朝焼け
暗い部屋だった。
カーテンは閉じられているが、布の合わせ目から細い光が差し込んでいる。街灯の白ではない、もっと淡く、冷たい光。「彼女」の世界には夜明けが来た。テーブルには空のワインボトル、吸い殻で溢れた灰皿、そして二人分のグラス。片方にはまだ赤い液体が半分残っている。
床には「彼」が倒れていた。頬にかかった髪は濡れ、頭の下から赤がじわじわと広がっている。もう動かない。彼女はその隣に膝をつき、割れた酒瓶を手にしていた。
「貴方の為に…全部…辞めたのに…」
「彼」の唇は動かない。「彼女」がただの肉塊にしたからだ。
ガラスの縁は歪に欠け、腹に押し当てると、ひやりとした感触が走る。
その瞬間、カーテンの隙間から一筋の光が差し込み、瓶の表面で弾けた。
それが赤い斑点を照らす。
彼女はそれを見て覚悟を決めた。
「……ふ、……ふふ」
笑った。乾いた音が喉から漏れる。瓶の先を彼女は今までに出たことのないであろう力で腹を押し込んだ。皮膚がざらりと裂け、そこから熱が噴き出した。
痛みは、すぐに熱に塗り潰される。
頭の奥がぐらぐらと揺れ、視界の輪郭が溶けていく。そして熱はやがて冷め、痛みだけが残る。
身体が横へ倒れ込む。床の冷たさが背中を打ち、血が体を伝い、じわりと広がっていった。
——コロン。
「彼女」の目の前に、何かが転がってきた。
透明な水晶。
丸く、内部で淡い光が脈動している。
「やぁ」
声がした。
それは女とも男ともつかない、澄み切った声。
その声が、やけに近く、やけに遠い。
「彼女」は痛みに耐え苦しみながら答える。
お前は…誰だ?なん…だ?
「私は神だ。」
彼女は吐息混じりに笑う。
「いきなり…言われても…そんなの…信じない…ごめんなさい…しかも私そういうの信じ…ない…」
「信じなくていい。でもただ、そう名乗るものだと思ってもらってもいい。」
水晶は、「彼女」を反射しながら淡く光っていた。
「君の人生は、私が見てきた中で最も興味深いものだった。だから、君に一つのチャンスを与えよう」
水晶の中の光が強くなる。
「君が世界を救え。そこに光はない。永遠に闇のままだ。だが、君がその闇に光を灯せば、私は君に人生をやり直す機会を与える」
彼女は首をかしげる。
「どうしてそんなことを?」
「君の醜く、汚れた、迷いながら生きる姿を見たいからだ」
小さく息を吐き、彼女は呟いた。
「そんな試練、私には無理よ……」
「いいや、試練は君が成長するためのものだ。私は君が乗り越える姿を見たい。まぁ私に三度目の人生を見せるなんて不可能だろうがな。」
彼女は目を細めて、水晶を見つめ返す。
「挑発するのが得意なんだね……いいわ、受けて立つ」
その言葉には、かすかな覚悟が含まれていた。
「では特別な力を授けよう。君の望む姿と力を」
彼女の胸の奥で、冷たい何かが燃え始めた。
「三度目の人生、見せてやる。」
目を開けたとき、そこは冷たい土の上だった。
雨が降りしきり、空は暗く、星ひとつ見えない。
息を吐くと白く、骨まで凍えるような寒さが全身を這い上がってくる。
彼女は足を引きずりながら歩いた。どこまでも続く夜。朝は来ない。
膝が笑い、視界が歪み、ついに地面に崩れ落ちた——その瞬間、
「おい! 誰か倒れてる!」という声が響いた。
ランタンのような光に照らされた数人の影が近づく。先頭の男がためらうことなく彼女の肩を抱き起こす。
「大丈夫か? 俺たちは勇者だ。安心しろ。」
「大丈夫?」
魔女の帽子を被った少女が彼女に声をかけた。
「幾つだ?」
「見た感じ16歳くらいじゃないか?」
大柄な男が言った。
——お前の望む姿にしてやろう——
あの言葉を彼女は思い出す。
ふと彼女はは足元の水たまりを見た。
瞳には高校生くらいの少女が映っていた。
濡れた桃色の髪は肩にかかり、透き通った黒い瞳が静かに彼女を覗いている。
彼女が驚き、見つめていると、優しげな青年が話しかけてきた。
「大丈夫? とりあえず名前は?」
すべてが眩しかった。
しかし彼女は勇者と名乗る者たちにすがるしかなかった。
少し間を置き、唇を湿らせてから言った。
「……稲瀬、アリサ」
「 大丈夫?アリサちゃん?もう私達が来たからね」
少女の温かい手が、冷え切ったアリサの手を包み込んだ。
豆知識!
稲瀬アリサは本名じゃないらしいぞ!