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セカンドシーズン ─好きな人を、真っ直ぐに。─  作者: 波方 真季


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第8話 道理を貫け、雲外蒼天


ある日突然、事件は起こった。


教室に差し込む午前の光は、まだ柔らかい。

黒板の文字も、机の木目も、昨日と同じ色をしている。

そんな、何も起きないはずの朝のホームルーム終わり。


「星野、はいこれ」


担任の先生の声に呼ばれて、陽向は反射的に顔を上げた。

先生の手の中にあったものを見た瞬間、時間が少しだけ遅くなる。


生徒手帳。


「え?…あ、え?」


声がうまく出ない。


「図書室で拾われたぞ。2年生の生徒が今朝職員室まで届けてくれた。気をつけなさい。」


担任の言葉が終わりきる前に、陽向の脳内は一瞬でパニックとなった。

図書室に出入りしている二年生なんて…彼しかいない。


熱が、背中を駆け上がる。

喉がきゅっと縮んで、息がひっかかる。

教室の空気が、急に薄くなるみたいに感じた。


「◯×△◻︎☆%…っっっ!!!」


言葉にならない音だけが、喉からこぼれ落ちた。

震える両手で担任から受け取る。


紙の感触が、妙に鮮明だった。

自分の指が触れているところだけ、世界がやけにリアルで。

でも同時に、この手帳のどこか自分の知らないところに、彼の時間が触れたのだと思ったら、胸がじわりと熱を帯びた。


感情を抑えきれずに、陽向はそのまま廊下へ飛び出して、生徒手帳を天井へ向けて掲げた。


(…神………!!)


陽向は、両手でぎゅっと手帳を握りしめる。

まるで、それが尊いものすぎるかのように。


「…推しが触ったー…宝物だわぁー…額縁に入れて飾りたいわぁー…」


「常時携帯するもん額縁に入れてどーすんだよ」


背後から唐突に落ちてきた声に、陽向の心臓が跳ね上がった。


「わっ…!!!」


驚き声が、思いのほか大きく響いた。

振り返ると、そこにいたのは、やっぱり朔也だった。


「急に現れないでよ!!」


「こっちが歩いてたら急に目の前に飛び出してきて現れたのはお前だ!!」


陽向が頬を赤くして言うと、朔也は即座に言い返す。

朔也の視線は、自動的に陽向の手元へ落ちる。

その目が、興味を隠さずに細くなる。


「なに?推しが触ったの?それ?」


陽向の胸が、またきゅっと縮む。

口に出されるだけで、現実味が増してしまう。

けれど否定する理由もなくて、陽向は生徒手帳を両手で掲げながら見つめたまま、うっとりと答えた。


「そ…私が図書室で落とした生徒手帳を…先輩が職員室に届けてくれたんだって〜…」


その言い方は、祈りみたいだった。

嬉しさがあふれて、どうしても抑えられない。

陽向の瞳はきらきらして、今にも涙が落ちそうなほど潤んでいた。


朔也は一拍、沈黙した。

そして、やけに真面目な声で言う。


「おい、これはチャンスだ。」


「は、なに?」


陽向は思わず身構える。

その“チャンス”という単語が、怖い。

嬉しいのに、怖い。

心臓が一気にうるさくなる。


「今日、昼休みでも放課後でも、絶対図書室行け!先輩に話しかけるチャンスだぞ!」


「は!?いや!無理!」


反射だった。

頭の中で、図書室の窓際の席が浮かぶ。

あの静かな横顔が浮かぶ。

そこへ自分が近づく想像だけで、喉がきゅっと固くなる。


「は?無理って何だよ。お前、落とした生徒手帳届けて貰っておいてシカトか?お礼くらい言うのが当たり前だろ!それはお前人としてどーなんだよ。常識だろ常識。」


畳み掛けるような朔也の圧力が、陽向の胸をグサグサッと容赦なく滅多刺しにする。


陽向は、生徒手帳を抱えたまま、ぎゅっと肩をすくめた。

喉の奥に言葉が詰まる。

息が浅い。

何か言わなきゃいけないのに、声が出ない。


「そ…そりゃ…そーだけどぉ…」


絞り出した声は、情けないほど弱かった。

自分が“人として”どうかなんて言われたら、もう逃げ道がない。

しかも相手は“推し”。

推しに人としての礼を失うとか、人生で一番やってはいけない。


朔也は、さらに追い打ちをかけるみたいに目を細めた。


「お前、一生腹筋と走り込みの追加メニューやり続けたいの?」


その言葉が、陽向の脳内に“地獄の映像”を瞬時に再生させた。

汗。筋肉痛。呼吸困難。竹刀の掛け声。

思い出すだけで太腿が痛い。


これから一生あれをやり続けるのは、正直しんどい。


陽向は観念したように、肩から力を抜いた。

逃げたいのに、逃げたらもっと怖いことが待っている。


「…わかりました………」


自分でも驚くほど、小さく素直な返事だった。

朔也の顔が、一瞬で明るくなる。


「おっ!いいね!絶対行けよ!今日絶対だからな!」


そう言うと、朔也は陽向の肩をポンポンッと軽く叩いた。

その手は軽いのに、押されたスイッチみたいに、陽向の心臓がまた跳ねる。


朔也は楽しそうな笑みを浮かべて、そのまま廊下の向こうへ去って行った。


「面白がりやがって………」


陽向は朔也の背中を睨みつけながら、独り言を呟いた。







一日中、胸の奥が落ち着かなかった。


授業中も、ノートを取るふりをしながら、意識はずっと別の場所にあった。

チャイムの音。

椅子を引く音。

友達の笑い声。

それら全部が、どこか遠くで鳴っているみたいで、時間だけがやけに早く進んでいく。



そして──


まるで瞬きの間に切り替わったみたいに、決戦の放課後は訪れた。


(…よし…が、頑張るぞ…)


胸の前で、ぎゅっと拳を握る。

心臓の音がうるさい。

でも、逃げない。


何度も頭の中でシミュレーションした。

図書室の扉。

窓際の席。

顔を上げて、視線が合って。


お礼を言う。


ただそれだけ。

たったひと言。

それ以上、何も要らない。


イメージトレーニングは完璧。

言葉も決めてある。

声のトーンも、表情も。


大丈夫。

出来る。

すぐ終わる。

一瞬。


自己暗示みたいに心の中で唱えながら、一歩、また一歩と足を進めるたび、緊張は静かに、でも確実に高まっていった。


廊下の突き当たり。

少しだけ空気が冷たくなる場所。


図書室。


目的地の扉の前に立つと、陽向はそっと背伸びをして、ガラス越しに中を覗いた。


(………あれ……いない……?)


窓際の席。

いつもの場所。

あの、柔らかな光の当たる椅子。


空いている。


カラカラ…


なるべく音を立てないように、

静か〜に扉をゆっくりスライドさせる。


ゆっくりと一歩、図書室へ足を踏み入れる。


紙の匂い。

時計の針の音。

静けさ。


キョロキョロ。


本棚と本棚の間の通路も、恐る恐る覗いてみる。


……いない。


先輩の姿は、どこにも無かった。


陽向は、図書室へ毎日のように通っているけれど、先輩は毎日利用しているわけじゃない。

当然、会える日もあれば、会えない日もある。

それは、今までも何度も経験してきたこと。


胸に溜め込んでいた緊張が、一気に抜け落ちていく。


陽向は、大きな溜め息と一緒に、安堵の声を漏らした。


「なーんだー!居ないじゃーん!」


次の瞬間。


空気が、凍った。




「居ないって、誰?」




背後から、落ち着いた声。


「…………っっっっ!!!!!!」


反射的に振り返る。


図書室の入口。

逆光の中。


そこに──俊輔が立っていた。


脳が、理解を拒否する。


ズザーーーーーーーーーッッッッ!!!!


次の瞬間、陽向の身体は完全に制御を失っていた。

一気に後退。


ガンッ!!!!!


勢い余って背中から本棚に激突。

ぐらり、と揺れる本棚。


そして──


バサバサバサバサッ!!!!


頭上から、重たい音を立てて、本が何冊も降ってくる。


「〜〜〜〜……っっっ!!!」


痛み。

羞恥。

混乱。


全部が一気に押し寄せて、声が出ない。


頭の中は真っ白で、陽向はただ我武者羅に、足元に散らばった本を拾い集めた。


手が震える。

息が浅い。


そのとき。





「大丈夫?」





すぐ近くで、声。


ふわり──


俊輔が駆け寄り、陽向の隣でしゃがみ込んだ。

その動きに伴って、空気が揺れ、柔軟剤なのかシャンプーなのか、柔らかな香りが鼻先を掠めた。


清潔で、穏やかで、一瞬で“先輩の香り”だと分かる匂い。


(ギャーーーーーーーッッッッ!!!!!!!!)


ビーッ!ビーッ!ビーッ!

頭の中で、警報サイレンが大音量で鳴り響く。


心拍数、限界突破。


俊輔が落ちた本を拾っている、そのすぐ隣で、陽向はガタガタと震えながら、拾った本を必死で本棚に突っ込んだ。


順番も、ジャンルも、全部無視。

とにかく戻す。


撤収ー!

撤収ー!

全陣撤退ーー!!!


頭の中の小人たちが大戦争。

「逃げろー!」「今だー!」「早くー!」

意識の底から、逃げろという命令が叫ばれる。


拾い終えた本を戻している俊輔の方へ、ペコッ!と、ほぼ反射で深くお辞儀をして。


次の瞬間。


ピューッ!!


陽向は全力で踵を返し、そのまま図書室から逃走した。


廊下に出た瞬間、肺いっぱいに空気を吸い込み、心臓の音が耳を打つ。


(……無理……!!)


頬が熱い。

頭が痛い。

恥ずかしさで、今にも泣きそうだ。






トボトボと、靴音を殺すように廊下を歩きながら、陽向は昇降口へ向かっていた。

さっきまで心臓を掴まれていたような感覚が、少しずつ遠のいていく代わりに、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような気分が広がっていく。


放課後の校舎は、部活へ向かう生徒の雑談や、これからどこへ遊びに行くかの友達同士の会話が繰り広げられ、喧騒に溢れていた。


(はて。何かを忘れているような…?)


歩きながら、ふと立ち止まる。

胸の奥が、もぞもぞと落ち着かない。

大事なものを、置き忘れてきた気がする。


「…………。」


陽向は下駄箱の手前で足を止め、腕を組んで片手を顎に添えた。

眉間に小さく皺を寄せ、記憶の引き出しを一つひとつ開けていく。


──放課後。

──図書室。

──先輩。


(……あれ……?)


思考が絡まり始めた、その瞬間。


「お、陽向。」


「…!」


聞き慣れた声。


「蒼太!」


廊下の角から、蒼太が姿を現した。

剣道部の道着を抱えたまま、肩の力が抜けた自然な立ち姿。


「部活?」


「おう、今から」


そのやり取りが終わるより早く。


「お!ひな、どうだった!?喋ったか!?」


当然のように、蒼太の背後から、もう一人が現れた。

テンポの早い声。

無駄に明るい圧。


「………っ!!」


その瞬間、頭の中で、点と点が一気に線になる。


「あーーーー!!!忘れてたーーー!!!」


校舎に響く絶叫。


「はあぁぁぁ!!??」


朔也の声が、呆れたように響き渡った。


「だってお前、さっき図書室向かってなかったか?」


「いや、行ったよ!行ったのよ図書室には!」


「先輩には会えたの?」


「うん、会えたの」


「それで何で忘れんだよっ!バカ!」


胸に突き刺さる直球。

陽向は視線を泳がせ、曖昧に笑う。


「いや…そのぉ〜…まぁこれには色々と…ありまして」


「ねぇよ!くそ短期記憶障害!!」


その言葉に、空気が一瞬、ピリッと張りつめた。


「おい朔也、陽向はそーゆう特性なんだろ?そんな言い方すんなよ」


蒼太の声は低くて、穏やかだった。

荒れかけた空気を、静かに押し戻すような響き。


「………ハウス!」


「え?」


唐突に、朔也が指を突き出した。

まるで犬に指示を出すみたいに、図書室の方向を示す。


「図書室へ、ハウス!」


「えぇっ!?死ぬ死ぬ死ぬ」


喉がきゅっと縮む。

心臓が、また騒ぎ出す。


「お前、推しへ礼儀を欠くのかよ。最低だな」


「…ゔ………っ」


言い返せない。

ぐうの音も出ない。


二人のやり取りを見ていた蒼太が、フン─と小さく鼻から息を吐いた。


「………陽向。」


静かな声で、名前を呼ばれた。


「緊張するのはわかるけど、落とした生徒手帳、先輩に届けて貰ったんだろ?それでその後も頻繁に顔合わせて、そんな大事なものを拾って届けてやった相手から何のひと言も無くてシレッとされるって…逆の立場からしたらどうだ?」


言葉は淡々としているのに、逃げ場がない。

陽向の胸に、ずしりと重みが落ちる。


「…確かに………」


小さく、素直な声。


「恋だのなんだのは関係ない。これは道理の問題だ。最後までちゃんと人としての筋を通せ。」


その一言は、真っ直ぐで、誤魔化しがなかった。


パチパチパチパチ!!


突然の拍手。


「よっ武士道精神!令和の侍とはこの男!」


茶化す朔也の声が、やけに明るく響く。

その横で、陽向は観念したように肩を落とした。


「…わかったよ…戻るよ……」


声は小さいけれど、逃げないと決めた色が滲んでいる。


俯いた陽向の肩に、そっと手が置かれた。

温かくて、大きな手。


「偉いな。頑張れよ。」


さっきまでの厳格さが嘘みたいに、蒼太は柔らかく笑っていた。


「勇気出して雲を突き破ったら、見えてくる景色があるってな。」


その笑顔に、胸の奥がじんと熱くなる。


「うん…っ頑張るっ!!」


陽向は顔を上げ、深く息を吸った。


恐い。

緊張する。

逃げたい。


それでも。


誰かが背中を押してくれた今なら、ほんの一歩くらい、踏み出せる気がした。


夕暮れに染まる廊下を、陽向はくるりと踵を返し、再び図書室へと向かった。




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