第11話 いざ、生徒会役員総選挙
そして──
遂に、決戦の日を迎えた。
逃げ場のない「本番」
生徒会役員総選挙。
体育館の扉が開いた瞬間、陽向の胸に、ひやりとした空気が流れ込んだ。
いつもは部活の掛け声や笑い声で満ちている場所が、今日はまるで別物だった。
整然と並べられたパイプ椅子。
舞台正面に掲げられた白い横断幕。
体育館の床は、朝の光を反射して妙に白く、天井の照明はすべて点灯しているのに、どこか落ち着かない明るさだった。
ざわざわ。
ざわざわ。
全校生徒が集まる音。
椅子が引かれる音。
制服が擦れる音。
誰かの笑い声。
ひそひそと交わされる噂話。
舞台袖。
立候補者たちは、名前順に並ばされていた。
目の前には、すでに何度か朝の挨拶で見かけた先輩たち。
姿勢も、表情も、落ち着いている。
手のひらを見ると、汗で、少し湿っている。
制服のスカートを、ぎゅっと握りしめる。
(無理無理無理……)
逃げたい。
帰りたい。
今すぐここから消えたい。
そう思うのに、足だけは、しっかり床に根を下ろしている。
「ほら」
小さな声。
隣に立つ朔也が、陽向の背中を、軽く叩いた。
「ここまで来たんだから、今さら逃げんなよ」
その声は、からかいでも命令でもなく、ただ、当たり前の事実を告げているみたいだった。
陽向は、何も言えずに、小さく頷く。
視線が、ふと、客席へ落ちる。
体育館の中央。
最前列にはズラリと現生徒会役員の錚々たる面子。
そこに──いた。
藤崎俊輔。
舞台を見上げるその横顔は、いつも図書室で見つめる表情と変わらず穏やかで、それなのに、今日はやけに遠く感じた。
見たら、心が揺れる。
揺れたら、立てなくなる。
そう思ったはずなのに目は勝手に、もう一度だけ俊輔を捉えてしまう。
その瞬間。
《次の候補者、星野陽向さん、お願いします。》
司会の声が、マイク越しに体育館に響く。
その名前は、あまりにもはっきりと、あまりにも容赦なく。
世界が、静まった気がした。
足が、前に出る。
一歩。
また一歩。
階段を上る音が、やけに大きく響く。
舞台の中央。
マイクスタンドの前。
照明が、一斉にこちらを向いた。
眩しい。
客席が、暗く、遠くなる。
数百人分の視線が、一斉に陽向に集まる。
喉が、からからだ。
それでも。
陽向は、マイクの前に立った。
両足で、しっかりと、舞台を踏みしめて。
逃げなかった。
そして──深く、息を吸った。
《1年2組、星野陽向です。この度、生徒会役員に立候補させていただきました。》
マイクを通した自分の声が、思っていたよりもはっきりと体育館に響いた。
その瞬間、体育館の空気がすっと引き締まり、静寂が降りる。
全校生徒の視線が、一斉にこちらへ集まる。
数百人分の視線。
逃げ場のない光。
こんなにも大勢の人に同時に見られる経験なんて、今まで一度もなかった。
心臓が、耳の奥でどくどくと音を立てる。
足の裏が、床に縫い止められたみたいに動かない。
《正直に言うと…ここに立つことは、私にとって、とても勇気のいることでした。》
一瞬、息を吸う。
胸いっぱいに空気を詰め込んで、逃げたい気持ちを押し殺す。
陽向は、ぎゅっと指先に力を込めて、腹を括った。
《私は、ずっと自分に自信がありませんでした。人前に出るのが苦手で、自分の意見を言うのも怖くて、”どうせ私なんて”と、いつも一歩引いた場所にいました。》
言葉を口にするたび、胸の奥に溜め込んできた過去が、ひとつずつ解けていく気がした。
誰にも見せなかった弱さ。
認めたくなかった自分。
それを、今ここで、全校生徒の前で晒している。
《でも、本校に入学してから、私は初めて気づいたんです。誰かに支えられ、誰かに励まされ、誰かに背中を押してもらうことで、人は少しずつ、前に進めるんだということに。》
一瞬の間。
体育館の天井が、やけに高く感じられる。
そして、その後。
声に、ほんの少しだけ、芯が宿った。
《今、学校生活の中で、不安や孤独、悩みを抱えている人は、決して少なくないと思います。誰にも言えない気持ちを抱えたまま、毎日を過ごしている人も、きっといると思います。》
その言葉は、派手ではない。
けれど確かに、全校生徒の胸の奥へ、静かに届いていく。
大人でも、子供でもない。
自分が何者なのか分からなくなる、思春期という曖昧な時間。
この体育館にいる誰もが、大小の違いはあれど、同じような不安を抱えている。
陽向の視線が、まっすぐ前を向く。
《私は生徒会役員として、そんな心の声を拾える存在になりたいです。辛くても、寂しくても、泣きたくても、一人ぼっちで抱え込まなくていい。ここに居ていいんだと。そう思える場所を作りたい。》
ずっと、透明人間になりたかった。
誰の目にも触れず、誰にも迷惑をかけず、“私”という存在そのものが消えてしまえばいいと思っていた。
《意見箱の設置や、生徒会役員主導による心の相談窓口。大人に話しずらいような心の内側に、“同じ生徒”という同等の立場だからこそ寄り添える。生徒会を、みなさんのそんな心の拠り所にしたいと思います。》
でも。
朔也が私を無理矢理引きずり出して、背中を押してくれた。
朱里ちゃんが私を変えてくれて、別の世界へ連れて行ってくれた。
咲が私を受け入れてくれて、笑って隣に居てくれた。
蒼太が私を正してくれて、間違っている時にちゃんと叱ってくれた。
《私はまだまだ未熟です。だから、私自身も……生徒会役員の活動を通して──》
全ては、あの日から始まった。
藤崎先輩と、出会ってしまったから。
陽向は、無意識に視線を落とす。
正面、最前列。
俊輔のいる場所。
俊輔は、いつものように穏やかな表情で、まっすぐこちらを見ていた。
その瞳は優しくて、胸がきゅっと締め付けられる。
それでも。
陽向は、真っ直ぐに俊輔を見つめる。
《近づきたいんです。》
その言葉が落ちた瞬間、体育館の空気が、かすかに揺れた。
俊輔の瞬きが、一瞬遅れた。
陽向の視線が、確かに自分を捉えた。
その一直線の想いに撃たれた瞬間、俊輔の脳裏に、先日の図書室の光景がフラッシュバックする。
(近づけないんです!!死ぬんです!!キュン死するんですっっっ!!)
あの必死な声。
あの真っ赤な顔。
《今よりもっと、好きになれる、理想の自分に。》
その言葉は、誰に向けたものなのか。
俊輔は、一瞬だけ分からなくなった。
最後に、深く一礼。
《どうか、星野陽向を、よろしくお願いします。》
静寂の中で、陽向はゆっくりと顔を上げる。
胸の奥で、小さく何かが震えていた。
ワッ──
一瞬の静寂を破るように、
拍手が、爆発した。
最初は、まばらだった音。
誰かが、戸惑いながら手を叩き。
それに釣られるように、隣の誰かが叩き。
気づけば、それは波になって、体育館の端から端まで、一気に広がっていった。
パチパチパチパチ──
パチパチパチパチ──
天井に反響した拍手の音が、まるで体育館そのものが応えているみたいに、何重にも重なって降ってくる。
「……っしゃ!!」
舞台袖。
朔也は、思わず拳を強く握りしめてガッツポーズした。
肩越しに見える客席。
ざわめき混じりの拍手。
──来た。
間違いなく、来た。
「……やっただろ、ひな……」
誰にも聞こえない声で、そう呟く。
胸の奥が、じんわりと熱くなっていく。
無意識に手が震え、安堵の溜め息が漏れ出た。
不安で、怖がりで、それでも前に出たあいつが、今、こんなにも多くの心を動かしている。
自分が背中を押した、なんて言葉じゃ足りない。
これはもう、あいつ自身の力だった。
パチパチパチパチ──
その音の渦の中。
俊輔は、静かに手を叩いていた。
一つ一つ、噛みしめるように。
「……刺さったな…………」
誰にも届かないほど小さな声で、独り言のように呟いた俊輔。
言葉が、まっすぐこちらに飛んできた。
視線が、確かに自分を捉えた。
──近づきたいんです。
その一言が、胸の奥に、静かに沈んでいく。
拍手をしながら、俊輔はほんの一瞬だけ、視線を舞台上に戻す。
壇上に立つ陽向。
深く一礼をした顔を上げ、舞台袖へと履けていく。
小さな身体が、少し震えているようにも見えた。
拍手は、まだ止まない。
それぞれの思惑を乗せた音が、体育館いっぱいに、鳴り続けていた。
────────。
翌日、昼休み。
一年二組の教室は、いつもより少しだけソワソワしていた。
昼食の匂いと笑い声が混ざるはずの時間なのに、どこか落ち着かない。
誰もが、無意識に時計を気にして、天井のスピーカーを意識している。
「咲は絶対当選してると思うよ!陽向の演説めっちゃ最強だったし、その後の朔也の推薦者スピーチも、女子から黄色い声ちょー上がってたもん!」
咲が身振り手振りで興奮気味に言うと、机を挟んだ向かい側から、すぐに突っ込みが飛ぶ。
「そりゃだって、選挙期間の朝の挨拶運動で、正門で可愛い女の子見つけたら片っ端から口説いて、最後の方なんて“キャー、黒川くーん絶対投票するねー♡”なんて言われちゃってさ。鼻の下伸ばして…不純な票集めにも程がある!」
「なにを偉そうに…お前だって生徒会に立候補したの、不純な動機じゃねーかよ」
「まぁ……確かに……そうだけど……」
陽向は、言い返せずに視線を逸らす。
“生徒会役員になって先輩をリアコにしようぜ大作戦!”なんて今思えば、朔也に流されたとは言え、あまりにも軽くて、勢いだけのきっかけだった。
公約も、志も、全部後から追いついてきたものだ。
最初から立派だったわけじゃない。
「まぁいいじゃねぇか」
不意に、蒼太が柔らかい声で割って入る。
「きっかけはどうあれ、1年生であんな立派な演説を陽向が出来たって事、俺は充分尊敬できるし、本当に凄いと思う」
その言葉は、まっすぐで、余計な飾りがなかった。
「蒼太……本当いい奴〜………」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
陽向は思わず目を伏せて、滲みそうになる涙を誤魔化した。
その瞬間だった。
キーーン──……
校内放送特有の、耳に残るハウリング音が教室を貫く。
《ピンポンパンポーン》
ざわついていた空気が、嘘みたいに静まり返った。
弁当を持つ手が止まり、箸が宙で止まる。
誰もが、息を詰めてスピーカーを見上げる。
《生徒の皆さんにお知らせします。》
放送委員の、少し緊張した声。
体育館とは違う、日常の中に突然差し込まれる“非日常”。
《昨日行われました、生徒会役員総選挙の結果をお知らせします。》
「来たーーー!!!」
「……し……死ぬ………」
胸の奥の悲鳴が、やけに大きく聞こえた。
一人、また一人と、当選者の名前が読み上げられてく。
心臓の音が、やけにうるさい。
《続いて、書記の結果です。》
陽向は、ぎゅっと両手を胸の前で握りしめた。
祈るみたいに、目を閉じる。
バクバク……
バクバク……
耳鳴りがする。
世界が、スピーカーの音だけになる。
《書記に当選しましたのは……》
時間が引き伸ばされたみたいに感じた、その刹那──
《一年二組、星野陽向さんです。》
わあぁぁぁ──
教室が、一気に爆発した。
「イエェェェーーーーーー!!!!」
朔也が、勢いよく椅子の上に立ち上がり、天井に向かって両手の人差し指を突き上げる。
「陽向ー!おめでとー!!」
「やるじゃーん!凄いよ陽向ー!」
クラスメイトたちが、雪崩のように押し寄せてくる。
次々に交わされるハイタッチ。
肩を叩かれ、背中を押され、名前を呼ばれる。
言葉のひとつひとつが、胸に落ちてくる。
《当選された皆さん、おめでとうございます。なお、当選者は後日、生徒会室にて説明がありますので、掲示をご確認ください。以上、生徒会役員総選挙の結果発表でした。》
《ピンポンパンポーン》
放送が終わっても、教室の熱は冷めなかった。
陽向は、その中心で、ただ立ち尽くしていた。
胸の奥が、微かに震えている。
こんな自分に。
こんなにもたくさんの人が、喜んでくれるなんて。
怖さは、まだ消えていない。
不安も、きっとこれから何度も顔を出す。
それでも。
昨日、あの舞台に立つ前の自分とは、確かに違う。
足がすくんで、逃げ出したくて、それでも一歩踏み出した自分。
——進んだ。
ほんの一歩かもしれない。
それでも確かに、自分は前に進んだんだと。
陽向は、胸の奥で、そっとそう確信していた。




