第19話 帰さねぇぞ、夏
「やべー…あっち〜…」
体育館の床から立ち上る熱気に、綾真は思わず天井を仰いだ。
空調は確かに入っている。
それでも、八月上旬の太陽に炙られた空気は、簡単には冷えない。
「いくら体育館冷房あっても…この暑さじゃ効きも悪ぃよな…」
「うわ!やらかしたわー」
「なに?」
「水筒、家の玄関置いてきたわ」
「わー詰んでんなお前」
「ちょっくら自販機行ってくっかー…まだ時間ある?」
「練習始まるまであと10分あるから…余裕じゃね?」
「あーだりぃー外出たくねぇー」
「さっさと行けよ」
軽く背中を押されて、綾真はいやいや体育館を出た。
外に出た瞬間、真夏の空気が一気に身体にのしかかる。
照り返すアスファルト。
容赦なく降り注ぐ日差し。
息を吸うだけで、肺の奥が焼けるようだった。
午後三時半から始まるバスケ部の練習。
その前の、ほんの短いインターバル。
(マジで溶ける……)
校舎脇の自販機の前に立ち、硬貨を入れる。
ボタンを押すと、ガコンという無機質な音が響いた。
取り出し口に手を伸ばし、ペットボトルを掴む。
そして──何気なく顔を上げた、その瞬間だった。
正門の方から、ひとりの生徒が歩いてくるのが目に入った。
その瞬間、綾真の心臓は飛び出した。
見間違えるはずがない。
あの歩き方。
少しだけ内股気味で、日差しを避けるように視線を細める癖。
星野……陽向だ!!!!!
「星野ーーー!!」
気づいたら、綾真は大きな声を張り上げていた。
自分でも驚くくらい、反射的だった。
思いきり手を振る。
「あー!綾真だー!」
向こうも気づいて、フリフリと手を振り返してくる。
そして、駆け寄ってくる。
夏休み中の学校。
この時間、この場所で。
そんな奇跡の偶然、あるか?
「部活ー?」
「そ。星野はなんで?生徒会?」
「ううん、図書室!暑い中部活大変だねー」
「いやまじであっちーよ…こんな中動いたら死ぬ」
「それなー熱中症気をつけて、部活頑張ってね!」
太陽の光をそのまま切り取ったみたいな笑顔。
夏の眩しさに負けないくらい、目がきらきらしていて。
汗も、熱も、全部どうでもよくなる。
「お、おう…」
……天使かよ。
たった数秒。
暑さで根こそぎ持っていかれていた綾真のやる気ボルテージは一気にMAX100まで回復した。
「じゃーねー」
陽向はそう言って、軽やかに手を振る。
胸の奥が、じわじわと焦げるように熱くなる。
このまま別れたら。
次に会えるのは、いつだ?
下手したら……
新学期まで会えない。
「……あ…!」
気づけば、声が出ていた。
「ん?」
振り返る、陽向。
「あ…えっと……すぐ帰る?」
言ってから、心臓がドクン、ドクン、と鳴っている。
つい呼び止めてしまった自分に自分で驚く。
「いや、暫く居ると思うけど……特に決めてない!」
逃げるな。
今ここで言わなかったら、絶対後悔する。
「そうなんだ!あー…それならさ…」
怯むな。
一か八か、言うだけ言って、駄目なら駄目で、それまでだ!!
「練習17:30に終わるから…もしそれまで居るなら……」
一瞬、言葉が詰まる。
でも、もう引き返せなかった。
「俺、映画に備えて戦術大戦のアニメ今1話から見直してて、熱量上がってるから語りたいんだけど、聞いてくんね?」
言った。
一気に言った。
心臓が、喉まで飛び出しそうだった。
次の瞬間。
「まじ!?わかった!!聞くわ!!練習終わるの待ってるわ!!」
(っしゃああああああ!!)
心の中で、ガッツポーズ。
「ま、まじ!?じゃあ、後で玄関で待ってて!」
「おけ。後でね!」
「じゃ、後で」
陽向に笑顔で手を振られながら、練習に送り出される綾真。
ペットボトルを握りしめて、体育館へ駆け戻る。
やべー!!
今ならジャンプシュートめっちゃ飛べそう!!
胸の奥で、小さな夏が、確かに始まっていた。
────────。
太陽は西へ傾き、図書室の窓から差し込む光は、昼間の白さを失って柔らかな橙色に変わっていた。
書架の影が床に長く伸び、時間がゆっくり沈んでいく。
「星野さん、まだ居る?」
静かな声が、空気を揺らす。
陽向は本から顔を上げ、ぱっと笑った。
「今日、17時半に練習終わるバスケ部の友達待つ約束になってるので!先輩、気にせず先に帰ってください!」
あまりにも自然で、あまりにも屈託のない言い方だった。
「…バスケ部……」
俊輔は、ほんの一瞬、言葉をなぞるように心の中で繰り返す。
(今日は木曜日だから……男子バスケの練習日だ)
思考は勝手に繋がっていく。
バスケ部の男子。
胸の奥に、説明のつかないざわつきが生まれた。
「そうなんだ」
俊輔は、なるべくいつも通りの声を保った。
「じゃあ……僕も17時半になったら帰ろうかな」
その言葉に、陽向が驚いたように目を瞬かせる。
「え……そんな!付き合っていただくの、申し訳ないですよ!」
慌てて両手を振る姿は相変わらず全力で正直で、その反応ひとつひとつが、俊輔の胸をくすぐる。
「ううん」
俊輔は小さく笑って、視線を窓の外へ向けた。
「僕が……もう少し居たいだけだから」
夕陽が、彼の横顔を淡く照らす。
その言葉には、理由も説明も付いていない。
けれど──
陽向の胸は、はっきりキュンと鳴った。
「やばー!食らったー!」
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
「ふふ…だから、そういう事は心の中で言うんだよ」
先輩が、“居たいから居る”。
ただそれだけの理由で、自分と同じ時間を選んでいる。
それだけで、世界が少し特別になる。
「…すいません、つい!」
陽向は、少しだけ声を落として笑った。
「面白いからいいよ」
その一音に、確かな温度があった。
二人はそれ以上言葉を交わさず、それぞれ本へ視線を戻す。
けれど、もうさっきまでの“静けさ”とは違っていた。
ページをめくる音。
時計の針が進む音。
外から聞こえる、遠い体育館の笛の音。
────────。
「じゃ!お先!」
「えっ!おい綾真、早ぇな!」
「お疲れー」
バスケ部の練習を終えた綾真は、まだ熱の残る体育館を振り返りもせずに飛び出した。
練習着のまま、汗で重くなったシャツが背中に張りつく。
シューズを乱暴にバッグへ突っ込みながら、頭の中にあるのはひとつだけ。
昇降口。
そこに、いた。
夏休み中だというのに、きちんと制服を着て、スクールバッグを肩に掛け、壁にもたれながらスマホを覗いている。
夕方の光がガラス越しに反射して、彼女の輪郭を柔らかく縁取っていた。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
会えると分かっていたはずなのに。
待っていると聞いていたはずなのに。
それでも実際に姿を見つけた瞬間、心臓は裏切るみたいに跳ねた。
綾真は深く息を吸い、平静を装う。
悟られるな。
いつも通りだ。
「お疲れー!」
近づくと、陽向が顔を上げて笑う。
「お待たせ」
「うん、遅ぇよ」
「最後コーチの話が無駄に長かったわ」
「それだるいね」
何でもない会話。
何でもない調子。
でも、こうして並んで歩き出すだけで、世界の温度が少し変わる。
正門へ向かう道。
夕焼けが校舎を染め、影が長く伸びる。
部活帰りの生徒の声が遠ざかり、周囲の音が少しずつ薄れていく。
肩と肩が、触れそうで触れない距離。
意識した瞬間、余計に分かってしまう。
彼女の歩幅。
隣にいる感覚。
「腹減ったなー。どっか飯食いにいかね?」
なるべく軽く。
あくまで自然に。
思いついたみたいな顔で。
けれど胸の内では、心臓が暴れていた。
(頼む……)
「いいよー。なに食いたいの?」
即答。
胸の奥で、何かがはっきりと音を立てて動いた。
絶対、爪痕残さないと。
飯だけ食って流れのまま別れて。
また次に会える保証もなくて。
今日が“いい日だったな”で終わってしまう。
それが、無性に嫌だった。
だから。
考えるより先に、口が動いた。
「星野、今日何時までいけんの?」
自分でも驚くくらい、自然な声だった。
探るようでもなく、詰めるでもなく、
ただ確認するだけみたいなトーン。
陽向は、少しだけ首を傾げてから、あっさり答える。
「いや?別に特に。」
返事が軽い。
軽すぎて、逆に怖い。
——こいつ、ほんとに無防備すぎる。
もっと一緒にいたいっていう、自分でも言えない欲が、勝手に口を使っただけだ。
「結構語りたいから、割とゆっくり出来るところが良くね?」
「んーファミレスとか?」
陽向は、歩きながらスクールバッグを持ち替えて、何でもない顔で綾真を見た。
「……だな」
たったそれだけの会話なのに、綾真の胸は変に忙しい。
このまま駅前まで歩いて、店に入って、向かいに座って、何でもない話をして——
そう想像しただけで、喉の奥が熱くなった。
(……これ…ガチで…)
胸の奥で、何かがゆっくりと形になる。
“友達”の線を、どうしても越えたがってもがいてる感情が。
綾真は、歩く速度を落とさないまま、もう一度だけ確かめるみたいに言った。
「家とか……大丈夫なの?」
陽向はきょとんとして、すぐ頷く。
「まぁ、ママにご飯いらないってLINEすれば別に。」
——別に、じゃねぇよ。
そんな事言われたら……
帰さねぇぞ。
言えるわけがない。
この一言で、胸の中がどれだけ騒いだかなんて。




