第2話 高校入学
小学校に入学してから、星野陽向の世界は、少しずつ歪み始めた。
いつも先生に叱られて、クラスのみんなに迷惑ばかりを掛けてしまう。
周囲と歩幅が合わない。
同じ教室にいるはずなのに、どこか遠い。
最初は、うまく言葉に出来なかったその違和感は、学年が上がるごとに、確かな形を持ちはじめる。
そして三年生に進級した春。
陽向は、通常の学級に籍を置いたまま、一部の時間を校内の“特別支援教室(通級)”で過ごすようになった。
それは「守るため」の選択だった。
けれど、子どもたちにとっては、理由を理解するには、まだ少しだけ早すぎた。
────────。
その出来事は、特別な日でも、特別な時間でもなく、
ただの、いつも通りの休み時間に起きた。
「あれー? なんか本落ちてる!おーい、これ誰のー?」
教室の隅。
床に落ちていた一冊の本を、クラスの男子が拾い上げ、面白半分に声を張り上げる。
「あ…わ、私の……!」
掠れるように上がった声。
陽向だった。
「げっ!触っちゃった!」
次の瞬間、男子は反射的に、その本を近くにいた友達へ放り投げた。
バシッ。
「やめろよー!」
投げられた男子は、笑いながらすぐに拾い上げ、仕返しのように別の友達へ向かって投げ返す。
「ギャハハ!」
本は、意思を持たないまま、教室の空を飛び交い始めた。
「……返して……やめてよ……!」
陽向の声は、誰の耳にも届かない。
バシッ。
バシッ。
ふざけた笑い声と共に、
陽向の大切な本は、男子たちの手から手へと渡っていく。
そして──
バシッ。
「いって!」
その本は背中に当たり、朔也の元へ回ってきた。
「………」
床に落ちたそれを拾い上げると、朔也の視界の先に、陽向の姿があった。
「……朔っくん…………返して……」
今にも涙が零れ落ちそうな瞳。
声は震え、唇が小さく噛み締められている。
「ヘイ!朔也パス!」
背後から、軽い声が飛んできた。
振り返ると、友達が両手を上に掲げて笑っている。
朔也は、陽向と友達を交互に見た。
──そして気づく。
教室にいる全員の視線が、今、この瞬間の自分に集まっていることに。
一瞬の沈黙。
「…………ヘイ…!」
朔也が投げた先は、陽向ではなく友達だった。
それを合図にしたかのように、再び本の投げ合いが始まる。
「…返して……っ大事な本なの…返してよ……っふぇ〜ん……」
声は、やがて嗚咽に変わり、陽向はついに泣き出した。
「…うわっ…やべ……!」
誰かの呟きと同時に、本は勢いよく陽向に向かって投げつけられた。
バシッ。
「……っ」
陽向は声を上げることも出来ず、床に落ちた本を拾い上げる。
まるで壊れ物を抱くように、胸に強く抱きしめた。
「……ぐす……ひっく……」
泣きながら、自分の席へ戻る小さな背中。
その日を境に──
朔也は、学校で陽向と関わることが、極端に少なくなっていった。
小学生という生き物は、不思議だ。
入学したばかりの低学年のうちは、「みんな仲良くしましょうね」という風潮が、まだ現実として機能している。
けれど小学三年生にもなる頃。
途端に子供の世界は、突如として変わる。
派閥。
悪ノリ。
空気を読む力と、読めない者を切り捨てる速度。
クラスは一気に、小さくも社会的に機能し始める。
陽向の持つ特性と、特別支援教室への通級は、その変化の中で、あまりにも分かりやすい“印”だった。
放課後、遊びから帰宅すると隣家の玄関先で、陽向親子を前にして、菓子折りを手にした親とうなだれるクラスメイトの姿を見る。
──謝りに来ているのだ。
(また虐められたのか…)
そんな光景は、小学校時代、決して珍しいものではなかった。
それでも。
(……俺には関係ない)
朔也は、そう思うことにしていた。
俺には俺の世界がある。
俺には俺の立ち位置がある。
余計な面倒事に首を突っ込む理由なんて、どこにもない。
関わらなければ、傷つかない。
深入りしなければ、失わない。
それが、この世界を生き抜くための、正しい距離の取り方だと信じていた。
けれど、朔也のそんな選択と歩調を合わせるように、
陽向は、少しずつ変わっていった。
本来持っていた明るさは日毎に影を潜め、学年が上がるにつれて、周囲から人が減っていく。
気づけば、友達と呼べる存在はいなくなり、卒業が近づく頃には、陽向はいつも一人で過ごす事が当たり前のようになっていた。
誰にも迷惑をかけないように。
誰の邪魔にもならないように。
なるべく人目につかないように、中休みや昼休みも、陽向は逃げ込むように図書室へ足を運んだ。
陽向にとって物語の世界は、友達が居ない寂しさを埋めてくれる掛け替えのない居場所だった。
空想の中に身を沈めるように、小説、漫画、アニメに熱中していく。
そこは、削られてしまった心を、そっと撫で直してくれる場所だった。
ページをめくるたびに、世界は静かに色を取り戻し、胸の奥に溜まっていたものが、少しずつほどけていく。
陽向は、現実で受けた傷をそこで癒していた。
誰かに寄りかかる代わりに、物語に身を委ねる。
そうしてまた、次の時間を生きるための息を整える。
陽向は少しずつ、上手に自分の心を守りながら、周囲との距離を覚えていった。
自分から関わらない努力をする。
学校では、出来る限り目立たないように。
静かに、静かに、息を潜める。
それが、“学校での星野陽向”の当たり前の姿になっていた。
しかし自宅では、相変わらず騒がしくて、よく笑って、よく喋る。
「あら朔、宿題やってるの?偉いねー!あ、ひなも呼んで一緒にやらせよう」
朔也の家に届けものに来た陽向の母親が言った。
小学校の夏休み。
朔也は、何事も早めに終わらせたいタイプで、陽向は始業式の直前になってから慌てて取り組むタイプだった。
呆れたような笑みを浮かべて、陽向の母親は隣の家へ呼びに戻っていく。
しばらくして、二人は机を挟んで向かい合い、ドリルを広げた。
「あれー?」
筆箱をパカッと開けた陽向が、声を上げる。
「……相変わらず、ひなの筆箱は空っぽだな」
「鉛筆貸してー!」
「なんでいつも無くすんだよ!」
「だってー知らないうちにどっかにお出掛けしちゃうんだもん」
「……ぶっ」
思わず、朔也は吹き出した。
「お前の鉛筆生きてんのかよ」
「ねーねー、昨日のワンピ見た?あーでこーで、あーでこーで……」
朔也が陽向の為に新品の鉛筆を削ってあげている間も、陽向の口が止まることはない。
その無邪気さも、落ち着きのなさも、場の空気を明るくする騒がしさも。
そんな“普段の陽向”の姿を、学校の中で知っているのは、朔也ただ一人だった。
小学校を卒業し、中学校へ進学したからといって、世界が一変するわけではない。
所詮、地元の公立中学。
顔ぶれが大きく変わることもなく、陽向の学校での立ち位置が、環境と共に変わることもなかった。
────────。
中学一年生。
その日、陽向は給食当番だった。
お盆を手に、列に並ぶクラスメイトの前へ立ち、
陽向は淡々と、サラダの皿を乗せていく。
「うぇ…」
目の前で、お盆がヒュッと露骨に避けられた。
「あー今日サラダ食いたくねぇなー。あ、そー言えば俺、レタスアレルギーなんだよな」
そう言って、男子は後ろに並ぶクラスメイトへ視線を送る。
「…あー…私も野菜食べれないんだった!」
それを合図にしたかのように、次々と、陽向の前を素通りしていく。
サラダを避け、視線を避け、言葉を交わさずに。
クスクスと押し殺した笑い声が、列の後方から、じわじわと広がっていく。
この時代、食品ロスには厳しい。
全員が完食出来るよう、あらかじめ減量指定が出来て、食べたい子に回せるよう、苦手なメニューは受け取らなくていい。
そんな“正しいルール”が、きちんと用意されている。
朔也は知っていた。
内面的にはまだまだ未熟な自分達。
しかし大人達によって厳格なルールの中で表面上に“大人”にさせられる中学生は、グレーゾーンを熟知している。
小学校の頃からうんざりするほど、いじめ、人権、差別などについて洗脳のように繰り返し教育を受けてきた。
教師は過剰に慎重で、過干渉になっていく保護者。
小さなトラブルにも即座に大人の介入が入り、話し合い、謝罪、連携。
それが「当たり前」になった世界で育った彼らは、トラブルに敏感になり、露骨な暴力を選ばない。
代わりに選ぶのは、誰も責任を取らなくていい方法。
クラスで嫌われた子は
空気にする。
触れない。
近寄らないを
関わらない。
表では何も起きていない顔をする。
その代わりに、裏ではえげつないような陰口を喚き散らして発散。
裏アカウント。
限定公開。
匿名のディスり。
告白という体裁の罰ゲーム。
教師や大人が指導できるのは、「いじめ」という形をした行為までだ。
先生や大人は、虐めは指導出来るけど、誰と関わるか、誰と仲良くするかの本人の友達関係にまでは口を出せない。
揶揄いだとあからさまにわかっても“告白”という行為自体の個人の感情については口出せない。
大人が手出し出来ない最悪の領域で、残酷な方法で、ターゲットの精神を抉り取る。
それが、朔也が見てきた同級生達の姿だった。
ポン。
ふいに入ってきた通知に、朔也はスマホを手に取った。
そのままゴロンとベッドに転がりSNSを眺める。
流れてきたのは、クラスメイトで仲良い女子の限定公開ストーリー。
“卒業最後の席替えなのにまじ終わった。頼むから死んでくれ”
名前は出ていない。
理由も書かれていない。
それでも、クラスの全員が、誰のことか一瞬で分かる。
なぜ、ひなは。
あんなにも毎日を只一生懸命に生きてるだけなのに。
こんな何の苦労も知らないような奴に“死んでくれ”だなんて言われなければならないのか。
(ま、どーでもいいけど。)
一瞬、腹の底で何かが煮えたような気がした。
けれど、その感情は、考える間もなく、すぐに消えた。
────────。
やがて季節は巡り、春が来た。
卒業。
そして進学。
二人は、何事もないかのように、同じ高校へ進んだ。
満開の桜の下で、互いに、ほんの少しだけ違う方向を見つめながら。
「朔ー!ひなー!写真写真!」
弾んだ声に呼び止められる。
「いいよ…めんどくせーな」
「せっかくだから一緒に撮りなさいよ」
はぁ──。
二人の母親に促され、朔也は小さく溜め息をつきながら、陽向と並んで入学式の看板の前に立った。
「ひな、撮る時くらいマスク外して!」
「あっごめん」
カシャ
シャッター音が鳴ると同時に、陽向はすぐ、またマスクを付け直す。
「全く…家ではあんな豪快なのに、一歩外出たら借りてきた猫みたいに恥ずがりやなんだから」
「っえへへ」
母親と話しながら、少し照れたように笑う陽向。
その横顔を見ながら、朔也はふと実感していた。
こんなふうに、周りの視線を気にせずに、ひなと学校で肩を並べて立っているなんて。
保育園。
小学校。
中学校。
変わらぬ世界。
変わらぬ人間関係。
うんざりするほど続いてきた、くだらない毎日。
けれど、ここには。
自分のことを知っている人間も、陽向のことを知っている人間も、ほとんど少ない。
新しい出会い。
ゼロクリアの人間関係。
自分の中で、静かに何かが変わる予感がした。
「ひな!そー言えばお前、購買で買い食いばっかすんなよ。只でさえデブなのに更に太るからな」
「しないよっ!デブじゃないし!うざいお前!」
いつも通りの、くだらない言い合い。
けれど学校で、こうして陽向と普通に言葉を交わしていることが、妙に新鮮で。
変な感じがして、つい悪態をついてしまった。




