第3話 初めて出会った君
「図書室ー、図書室ー…」
入学式の翌日。
教室では、すでに小さな輪がいくつも出来はじめていた。
名前を呼び合う声。
席を寄せ合って弁当を広げる音。
昨日まで他人だったはずの距離が、驚くほど簡単に縮まっていく昼休み。
クラスメイトが必死で新たな人間関係の構築に勤しんでいる中で、陽向は当たり前のように一人で廊下を彷徨っていた。
「あった!ここだ!」
新しく通う学校の、自分の唯一の居場所になるであろうと分かっている場所。
目的地の図書室に辿りつくと、陽向は扉に手を掛け、勢いよく横へ滑らせた。
ガラッ。
──その瞬間。
「…………っ」
言葉が、喉の奥で凍りついた。
窓際の席。
柔らかな春の日差しを背に受けて、ひとりの少年が座っていた。
────────。
「…………………。」
時間が、そこで一度、止まった気がした。
トクン────────。
心臓が一拍、遅れて鳴る。
呼吸の仕方を、一瞬だけ忘れる。
まるで、二次元の世界から、そのまま飛び出してきたかのよう。
現実感のない、美しさ。
ページをめくる指先は静かで、伏せられた睫毛の影が、頬に淡く落ちている。
透き通るような白い肌。
色素の薄い栗色の髪が、光を受けて、まるで金糸のように輝いている。
「………………」
少年は扉の音に気づき、ふと顔を上げた。
ほんの一瞬。
視線が陽向と交わるも、何事もなかったかのように、すぐに本へと戻っていった。
それだけだった。
それだけなのに。
陽向の全身は、石みたいに固まって動かなかった。
足も、指先も、声も。
まるで世界の方が先に進んで、自分だけが取り残されたみたいに。
ドキドキ…
ドキドキ…
高鳴る鼓動を必死で抑えながら足を踏み入れ、隠れるように本棚と本棚の間の通路に駆け込む。
暫く本棚を端から端まで眺めて、この新しい学校ではどんな物語と出会えるのか、胸を弾ませながら適当な本を選ぶ。
本を手に取った後、そっと本棚の影から窓際の少年を、息を潜めて静かに覗いた。
「………っ」
胸の奥で、何かが小さく、確かに音を立てた。
知らない感情。
触れてはいけない気がする予感。
ここは、静かで安全な、いつもの“逃げ場所”になるはずだった図書室。
そのはずなのに。
その日、陽向はまだ知らなかった。
この場所が、この出会いが、自分の世界の色を根こそぎ塗り替えてしまうことを。
────────。
翌日。
その日は入学オリエンテーション。
新入生は学年ごとに整列させられ、ぞろぞろと講堂へ向かった。
まだ身体に馴染まない制服。
少し硬い上履きの音が、廊下に不揃いに響く。
私語は禁止、と言われているはずなのに、あちこちで小さな声が漏れていた。
講堂の扉が開くと、ひんやりとした空気が肌に触れた。
体育館とは違う、どこか音を吸い込むような静けさ。
前方には壇上。
その上に並ぶ長机と、ずらりと置かれた椅子。
背後の校歌の額縁と、少し古びた校章。
新入生たちは、指示されたブロックごとに席へと案内されていく。
「詰めてくださいー。もう一列いけますー」
教師の声に促されながら、知らない誰かと肘が触れる距離で座る。
誰もが、どこか居心地悪そうに、前を向いた。
やがて、マイクのスイッチが入る音が響く。
キィン、と軽いハウリング。
「えー、新入生の皆さん。改めまして、ご入学おめでとうございます」
校長の挨拶が始まる。
落ち着いた声で語られる、伝統だの、校風だの、期待だの。
言葉は丁寧で、悪い内容じゃないはずなのに、耳をすり抜けていく感覚があった。
「自己責任」という言葉が、何度も繰り返される。
中学校とは違う、ということ。
守ってもらえる場所ではない、ということ。
(……眠いな…)
陽向は、ぼんやりと思った。
知らない言葉が増えて、求められることが増えて、出来ないことが、そのまま結果になる。
講堂の天井を見上げると、照明がやけに遠く感じた。
周りを見渡せば、真剣にメモを取っている子。
スマホを太ももの上でこっそり触っている子。
すでに眠そうな顔をしている子。
陽向はまだ何一つ分からないまま、抑揚のない教師達の話しに集中力の持続は途切れてしまい、半分夢の中に居るような状態で、オリエンテーションは淡々と続いていった。
説明が一段落した頃、壇上の端にいた教師が、マイクを持ち替えた。
「続いて、生徒会からの案内があります」
ざわ、と空気が揺れる。
「生徒会役員の皆さん、前へ」
舞台袖から、数人の生徒が現れた。
同じ制服のはずなのに、どこか雰囲気が違う。
背筋の伸び方。
歩き方。
視線の置き所。
“上の学年”というだけでは片付けられない、すでにこの学校の中で役割を持っている人間の空気。
一人、また一人と並ぶ中で。
──陽向の呼吸が、止まった。
(……あ…………)
夢心地だった陽向の脳は一瞬で覚醒する。
昨日。
図書室。
窓際。
柔らかな日差しの中で、本を読んでいた、あの少年。
透き通る肌。
色素の薄い栗色の髪。
落ち着いた佇まい。
彼は、中央より少し横の位置に立ち、役員紹介が始まると軽く一歩前へ出た。
《2年1組、藤崎俊輔です。》
マイク越しの声は、穏やかで優しくて、落ち着いていた。
無理に張り上げることもなく、それでいて、講堂の隅まできちんと届く声。
一言、名乗っただけなのに、
周囲のざわめきが自然と静まっていく。
(めっちゃイケメンじゃない!?)
(ねっ!ヤバ!)
後頭部の後ろから、同級生の女子の会話が耳に届いた。
(…生徒会…役員………藤崎…俊輔………)
その言葉が、少し遅れて胸に落ちる。
《生徒会では、学校行事の運営や、皆さんの学校生活をより良くするための活動を行っています──》
ひと通りの役員紹介が終わった後は、生徒会長からの丁寧で、淡々とした説明。
しかし陽向の耳には、ほとんど入ってこなかった。
壇上の脇に控える俊輔へ、視線が勝手に向かってしまう。
昨日は、図書室という“逃げ場所”で。
今日は、講堂という“現実の真ん中”で。
別の角度から見ても、やっぱり、その存在は特別だった。
説明が終わり、生徒会役員たちが一礼すると、講堂に小さな拍手が起こった。
その中で、陽向だけは、手を動かすのを忘れていた。
胸の奥が、ざわついている。
この気持ちは………なんだろう。
物語の登場人物や、二次元のキャラクターへ、きゅっと胸が締め付けられるように。
今までずっと、空想の世界で抱いていた、馳せる想いのように。
知ってる感情。
近づく事は出来ないと、分かっている距離。
現実で、三次元の世界で、生身の人間相手に、まさかこんな気持ちになるなんて。
初めてだった。
自分の中で、確かな何かが、確実に変わる。
新しい季節が訪れる。
────────。
その日の昼休みも、陽向は図書室で過ごした。
けれど、利用する生徒は誰も来なかった。
今時、どんな本でもスマホやタブレットで時間も場所も問わずに簡単に読める時代。
わざわざ足を運んで、紙の本を手に取ろうとする高校生は、そう多くない。
だからこそ、陽向は図書室が好きだった。
ここは、“誰にも邪魔されない空間”。
静かで、ひっそりとしていて、自分がここに居てもいいと、誰からも何も言われない空間。
昨日は思いもよらない出会いがあって、緊張のせいで、ゆっくり本を選ぶ余裕もなかった。
その時に、適当に手に取った一冊は、自分の中ではあまり刺さらず、流し読みするように、気づけば一日で読み終えてしまっていた。
(また放課後に来て…ゆっくり選んで、今日は2〜3冊借りて帰ろ!)
そんな小さな予定を立てるだけで、胸が少し弾む。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴ると、
陽向は名残惜しそうに本を閉じ、慌てて教室へ戻った。
────────。
帰りのホームルームが終わると同時に、陽向の足はすぐさま図書室へ向かっていた。
中学校の図書室にあった本は、もうほとんど読み尽くしてしまっている。
新しい高校の図書室に初めて足を踏み入れた時、その広さと蔵書の多さに、思わず息を呑んだ。
中学の三倍はありそうな書架。
ジャンルごとに整然と並ぶ背表紙。
(……天国)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
ガラッと扉を開くと、やはり誰もいなかった。
シン…と張りつめた静けさ。
時計の針の音だけが、遠くで微かに聞こえる。
この静寂が、たまらなく好きだった。
ざわついた一日を、そっと包み込んでくれるみたいで。
「……なに借りて帰ろっかなぁ〜♪」
声に出すと、少しだけ気持ちが浮き立つ。
指先で背表紙をなぞりながら、陽向はゆっくりと書架の間を歩き始めた。
慎重に吟味して、陽向はとっておきの三冊を選りすぐった。
胸に抱えると、紙の重みが嬉しい。
カウンターの前に座り、貸し出し図書の管理用紙にタイトルを書き出そうとして、ペン先を落とした、その瞬間。
視界にその文字列がに引っかかった。
(……藤崎……俊輔……)
用紙の上段。
自分のすぐ前に書かれた、名前。
昨日、ここで用紙に書いた時には、気づかなかった。
正確には、気づけなかった。
名前を知らなかったから。
でも今日、入学オリエンテーションで知ってしまった。
あの壇上で、確かに耳にした。
(……え…)
心臓が、じわりと熱を持つ。
陽向は息を殺し、用紙の履歴を、上から下へ目で追った。
(……こんなに……)
同じ筆跡。
同じ名前。
間を置かず、何度も。
まるで、この図書室が、彼の生活の一部であることを、証明するみたいに。
(……こんなに頻繁に…借りてるの……?)
その疑問が形になりきる前に。
ガラッ。
図書室の扉が横に滑る音がした。
陽向は、反射的に振り返る。
「…………っ!!」
喉が、音を出すのを忘れる。
指先が、ペンを握ったまま固まって、胸の奥だけが、忙しなく跳ねはじめた。
(うそ……)
今、来るの。
今、このタイミングで。
扉に手を掛けたまま、俊輔は一瞬で陽向の存在に気づいた。
ほんのわずかに、ス…ッと。
小さく、丁寧な会釈。
それは昨日ぶり、二度目の再会に対する、あまりにも自然な仕草だった。
「顔は見たことがある」
それだけの相手に向ける、ごく当たり前の立ち振る舞い。
陽向は、呆然としたまま、考えるより先に、身体が反応する。
釣られるように、ぎこちなく、ほんの少しだけ頭を下げる。
それだけで、精一杯だった。
俊輔はそれ以上何も言わず、静かに図書室へ足を踏み入れる。
迷いのない足取りで、昨日と同じ窓際の席へ、ストンと椅子に腰を下ろした。
(……あの席……)
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……お気に入り…なんだ……)
図書室に流れる静けさの中で、
自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いている気がした。
ペンを握る指先に、じわりと汗が滲む。
陽向は、逃げるように視線を落とし、急ぐように管理用紙へ文字を書きつけた。
本のタイトル。
本のタイトル。
本のタイトル。
そして最後に。
「1―2 星野 陽向」
三冊分を、ほとんど殴り書くように書き終える。
用紙を戻して、本をまとめて鞄に押し込む。
陽向はそのまま立ち上がると、足早にカウンターを離れ、逃げるように図書室を飛び出した。




