第9話 意表をつく子
陽向は再び、図書室の前に立つ。
廊下の突き当たり。
夕方へ傾き始めた光が、窓から斜めに差し込み、床のワックスの上に細い帯をつくっていた。
一歩、扉に近づく。
握りしめた手のひらが、じっとりと汗ばむ。
静けさの向こうに、紙の匂いがする気がして、胸の奥がきゅっと縮む。
緊張で心臓が飛び出しそうになりながらも、その瞳に宿る決意は固かった。
大きく深呼吸をして、意を決して図書室の扉を勢いよく開いた。
(よしっ!行くぞ!)
ガラッ!
図書室の空気が、廊下とは別の温度で肌に触れた。
音が吸い込まれるような静けさ。
時計の針の音。紙の匂い。
そして、いつもの窓際の席。
「………!」
柔らかな光の中で、本を開いていた俊輔は、すぐに顔を上げた。
一瞬だけ、視線がこちらを捉える。
「………っ」
陽向は一瞬固まる。
内臓がふわっと浮く。
息が短くなる。
足が止まりそうになる。
陽向は、歯の奥を噛み締めるようにして、緊張を振り払った。
視線は俊輔を真っ直ぐに捉えたまま、ズンズンと窓際の席へ強く歩みを進めた。
床の音がやけに大きく感じる。
自分の足音が、図書室の静けさを壊していく。
距離が近づいくそのたびに、心臓がどんどん大きく跳ねて、血が顔へ集まってくる。
「…あの……っ」
近くに立つと、途端に目を見れなくなった。
顔を上げたら終わる気がする。
目が合ったら、全部が崩れる気がする。
制服のネクタイあたりに視線を置いて、勇気の声を振り絞った。
「…生徒手帳を届けて頂き……ありがとうございましたっ!!!」
声が思ったより大きく出た。
勢いそのまま、ガバッと頭を90度に下げる。
視界が床だけになる。
頬が熱い。
耳まで熱い。
頭の中が真っ白で、何も考えられなくなった。
──その瞬間。
俊輔の優しくて柔らかい響きが、陽向の頭の上に降ってきた。
「……………意表をつく子だなぁ……」
思考が一拍遅れる。
俊輔の口から出てきた予想外の言葉に、陽向は恐る恐る顔を上げた。
「君が…生徒手帳の写真の、星野陽向さん?」
ズドギューーーンッッッッ!!
名字だけじゃない。
名前だけでもない。
フルネーム。
確かに生徒手帳の写真は入学後すぐに撮影されたもの。
その顔は、今の自分の見た目とは別人のようなモブ女だ。
頭の中で、写真の自分と今の自分が高速で入れ替わる。
脳が悲鳴を上げる。
「4月の最初に図書室来てた子が、最近来なくなって違う子が来るようになったなぁって思ってたんだけど…」
(……え…)
認識……してた……?
認識どころじゃない。
来てた。
来なくなった。
違う子。
“観察”されてた。
覚えられてた。
そんなこと、ある?
推しが?
自分を?
「…え…っだ…あ…の…っう…っ」
陽向の頭は大パニック。
言葉が喉で詰まり、息が変なところに入って咳き込みそうになるのを必死で堪える。
まさか、憧れの推しの先輩が、自分の存在を“景色”としてでも覚えていたなんて。
そんな陽向へトドメを刺すかのように、俊輔は優しくにっこりと眩しい笑顔を見せた。
「イメチェンしたんだね。同じ子だってわからなかったよ」
ピーーーーーーーーーーーーー(心停止音)
笑顔が、優しすぎて、直視できない。
声が、柔らかすぎて、耐えられない。
胸の奥が、きゅっと掴まれて、呼吸が止まりそうになる。
死んだ。
「失礼しますっっっっ!!!!!」
ドビューーン!!!
陽向は嵐みたいに踵を返し、そのまま図書室から逃走した。
扉がガラッと鳴って、背中に静けさが戻ってくる。
「…逃げちゃった………」
図書室には、困ったような優しい顔で微笑む俊輔の独り言がポツリと落ちた。
廊下に出た瞬間、空気が冷たい。
肺が勝手に酸素を求めて、息が乱れる。
脚が勝手に走っている。
制服が肌に張り付くみたいに重い。
やばい
やばい
やばい
やばい
陽向は廊下を猛スピードで走りながら、全身から汗が吹き出していた。
心臓が、完全崩壊状態に暴れている。
耳の奥でドクドクと血の音が鳴る。
先輩に………
認知された!!!!!!
その言葉が、胸の内側で何度も何度も跳ねて、嬉しいのか怖いのか分からないまま、ただ、世界だけが眩しくなっていった。
こうして陽向はめでたく無事に、朔也の地獄の特訓追加メニューからようやく解放された。
────────。
今日も、先輩はモテている。
それはもう、確認するまでもなく、当たり前の光景みたいにそこにあった。
陽向は、校舎から体育館へ向かう渡り廊下を歩きながら、ふと視線を落とした先で、昇降口付近のざわめきに気づいた。
人だかり。
女子の笑い声。
少し高く弾んだ空気。
その中心にいる人物を見つけた瞬間、胸の奥が、きゅっと鳴る。
──あ。
俊輔だった。
数人の女子に囲まれて、穏やかに笑いながら話している。
派手な身振りはないのに、不思議と視線が集まる。
声を張らなくても、空気の真ん中に立ってしまう人。
思わず、息が零れる。
あぁ……。
何て眩しいんだ。
もはや神々しい。
光の当たり方さえ、他の人とは違って見える。
昇降口のガラス越しに反射する陽の光が、俊輔の輪郭を柔らかく縁取っていて、現実なのにどこか遠い。
図書室以外の場所で、偶然先輩をお目にかかれるとは。
ただそれだけで、今日一日分の運を使い切った気分になる。
なんてこの上無い幸せなんだろう。
神様ありがとうございます。
この素晴らしい今日に感謝します。
胸の奥がいっぱいになって、理由もなく手を合わせたくなる。
取り敢えず拝んでおこう。
陽向は俊輔の方へ向きながら、そっと目を閉じて、両手を顔の前で合わせた。
「おい、なに拝んでんだよ。」
呆れたような声が、すぐ隣から落ちてくる。
「見ればわかるでしょ。先輩に拝んでんの。」
朔也のツッコミに、陽向は目を閉じたまま、何の迷いもなく答えた。
その声音は、冗談でも照れ隠しでもなく、あまりにも自然だった。
あれから。
あの、図書室での一件以来。
俊輔は、図書室で陽向に会うと、必ず穏やかに笑いかけてくれるようになった。
それは、誰にでも向けるような、礼儀正しい笑顔。
特別じゃないと、分かっているはずの笑顔。
それでも。
陽向はその眩しさに、毎回一瞬で撃ち抜かれてしまう。
息が止まり、心臓が暴れ、身体が勝手に硬直する。
そして結局、俊輔から一番遠く離れた席へと逃げ込んで、本を開いたふりをしながら、胸の内側で嵐を起こす日々だった。
「拝んでる場合じゃねーだろ!あれが目に入らねぇのかよ、すんげーモテてんぞ。妬かないの?」
朔也の言葉に、陽向はようやく目を開けた。
俊輔の方を一瞬だけ見て、すぐに視線を朔也へ向ける。
「まさか!先輩はリアコじゃないの!私、同担拒否じゃないもーん」
即答だった。
揺らぎも、迷いもない。
「リアコ…?なに?同担?」
「リアル恋してるって事!同担は同じファンの子だよ!」
それだけ言って、陽向はくるりと踵を返し、体育館の方へ歩き出した。
その背中は軽くて、どこか晴れやかだった。
「…は?なんだよそれ」
取り残された朔也は、思わず眉を寄せる。
あのひなが。
せっかく三次元の男にようやく目覚めてくれたと思ったのに。
それをしめたと利用して、せっかくここまで苦労して見た目もなんとかマシになってくれたってのに。
今じゃすっかり、陽キャ一軍の女子の輪にも入ってくれて。
ここまで来たら、何かが変わると思っていた。
全て順調だったはずなのに…
リアコじゃないだと?
それじゃあ結局、何も変わってないのと同じじゃねーか。
胸の奥に、ちくりとしたものが残る。
理由の分からない、不快感。
朔也は、自分がイラついている事に、遅れて気づいた。
無意識に視線が、昇降口の方へ戻る。
女子に囲まれ、相変わらず穏やかに笑っている俊輔。
遠すぎるんだ。
あまりにも。
世界が違う。
ひなの事だ。
生徒手帳のお礼以来、ろくに会話なんて出来てないに決まってる。
せめてもう一歩。
でなければ、ひなはとても現実でリアルな恋愛感情なんかに目を向けてくれない。
もう少しだけでも、藤崎先輩との距離を近づけられたなら。
そこまで考えて、朔也はふと立ち止まる。
(ん?てか俺、なんでこんなにあんなやつを必死で変えようとしてんだ?)
胸の奥で、小さく問いが鳴る。
答えは、まだ見つからない。
「ま、俺は優しい男だったって事だな。」
ポツリと零したその独り言は、誰に向けたものでもなく、まるで自分の奥底に潜む無意識へ、言い聞かせるみたいだった。
────────。
4月も、気づけば終わりに近づいていた。
入学式からここまで、陽向にとっての日々は落ち着く暇もないまま、ただ流されるように過ぎていった。
ひとつひとつは小さな変化なのに、全部合わせると、人生が別物になったみたいな春。
世間はもうすぐゴールデンウィーク。
街も、学校も、どこか浮き足立っている。
そんな、何でもないはずのホームルーム。
担任がいつも通りの調子でプリントを一枚、配り始めた。
「えー5月25日に生徒会役員総選挙があります。立候補したい人、推薦したい人は担任まで教えてください。」
その言葉が、教室に落ちた瞬間。
「……!」
朔也の頭の中で、まるでスイッチが入ったみたいに、世界が切り替わった。
“生徒会役員総選挙”
その文字を見た瞬間、脳内で電球が、ピコン!と音を立てて点灯した。
(これだーーーーーー!!!!!)
ホームルームが終わるチャイムを待つ余裕すらなく、
朔也は椅子を蹴るように立ち上がる。
ガラッ
教室の扉が、勢いよく開いた。
そして次の瞬間には、一年二組の教室へ、無遠慮にズカズカと侵入していた。
教室の空気が、一瞬、止まる。
「あ、朔也ー!」
最初に気づいたのは咲だった。
状況も分からないまま、いつもの明るい笑顔で手を振る。
その隣。
視界の端に、探していた人物がはっきりと映った。
俯きがちに、ノートを片付けている、その姿。
朔也は迷わず、二人の元へ歩み寄る。
「ひな!ちょっと」
有無を言わせない声。
そのまま、グイッと腕を掴んだ。
陽向の身体が、びくりと跳ねる。
「え、ちょ、なに……?」
逆の手には、さっき配られたばかりのプリント。
指先に、力がこもる。
そのまま、教室の外へ。
廊下に出た瞬間、人の波とざわめきが一気に押し寄せてくる。
「先生ー!先生ー!」
朔也の声が、やけに大きく響いた。
「どうした?黒川」
担任が振り返る。
ホームルーム終わりの廊下は生徒で溢れていて、その声に釣られるように、周囲の会話が一瞬静まった。
視線が集まる。
空気が、張りつめる。
朔也は、一瞬もためらわずにプリントを掲げた。
「星野陽向、生徒会役員総選挙に立候補します!推薦者、俺!!!」
言葉は一直線だった。
その瞬間。
世界が、ひっくり返った。
「えええええぇぇぇぇぇ!!!????」
陽向の悲鳴が、廊下に、教室に、学校中に響き渡る。
胸が凍る。
頭が真っ白になる。
理解が追いつかない。
周囲のざわめきが、一気に爆発する。
あらゆる感情が、陽向に向かって雪崩みたいに押し寄せてくる。
その隣で。
朔也だけが、妙に晴れやかな顔をしていた。




