第6話 さよなら、透明人間
翌日。
陽向は、いつもより二時間早起きした。
薄いカーテン越しの朝の光はまだ冷たくて、部屋の空気も少し硬い。
けれど胸の奥だけが、昨夜の続きを抱えたまま落ち着かなくて、布団の中でじっとしていられなかった。
朱里との約束。
それは、教えてもらったスクールメイクで学校に行く事。
マスクも禁止。
鏡の前。
昨日までは見慣れないはずの道具たちが、今日の陽向にとっては“武器”みたいに並んでいる。
カラコンつけて、コンシーラーとパウダーで肌キメ補正、アイテープで二重瞼、アイシャドウで目尻ライン、涙袋爆誕、ビューラーで睫毛を上げて、その上から睫毛美容液、ハイライトとシェーディングで鼻整形、小顔、チークで血色、最後の仕上げにオーバーリップ。
指先はまだ慣れていなくて、途中で何度も止まった。
左右のバランスがわからなくて、鏡に顔を寄せたり引いたり、呼吸まで浅くなる。
なのに、その不器用さの中に、確かに“昨日とは違う自分”がいる気がしてしまう。
38ミリのコテでサイドをふんわり内巻きに、毛先を外側にハネさせて、ヘアオイルで髪の毛を整えて。
コテの熱が近づくたび、びくりと肩が跳ねる。
でも、髪が形になっていくのを見ると、胸の奥がじわっと熱を持つ。
「可愛いは、作れる」──朱里の声が頭の中で鳴る。
よし、多分…完璧だ。
鏡の中の自分は、まだ自分なのに、ほんの少しだけ“知らない誰か”に見えた。
それが嬉しくて、同時に怖い。
「ひなー!まだ寝てるのー?」
母親の声が響いた。
一瞬、心臓が跳ねる。
「今行くー!!」
キーホルダーをジャラジャラ付けたスクールバックを抱えて陽向はリビングへ向かった。
朝の匂い。
味噌汁とトースト、台所の金属音。
そのいつもの風景の中で、母の目だけが、陽向の顔へ吸い寄せられるみたいに止まった。
「あんた…それで学校行くの?」
「え?変?」
「化粧して校則平気なの?」
「この程度ならみんなしてるよ」
「誰だか認識して貰えないよね」
「誰も私の事なんて元々認識してないよ!」
そんな会話をしながら早々と朝食を済ませて、いつものように、やばいやばいやばい!時間やばい!と騒ぎながら、陽向は家の玄関を飛び出した。
ローファーのつま先をトントンと地面に叩つけながら、息が上がる。
“焦る”という癖は、結局今日も変わらない。
でも、胸の奥の焦りは、時間だけのせいじゃなかった。
────────。
学校の駅の最寄りに到着すると、胸がざわついた。
人の流れ。
改札の音。
ホームのアナウンス。
いつもと同じはずなのに、今日は何もかもが少しだけ大きい。
「うわ…マスクしないで学校行くとか…小学校以来だわ…怖……」
自然と下を向いてしまう陽向。
視線を上げれば誰かの目とぶつかる気がして、足がすくむ。
マスクがないだけで、世界はこんなに広くて、眩しいのか。
オーラを消して、静かに恐る恐るそっと教室へ入った。
床の光沢、教室のざわめき、椅子を引く音。
全部が「ここにいる自分」を捕まえようとしてくるみたいで、陽向は呼吸を浅くしたまま入る。
下を向いたまま、コソコソと机に向かい、自分の席に座った。
そのまま音を立てず、誰の事も見ずに、誰にも気づかれないように鞄からペンケースやノートを出す。
指先が震えているのが自分でもわかった。
ペンケースを取り出す手もぎこちない。
ノートを机に置くのも、音が出ないように慎重に慎重に。
(誰にも気づかれない……よし、このまま……このまま透明でいよう……)
そう願った。
……けれど。
透明人間でいられる日は、今日で終わりだった。
「え…星野さん…?」
教室の後ろから、女子の声がふっと響く。
「え、まじ?」
「いや、だって星野さんの席じゃん」
呼び名が、自分の名が、教室の空気を切って届いた瞬間。
陽向の背筋が、氷みたいに固まった。
その直後、バタバタと陽向の席へ向かってくる足音に、陽向は思わずぎゅっと肩を強張らせた。
(うわ、来た)
身体が先に“防御”を始める。
視線を上げられない。
息も浅い。
過去の記憶が、勝手に現実へ重なる。
「星野さん!?髪切った!?」
「めっちゃイメチェンしたね!」
「マスクしてないところ初めて見た!」
「くっそ似合ってる!ちょー可愛い!」
声が明るい。
笑い声も軽い。
なのに陽向の脳は、すぐにそれを“罠”として処理しようとする。
(どうしよう…恐い!)
中学時代ずっと虐められていた陽向は、恐怖で固まる事しか出来なかった。
そんな陽向の顔を、1人の女子が覗き込んだ。
距離が近い。
顔が近い。
香水の甘い匂いがする。
それだけで心臓が暴れる。
「てかカラコンしてる?めっちゃ盛れてるね!どこのカラコン?」
「え…えーと…ルミエール…だったかな」
声が小さく、喉が乾く。
けれど返した瞬間、言葉が“撃たれる”のではなく、“受け取られる”感覚があった。
陽向の言葉に、違う女子が反応した。
「え!一緒やん!何番?」
「06番…」
「まじ!?私の03番!06番もそんな盛れるんだね!てかルミエールしか勝たんよねっ」
笑い声が増える。
否定じゃない。
揶揄でもない。
“会話”として返ってくる。
「星野さんって、今までメイクしてたの?ずっとマスクしてるからわかんなかったよ!」
「ハイライトめっちゃ自然だねーどこの?」
矢継ぎ早に投げかけられる質問に、陽向はタジタジだった。
まさか陰キャオタクのいじめられっ子だった自分が、こんなにキラキラした女の子に囲まれて、美容の話題の中心になる日が来るなんて、一体世の中がどうひっくり返ったらこんな事が予想出来たのか。
「ハイライト…どこのだったかな…」
陽向は鞄の中から化粧ポーチを取り出そうとして、手元が緊張で慌てて思わず落としてしまった。
いつも何でも開けっぱなしの陽向の化粧ポーチは、中身がバラバラと飛び出した。
床に散らばるコスメ。
小さなパウダーのケースがコトンと転がり、アイテープの箱がカラカラと音を立てて回った。
その瞬間、教室の空気が “ふっ” と柔らかく揺れた。
──笑われる。
──蹴られる。
──「汚っ」って言われる。
身体が勝手に、そう予測して冷たくなる。
でも。
「あ、待って拾う拾う!!」
「ごめんごめん、私も手伝う!」
しゃがみ込んだ陽キャ女子たちが、自然に床のコスメを拾い集め始めた。
指先は丁寧で、動きは迷いがなくて、まるで“それが当たり前”だと言うみたいに。
その光景が——陽向には、信じられなかった。
(え…怒られない…?バカにされない…?笑われない…?)
頭が処理を拒む。
小学校でも中学校でも、物を落としたら わざと蹴られたり、拾おうとしてしゃがんだら 背中を押されたりそれが当たり前だった。
けれど今——
女子たちは落ちたコスメを丁寧に拾い、ひなたの化粧ポーチに戻してくれていた。
「はい、これハイライト。ラメ細かくてめっちゃ可愛いね」
「こっちコンシーラー!セラフィットのやつじゃん!」
「てか、星野さんめっちゃ女子力高くない?」
「星野さん、メイク上手いよね!?初心者じゃなくない!?」
陽向は俯いたまま、胸の奥がぎゅうっと熱くなる。
(なんで…なんでこんな優しいの……?)
「……あ、ありがと……」
小さく絞り出した声は震えていた。
俯いた瞬間、自分の足元にリップが落ちている事に気がついた。
慌てて拾うと、そのままガンッと机に頭をぶつけた陽向。
「いった〜…」
「あはは!大丈夫?」
「なに、化粧ポーチぶち撒けるわ頭ぶつけるわ、おっちょこちょいなの?ADHDかよ」
ドクンッ──
その衝撃的な言葉に、陽向の心臓は凍りついた。
息が……出来ない。
空気が一瞬で薄くなる。
さっきまでの明るさが、全部“前振り”だったみたいに感じてしまう。
耳の奥がキーンとして、音が遠ざかる。
「っ……どう……っして……?」
声は、自分のものじゃないみたいだった。
「え、まさかガチ?まぁ通級行ってるしワンチャンそうなのかなぁとはぶっちゃけ思ってたけど」
陽向は震え出した。
みるみる顔は青ざめていく。
どうしよう。
バレた。
また虐められる。
陽向の全身は一気に恐怖に襲われた。
背中が冷たい。
指先が痺れる。
涙が出る前に、身体が固まっていく。
「ウチ、兄貴もママもADHDだから。ここの学校には、兄貴が通ってたから私も受けたんだよね。」
「…え?……そうなの?」
「ここの学校、通級あるから意外と結構多いよ。ADHD。」
──嘘みたいだ。
受け入れられなかった世界が、今までのルールで動いていない。
まさか、こんなにあっさり受け入れられる事があるなんて。
陽向は信じられなかった。
小学校、中学校というこれまでの狭い空間では、自分は特殊で、誰にも理解なんてされないと思っていた。
「私、咲。ひなたって呼んでいい?まじで何でも知ってるからADHD扱いのプロなわけ。これから色々助けてあげるよ。サポートが必要だよね?」
ブワッと込み上げる気持ちに、思わず陽向の瞳から涙が溢れた。
声が出ない。
嬉しいのか、怖いのか、分からない。
ただ、堤防が壊れたみたいに涙だけが落ちる。
咲と名乗ったその子は入学して初めて見た時、あまりにも綺麗で思わず見惚れた子だった。
一ノ瀬咲。
明るいアッシュベージュのロングヘアは、ゆるく巻かれて肩口で揺れ、動くたびに光を含んで、教室の空気ごとキラリと塗り替えていく。
顔立ちは、驚くほど端正で、目、鼻、口、そのすべてが、最初から正しい位置に収まっている。
教室に立っているだけで、男子の視線が無意識に吸い寄せられ、女子がお手本として観察するように様子をうかがう。
そんな“教室のマドンナ”という言葉が、何の誇張もなく当てはまる存在。
制服を着ているだけなのに、まるで雑誌の1ページが、そのまま教室に紛れ込んだみたいだった。
明るくて、華やかで、大人っぽくて、何もしていなくても中心に立ってしまうようなその女の子は、ブスで陰キャな自分とは一生無縁だと思っていた。
「泣くなよー!出たー!ADHDの感情ジェットコースター!」
笑いながら言う咲の声は、雑じゃなくて、“分かってる側”の軽さだった。
その軽さに、陽向の胸の奥が、ふっとほどけていく。
高校入学からニ週間弱。
陽向は初めて“友達”が出来た瞬間だった。
────────。
そして、放課後。
教室の喧騒が少しずつ薄れていく中で、陽向は一人、校舎の廊下を歩いていた。
胸の奥が、朝からずっと落ち着かない。
授業中も、友達と話している時も、頭の片隅にはずっと、同じ名前が浮かんでいた。
「いるかな…藤崎先輩………」
声に出した瞬間、その名前が現実の重さを持って胸に落ちてくる。
今日は、いつもと違う。
メイクもしている。
髪も整っている。
友達も、できた。
それなのに。
心臓は、やけにうるさい。
手のひらに、じっとりと汗が滲む。
スクールバッグの持ち手を無意識に強く握りしめ、陽向は図書室へと向かった。
廊下の突き当たり。
静けさが、少しずつ濃くなっていく。
そして、図書室の前に立つと、陽向は深く息を吸い、こっそりと扉の小さな窓から中を覗いた。
「…わ……いた………」
視界の端、窓際の席。
柔らかな光の中で、本を読んでいる姿。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
居て欲しかったのに、居て欲しくなかったような。
嬉しいのに、怖い。
会いたかったのに、逃げたい。
鼓動が早すぎて、この音が図書室に響いてしまうんじゃないかと本気で思った。
でも、ここまで来て引き返す理由はなかった。
意を決して、陽向はそっと扉に手をかけた。
ガラッ
静かな音が、図書室に溶ける。
「………?」
一瞬。
藤崎先輩と、目が合った。
ほんの一瞬。
僅かに首を傾げたような、昨日よりも、少しだけ長かった気がする視線。
──けれど。
その目はすぐに逸らされ、俊輔は何事もなかったかのように、再び本へと視線を落とした。
それだけ。
それだけなのに。
胸の奥がきゅんとなった。
陽向は小さく息を吐き、何もなかったふりをして、本棚へと向かった。
指先で背表紙をなぞる。
内容は、ほとんど頭に入ってこない。
適当に一冊を抜き取り、遠慮がちに、俊輔から一番離れた席へとそっと腰を下ろした。
椅子の脚が、かすかに鳴る。
それだけで、肩が跳ねる。
ページを開いてみるけれど、文字はただの模様みたいに並んでいるだけだった。
(……やっぱ……めっちゃかっこいいなぁ〜)
自分でも呆れるほど、視線は勝手に、窓際へ吸い寄せられる。
伏せた睫毛。
ページをめくる指先。
背筋の伸びた横顔。
陽向は、時々チラッと俊輔を盗み見た。
見た目が変わった。
世界が少し変わった。
けれど、自分の中身は何も変わっていない。
声をかける勇気も、目を合わせ続ける度胸も、何かを始める覚悟も。
今の陽向には、まだ、なかった。
ただ、同じ空間にいること。
同じ時間を共有していること。
それだけで、
胸の奥がいっぱいになる。
ページをめくる音と、時計の針の音と、自分の心臓の音。
その全部に包まれながら、陽向は静かに、そこに座っていた。
今の陽向には、これが出来る事の精一杯の限界だった。




