしいですか?」
間髪いれず聞いた私の無礼な質問に夫は一瞬目を丸くしたが、すぐにまた微笑んだ。
「ええ。喜んで私の出来る範囲で貴女の希望を叶えて差し上げます」
「いいえ、希望だなんて滅相もない。
旦那様には何不自由ない生活をしていただければと思いまして」
「・・・それは一体どういう意味ですか?」
私は口の中で小さくため息を吐いた。ストレートに言うと夫がきっと泡を吹いて倒れてしまうだろうという心配をしてわざと濁して言ったのに、何の意味もない。私は雌の笑みを浮かべて答えた。
「嫌ですわ、私を邪険にされないのでしたら、いくらでも愛する方を作ってもよろしいのです。子供も作ってくださって構いませんわ。私、きっとその方々とうまくやっていけると思っていますもの」
だってそうでしょう?私は貴方を愛することは出来ない。だったら誰か愛する人と結ばれたほうが幸せに決まってるもの。
私達はある種友人のように親しくなれるかもしれない、そう期待をこめて夫の顔を見た。
「貴女は私を過信しすぎている」
苦しげに呟いた夫は私の肩を押してベットへと沈めた。
「…旦那様?私に御慈悲は無用ですわ。どうぞ愛されている方との間にお子を-」
「貴女を!愛しています」
突如発せられた言葉は到底信じられるものではなかった。
私は声が震えそうになるのを必死で抑えて口を開いた。
「・・・ヒ、九条様からお聞きになりませんでしたか?
二年前、私があの方の愛する方になした所業を」
私が言葉を切ると、夫は自らの唇で私に口付けをした。舌を絡める深いものだったが、私は抵抗することなくそれに答えた。つまるところ、私と夫は夫婦だから。
夫は唇を離すと私の顔を両手で固定した。
「私のことは名前で呼んでは下さらないのに、九条のことは名前で呼ぶのですか?」
光が消えた瞳が私を捕えた。
あの九条グループの御曹司を呼び捨てにするだなんて大した度胸だと私はそんなことを考えていた。
「咲さん。私の理性が切れないうちに答えたほうが利口というものですよ」
「…名前で呼ぶのはもう致しません。もうあの方とはなんの繋がりもありませんから」
「では、私のことは?」
「貴方が、それを望むのであれば」
「それを望まないはずがない。
ーそうそう、さっきの問いですが、貴女のことは知っていますよ。見ていましたから」
くっと自嘲するような笑みを浮かべ、夫はそう言った。
「そんな酷いことをなした私だと知っていても?」
「愚問ですね。そんな小さなこと、考えるまでもありません」
そして夫は笑みを深めた。
「私が人生上で犯した最大のミスは、貴女を見初めたときに手をこまねいてしまったことだ」
そして、おもむろに私の服に手をかけた。
ーだめ、心の準備が出来ていない。
私は必死で夫の胸板を押し返そうとした。夫はそれがなんでもないことのように涼しい顔で行為を続ける。
「ほら。貴女はこんなにもあんな奴に心を奪われている」
私は夫が発した言葉を信じられずに動きを止める。どうしてそんなことがわかる?今までほんの数回しか顔を合わせていないというのに。
夫はすかさず私が身に着けていた衣装を全て剥ぎ取った。でも、キスは許せても、それ以上はできない。それは、私にとっても夫にとっても、いいことなど何一つ生み出さないのだから。
ならば。
「-おっしゃるとおりですわ。私はあの方を愛しています。
あの方がどんなに酷いことを私になさったとしても、それは私にとって幸福以外の何物でもないのです。
-あの方の瞳に私が映り、あの方の記憶に私が残る。それこそが私の望むことですから」
ここまでの本音を告げたのは、皮肉にも夫が初めてだった。私はなんとか夫の手を退けて、ベッドを降りて土下座する。
「申し訳ありません。私は一生あの方を愛し続けます。
ですから、私のことなどお気になさらず、愛する方をつくってください」
夫はしばらく無言を貫いた。私はその沈黙に耐えられず、床を見続けた。
不意に、腕をつかまれ抱えられる。
「さっきの話を聞いていませんでしたか?私は貴女を愛しているのです」
「ですから、こんなわたしではなく幸せになれる方を、」
「それができないと申し上げているのです。
・・・・・・まあいいでしょう。子ができればきっと貴女も子に愛情がわき、私から逃げようなどとは一生思わないでしょう?」
そう言うなり夫は行為を再開した。
私は夫が言った意味さえ理解できずにただ翻弄されるだけだった。
-私には、どこにも逃げ場なんかないのに。
行為が終わった後、夫は笑いながら言った。
「貴女はご存知でしたか?いまや九条家より三鷹家のほうが財力という点では勝っているのですよ。私はあの青二才の言うことを聞いたふりをしただけです。
まさかとは思いますが、貴女にあれほど酷いことをしたあの男をまだ愛してるというなら、私に一生身を任せ、愛しなさい。
賢い貴女のことです、さもなければー。わかりますよね?」
心配要りません、貴女のことを世界一愛しているのはまぎれもなくこの私ですから。
呆然とした私に、夫はそう言って、私に優しい口づけを繰り返した。
これは、ある夫婦のすれ違いのプロローグ。