2-2.残されたのは猫と家
阿頼耶識、集合的無意識、あるいはアーカーシャ――旧暦時代、オカルト風味に呼称されていた神力のありかは、現在はシンプルに『深淵』と名付けられている。
《真神》でも《偽神》でも、『深淵』へ無意識下で連結し、神力を操るところは変わらない。質と素早さ、絶対量が違うだけだ。
息をするように、手足を動かすように、《真神》や《偽神》は力を使う。一般人からしたらそこに違いなど感じないだろう。敵となるか、味方となるかが懸念材料であって、脅威には変わらない。
(みやびの人が怖がるのも、無理ないか)
目をつむったニオが思った、刹那。
にゃあ、と猫が鳴く。膝に温かい尻尾の感触が伝わってきて、集中が途切れた。
「……にに」
まぶたを開けてつけた名を呼ぶ。みけ猫が、ぼろぼろのカーペットに座ってこちらを見ていた。幻想的とも感じる緑の瞳は愛らしく、一気に気が緩んでしまう。
「邪魔したらだめですよ、もう」
猫をたしなめても仕方ないとあぐらを崩し、瞑想をやめた。誘惑されたからではない。単に集中できないからだ。
神力を高めるのに役立つ瞑想は、日課の一つになっている。それでも今夜は注意力が散漫で、いらないことまで考えてしまう。
怯えたような人々の目――賞賛の声を上げる群衆――嫉みが混じったささやき。
過去というノイズを振り払い、一人、かぶりを振った。まぶたを開ければににと目が合う。何してるんだ、といわれている気がした。
「今日は魚が手に入ったんです。食べますか」
苦笑し、尋ねれば、賢い猫は嬉しそうに一つ声を上げる。ニオはうなずく。
魚といっても養殖の深海魚だ。天然物は数年口にしていない。その事実に文句はないが、猫の体に悪影響がないかは少し疑問だった。生ではないし、きっと平気だと自分に言い聞かせる。
ににを抱え、ふすまを開けて居間への通路を歩く。フローリングが裸足に冷たい。
居間とダイニング、そして二つの部屋があるここは、二年前からほとんど変わりがない。元々は黒曜の住まい兼診療所だった。廃ビルの一室で、今は誰も寄りつかなくなっている。恩人が死に、相棒はとっくに出ていき、残ったのは猫と家。
「借金もだけど」
嘆息すると、ににのヒゲが微かに揺れた。
黎と二人、協力して借金を返そうとはしている。利息だって勇斗の口利きで、なんとか少なくしてもらっている。それでも未だ返済できないのは、はっきりいって相棒の金遣いが偏っているからだ。
「さやかさんは悪くないんですよ? けど、もう少し考えてほしいんですよね」
文句を垂れてもどうしようもない。嫌みったらしく言いたくもない。相棒の恋人は優しいし、明るい子だ。同性の自分から見ても好感が持てる。
が、借金を返しながらの娼館通い。はたから見れば金銭感覚が破綻している、と捉えられても仕方ないはずだ。
全く、ここに来てから自分はあきらめてばかりいる。
もう一度ため息をつき、ダイニングのテーブルに放置していた焼き魚を、皿ごと床に置く。
猫はランタンの明かりに瞳を光らせ、それでも上品に焦げた尻尾を食べはじめた。
「本当、美味しそうに食べますね、にには」
独り言が虚しいとニオは思う。やるせなくなり、視線をににから横にやった。
近くのリビング、その窓から覗けるは『俗区』の夜景。色とりどりの角灯や提灯、ガス灯の中に、合金でできた二十階建てのビルが見える。そこはみやびの本拠地だ。
「くらい、か」
昼間交わした勇斗との会話を思い出し、気落ちする。
確かに一般人の就職率は高くない。力がないなりに、仙月家や青嵐組の鉄砲玉となり、手っ取り早く稼ごうとするものは多い。まともな職を求めて、誰もがやっきになっている。
(……一人。ううん、二人)
ふと、玄関の外側辺りに人の気配を感じ、立ち上がる。同じくににも察知したのだろう。骨を残してリビングの方へと逃げ出していった。
殺気はない。敵意もない。神力もまた、感じなかった。一般人だろう。
壊れたチャイムの代わりに置いてある鈴の音が、響いた。客人か、とニオは首を傾げる。
「今行きます」
大きな声で返事をし、玄関の方へと向かう。
ベランダに回りこまれている感覚はない。物取りの心配はしなくてもよさそうだ。
「どなたでしょうか」
錆びたチェーンをつけたまま、扉を開ける。スーツを着た二人の女と目が合う。
「ニオね」
「……」
「大姐が下で待ってる」
下から上までくまなく値踏みするような視線を、女二人はニオへ送っていた。どこまでもフラットな心のまま、ただうなずく。
静芳にねぐらを知られていることは、不思議でもなんでもない。きわどい状況でもない。ニオは他にもいくつか隠れ家を持っている。自宅をさらすことは、静芳への最低限の礼儀であり、同時にデコイだ。
「今行きます。靴を履くので待って下さい」
女たちの前でなんてこともなく、無造作にカッターシューズへ足を突っこむ。チェーンを外し、外へと出ると、多少冷たい風が頬を撫でていった。
二人に挟まれ、非常階段を降りていく。遠くで聞こえるサイレン。バイクや車の音。今日も『俗区』は賑やかだ。
ニオが眼前から視線を外し、地上を見ると、赤い電気自動車が止まっているのが見えた。なんらかの神獣、その力を利用しているのだろうが、贅沢ができて羨ましい。
「お前ら、下がれヨ」
ニオが車の側まで行くと、車の窓が開く。
赤い三つ編み、小さめの黒いサングラスから見え隠れする緋色の目。黒い長袍の上からでもわかる豊満な胸を片腕で上げ、笑顔を浮かべる女こそ仙月家の大姐、仙静芳だ。
「お疲れ様です、大姐」
二人が車に乗りこむのを確認し、ニオは静芳へ声をかけた。
「ニオ、元気してたカ?」
「おかげ様で。今日はどうしたんですか、突然。少し元気ないようにも見えるし」
「慰めてくれる? 優しい子は、好きヨ」
「大姐を慰めてくれる子って、他にも多くいると思うんですけど」
「ま、そうネ」
そばかすが浮いた鼻をぴくりと動かし、静芳はこちらをねめつける。
「魚臭いナ。飯、食ってたカ」
「あ、ごめんなさい。猫に餌をあげてたんです」
「今度宅に来てヨ。ちゃんとした飯、食べさせてやるカラ」
訛りの強い含み笑いに、ただうなずく。勇斗の「食べられないように」という言葉が繰り返し、脳裏に浮かんだ。まさか人肉でも食べさせられるのかと思うと、少し顔が引き締まる。
静芳が煙管を唇に当てると、女の一人が火だねをつけた。
「ニオは新聞、読んだカ?」
「新聞……ですか?」
「みやびの出してるクソッタレなやつヨ。昨日、ちょっとした騒ぎ、あってネ」
紫煙をくゆらせ、彼女は折りたたまれた紙を窓から差し出してくる。ニオは素直にそれを手にした。ざらざらとした手触りのそれは、《七神災》のおりに変異した竹を使った竹紙だ。
ざっと目を通してみる。
碧志の死が書かれていた。それと同じ大きさで記されていたことは――
「本宅に侵入された? 大姐、大丈夫だったんですか」
「あたしの留守に、誰かが好きなようにしたのヨ。青嵐組のバカ息子で手を打とうと思ったけど、そっちも死んでるしネ」
「あ、本当ですね」
あえて遅く反応してみた。だが、彼女は怪しむそぶりを見せない。それもそうだろう、碧志は火で殺したのだ。体術と爪の切り裂きを武器にするニオが疑われることは、まずない。
(解剖されてたら大変だけど。そこはあの人がどうにかしてるか)
勇斗に頼っている事実に、内心むかっ腹が立つ。
腹立たしい思いを飲みこみ、首を傾げ、あたかも悩んでいるそぶりを見せた。
「大姐、これをわたしに見せて何を」
「ミヤビが動いてる。あそこも一枚岩じゃないからネ。協力者がいるのヨ」
「みやびに? 凄いじゃないですか、それ」
協力者、と聞いて一瞬ぎくりとするも、すぐに静芳の自尊心をくすぐることで揺さぶりを抑える。一方の静芳は、くつくつといやな笑みをこぼした。
「そんなモン当てにしちゃいないのサ」
「どうしてですか、せっかくなのに」
「人に期待する? そんなの間抜けがすることヨ」
静芳から煙管の煙をかけられ、独特の臭みに思わずニオは顔をしかめる。
愉快そうに笑った静芳が、より一層声をひそめた。
「殺し屋も、邪魔なのヨ」
「殺し屋……? 例の? 単なる噂話だと思いますけど」
「噂がある、すなわち種がある。そうすれば芽が出るネ。その前に、叩き潰す」
ぱきりと煙管を割って、彼女は蠱惑的に微笑む。
「ニオ、お金欲しい、違う?」
「欲しいですけど」
「正直な子は、好きヨ。だから買ってるの、ニオのこと。殺し屋の噂話、集めてきてくれるカ? 謝礼はたんまり。ニオもあたしも得するネ」
「うぅん……」
声を上げ、腕を組みつつ、ニオは悩むふりをした。
正直、勇斗に言われたことも気になっている。これ以上仙月家に肩入れしたりすれば、完全に『中原省』側へついたと見なされるだろう。それは遠慮しておきたい。
(大姐の方に行ったって、別に誰かが止めるわけでもないのに)
一瞬、兄と妹の顔を思い浮かべた。『天城都』に住む彼らは、地べたで泥をすする自分を見て笑うかもしれない。あるいは、何も思わないかもしれない。
興味の反対は、無関心――きっと後者だろうなと思い、嘆息した。
「情報屋じゃないので難しいでしょうけど……でも、話を手に入れたら持っていきます。それが有益かどうか判断するのは大姐。謝礼は見合ったものに応じて、というのは?」
「頭の回転速いネ、ニオ。やっぱりいつか宅に呼ぶヨ」
「ありがとうございます」
「それでいいヨ。じゃ、よろしく」
「はい」
一歩下がるニオへ笑顔を残し、静芳が車の窓を閉じる。そのまま車は元来た道を戻っていった。
結局、と内心だけで思う。
(いいように使われてる)
上手くごまかすためにどう動くか。
迷った末、脳裏に浮かんだのは黎で、相棒へ頼ることに少し抵抗を覚えつつ、ニオはもう一度大きなため息をついた。




