第20話 恋は急に牙を向く
夜はとっぷりと更け込んでいた。
住宅街の街灯は等間隔に並び、アスファルトの上に淡いオレンジ色の影を落としている。
時刻は、二十二時を少し回ったところ。
昼間の熱をまだ引きずる空気が、夜になっても肌にまとわりついて離れない。
遠くの幹線道路を走る車の音だけが、低く、一定のリズムで流れていた。
朔也は、夏休みから始めたアルバイトを終え、疲れた身体を引きずるようにして自宅前に自転車を止めた。
ペダルを踏む足は重く、シャツの背中は汗で張りついている。
早くシャワーを浴びたい。
冷たい水を頭から被りたい。
そう思いながら、鍵を外そうとした、その瞬間だった。
キッ──
突然、隣家の前で鳴り響いた自転車のブレーキ音。
反射的に顔を上げる。
街灯の下に浮かび上がった人影を見た瞬間、朔也の思考が一拍遅れた。
「……ひな!」
声が、思わず零れる。
「あ、朔也」
何でもない調子で返ってくる声。
軽くブレーキをかけ、自転車から降りるその仕草も、確かにいつも通り。
──けれど。
「お前…今帰りかよ!?」
声が、少しだけ荒くなる。
「何時だと思ってんだよ!」
「別に…まだ10時過ぎじゃん」
陽向はあくまで淡々としていた。
自転車を所定の位置に寄せながら、面倒くさそうに肩を竦める。
「別にって…お前なぁ」
「補導は11時からだし。夏休みなんだから明日学校もないじゃん」
その言葉が、朔也の神経を逆撫でする。
「だからってお前……!」
思わず一歩、距離を詰めていた。
「仮にも女子高生が、制服のまんまでこんな時間までフラフラして…いくらなんでも危機感なさすぎだろ!」
街灯の光が、陽向の姿をはっきり照らしている。
少し明るくなった髪。
前よりはっきりした目元。
短く見えるスカート丈。
中学までとはまるで違う、女子の顔。
「うるっさいなぁ!」
陽向は眉を寄せて、即座に言い返した。
「出た出た、その朔也の親父ムーブ。あんた将来お父さんになったら、100パー娘に嫌われるね」
そう言われた瞬間、胸の奥にざらりとした違和感が残る。
──親父ムーブ?
違う。
いや違くない。
これは………なんだ?
ただの……心配だ。
そう、隣家のよしみ。
そう自分に言い聞かせるように、朔也は続けた。
「つか今日、藤崎先輩と図書室の約束だって学校行ったんじゃねーの?」
自分で言いながら、嫌な想像が頭をよぎる。
まさか。
こんな時間まで。
「……まさか…こんな時間まで藤崎先輩と…!?」
「違うよっ!!」
被せるように、陽向が声を張った。
「偶然、バスケ部の友達が活動日で学校にいてバッタリ会ったから、帰りにご飯食べに行っただけ!」
「は?」
言葉が、一瞬で引っかかる。
「お前女バスに友達なんていたか?」
「男バスだよ」
あまりにもあっさりした一言。
次の瞬間。
「だ、男バスーーーっっ!!??」
声が裏返った。
頭の中で、警報が鳴る。
男。
バスケ部。
夜。
制服。
組み合わさった単語が、最悪の形で連想を膨らませる。
「もう!!いい加減にしてよっ!!」
陽向は、はっきり苛立ちを滲ませた声で言った。
「私が誰と、どこで、何時まで、何してようと、朔也には関係ないでしょ!?根掘り葉掘り聞かないでよ!」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
関係ない。
その言葉が、想像以上に刺さった。
「お…男と……こんな時間まで…お前……」
言葉が、続かない。
自分でも驚くほど、喉が詰まっていた。
そんな朔也を横目で一瞥し、陽向は深く溜め息をつく。
「はぁ…うるさいうるさい」
一気に興味を失ったみたいに。
「あー疲れたー!今日風呂キャンしたいなー」
欠伸をしながら、そう言って。
鍵を開けて、何事もなかったように自宅の玄関へ入っていく。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
その場に取り残された朔也は、しばらく動けなかった。
あれは……
本当に、ひなか?
茶髪。
メイク。
夜遊び。
制服はミニスカートで。
男と夜遅くまで。
藤崎先輩と会って。
そのあとにバスケ部男子。
男をハシゴして。
朔也の頭の中で、中学の陽向と今の陽向がどうしても噛み合わない。
垢抜けて。
変わって。
急に遠くなったみたいで。
(……あいつ……)
喉の奥が、ヒリッと熱を持つ。
(……いきなり……)
胸の奥で、言葉にならない不安が、ぐるぐると渦を巻く。
(男絡み、激しくね!!??)
笑えない冗談みたいなその考えが、どうしても頭から離れなかった。
夜の空気は、昼よりずっと静かなはずなのに。
心配だけ、のはずなのに──胸の奥が、悔しいみたいに熱い。
朔也の胸の中だけが、騒がしくざわついていた。
────────。
長かった夏休みも、いよいよラストスパートを迎えていた。
朝から鳴き続けていた蝉の声は、少しだけ間延びして聞こえる。
八月の終わり特有の、終わりかけの夏の音。
終わることを悟っているくせに、まだ容赦なく照りつける太陽が、陽向の背中をじりじりと焼いていた。
「うわ〜……あつ……」
玄関の扉を閉めた瞬間、空気の重さに顔をしかめる。
制服のスカートの中に、むわっと熱がこもる。
今日は、俊輔との約束の日。
夏休み中、何度か積み重ねてきた図書室での時間。
思い出すだけで、胸の奥が少しだけ浮き立つ。
陽向は自転車にまたがり、慣れた動作でスタンドを蹴り上げた。
カチャン──
その瞬間。
「……あ」
嫌な感触が、足元から伝わる。
「……うわ……やってるわこれ」
タイヤが、明らかに沈んでいる。
ぐにゃ、とした頼りない感触。
完全に、空気がない。
パンク。
「最悪……」
陽向は小さく呻いた。
思い返せば、いつものことだ。
陽向は自転車の空気を定期的に入れるという発想が、どうしても抜け落ちる。
焼けつくアスファルト。
真夏の熱。
メンテナンスを怠った自転車のタイヤは、陽向の生活リズムに合わせるかのように、しょっちゅう限界を迎える。
「…お母さんのチャリ、仕事で無いし……」
徒歩?
この暑さで?
想像しただけで、溶ける。
無意識に、視線が隣家へ流れた。
黒川家。
門の内側。
見慣れた一台の自転車が、そこにある。
(朔也のチャリ……あるわ)
朔也今日チャリ使うかな……。
でも、もう夏休み終わりかけだし。
昼間だし。
何より時間がない。
迷うより先に、身体が動いた。
ピンポーン──
インターホンの音が、昼下がりの住宅街に響く。
……反応はない。
「あれ?」
耳を澄ます。
けれど、返事は返ってこない。
居ない?
でも車はある。
家族で出かけている様子もない。
黒川家の自転車置き場を見る。
家族の自転車はない。
でも朔也の自転車だけは、確かにある。
(このクソ暑い中、徒歩で出かける……?)
寝てんのかな。
叩き起こすか。
そう思った瞬間、陽向の中で答えは出ていた。
玄関のドアノブに、手を掛ける。
ガチャ。
——軽い音。
抵抗なく、ドアが開いた。
(空いてる…?)
その隙間から見えたのは、黒川家の玄関。
そして——
見覚えのある、可愛らしいスニーカー。
「あ!朱里ちゃん来てるじゃん!!」
声が弾む。
朱里。
朔也の彼女。
陽向を女子力改革へと導いた、崇拝する美容の師匠。
朱里ちゃんに、会いたい!!
陽向は、嬉しさに弾けるように玄関を開け放った。
慣れた場所。
子どもの頃から、何度も出入りした家。
「おじゃましまーす!」
声を投げながら、靴を脱ぎ捨てる。
階段へ向かう足取りは軽く、迷いがない。
トントン、と駆け上がる音が、家の中に響く。
目指すのは、二階。
朔也の部屋。
この時、陽向はまだ知らなかった。
この何気ない侵入が、この夏の終わりに、確実に、そして取り返しのつかない形で、自分の中の何かを壊してしまうことを。
「朔也!朱里ちゃ──」
バンッ
扉を勢いよく開け放った、その瞬間。
世界が、止まった。
「…………っっっ!!!!!」
ベッドの上。
下半身には布団が掛かっている。
視界に入った肌の色。
────────。
朔也の獣のような鋭く、剥き出しの瞳が、扉で立ちすくむ陽向を刺し殺すように睨みつけた。
本能そのものみたいな目。
ぞくり、と背骨を氷がなぞった。
息が、止まる。
思考が、真っ白になる。
バンッッ!
反射的に、陽向は扉を閉めていた。
ダダダタダダダ──
転げ落ちるかのように階段を駆け降りる。
足がもつれて、感覚がない。
何も言えなかった。
声も、呼吸も、全部、置き去りにして。
「…はぁ……はぁ……はぁ……」
心臓が、壊れそうな音を立てている。
全身に鳥肌が立ち、指先が震えて言うことを聞かない。
何も考えられないまま、逃げるように自宅へ飛び込み、そのまま自室へと駆け込んだ。
扉を閉めた瞬間、膝から力が抜ける。
「……はぁ………はぁ………」
背中を扉に預け、その場に座り込む。
胸が苦しい。
呼吸の仕方を忘れてしまったみたいだった。
何だろう。
この恐怖。
震える手で、スマホを取り出す。
画面が、やけに眩しい。
LINEを開く。
指先が、うまく動かない。
それでも、必死で文字を打つ。
“すみません”
送信。
“今日体調悪いので図書室行くのやめときます”
送信。
句読点も、絵文字も、入れる余裕はなかった。
——先輩に……嘘……ついちゃった。
スマホを握りしめたまま、陽向は扉の前でうずくまった。
脳裏から、離れない。
見たことのない朔也の瞳。
あの、剥き出しの視線。
怖い。
怖い。
怖いよ。
でも………………そういうことなんだ。
恋をするということは。
彼氏彼女になるということは。
きっと、当たり前に、そういうことなんだ。
誰もが当然のように、きっと、みんな、そうやって。
でも。
私には……無理だ。
例え、相手が藤崎先輩であろうとも。
私には、出来ない。
きっと、男の子の“当たり前の望み”に、私は応えられない。
恋をするということは……
私なんかには、到達できない場所だ。
「…………っ」
視界が滲む。
気づいた時には、頬を、涙が伝っていた。
胸が苦しくて、せり上がる恐怖に、身体が耐えきれない。
こんな思いをするくらいなら……
ずっと、一生、推しでいい。
──リアコなんて……したくない。




