2-1.見るのはいつも雨の日で
「聞いてませんでした」と女は言った。
「年長者の言葉には耳を傾けるものだよ」と男は言った。
※ ※ ※
曇り空から降りしきる酸性雨は、肌へ容赦なく刺激を与える。腱が切られた足は動かない。どこかの軒下に移動することすらせず、ただぼうっと空を眺めていた。
臭く、汚いごみ山の上、寝そべりながらかろうじて無事だった左腕を伸ばす。
太刀によって付けられたあちこちの傷が、雨のせいかひどく痛んだ。それでも天へ手を伸ばす。きっともう、戻れない生まれ故郷にすがる自分が、ばかみたいだ。
このまま溶けて死ねばいい、とニオは思う。
『ニオはね、いらないんだって』
このまま楽に死ねればいい、とニオは思う。
『だから殺してもいいんだって』
唇だけで、兄さん、とつぶやいた。どうしてわたしを捨てたの、と声にならないささやきが漏れた。
『天城都』にいる《真神》三柱の一人、禍津日神の力を持つ兄――鵼。出来損ないの《偽神》として生まれた自分が、兄とは真逆の力を持っていたからだろうか。それとももう一人の妹に、興味と関心が移ったためか。
妹に太刀で斬られた瞬間、鵼は笑っていた。愉快そうに、楽しそうに。ニオの悲鳴を聞きながら酒を飲み、もう一人の妹を褒め称えた。理由などわからないまま、消えかかる意識の中で納得する。
神は気まぐれで、恐ろしいものだと。
モノクロームの記憶の世界で、自分はいつも、独りだ。
※ ※ ※
「こないだはお疲れ様。君たちはよくやってくれた」
眼前の映像。映る男――勇斗が着用している赤いネクタイに意識が向き、ニオの反応は少し遅れた。赤は嫌いな色だ。夢に出る兄の瞳を彷彿とさせるから。
「聞いてる?」
「聞いてませんでした」
「年長者の言葉には耳を傾けるものだよ」
返答もせず、薄暗がりを照らす電気提灯を見つめた。机の上にある黄色い光が、荒い立体画像と勇斗の嫌味な笑みを浮かび上がらせている。
「僕たちが着いたときには、もう死体だけがあったからね。素早い尽力に感謝したい」
「あなたがくれている仕事です。感謝なんていりません」
「まあ、互いに満足できる関係だし。僕は『俗区』の治安をよくできる。君たちは金と食料を得る。いい仕組みだと思わないかい」
「リスクを負うのはわたしたちですけど」
「彼の方は、元気?」
「元気なんじゃないでしょうか。仕事以外ではほとんど、話しませんから」
「君たちはあの人が繋いだせっかくの縁だ。大切にすべきだよ」
勇斗が貼りつける笑顔に、ニオはいらいらする。務めておもてには出さないようにしたが、黎に言わせると自分はわかりやすいらしい。拳を作り、肌に爪を立てて平静を装う。
「それはともかく、一般の仕事の方はどうなってますか」
「少なくとも、みやび側に君たちが入る余地はないね。《偽神》の君たちには」
「でも、清掃くらいなら」
「くらい、か。君が言うくらいレベルの仕事にだって、十分希望者は殺到してる」
勇斗の言葉に目を伏せ、嘆息した。これ以上、彼に噛み付くわけにはいかない。
彼――勇斗は『俗区』の治安維持部隊の長であり、議会の代表も兼ねている。いわば、みやびの顔だ。同時にニオと黎へ交渉を持ちかけ、殺し屋稼業をさせている人間でもある。
(違う。決めたのはわたしたち)
すぐに思い違いを正す。そう、彼はあくまで提案しただけのことだ。例えそれが、恩人たる黒曜の治療費に関してだとしても。
黒曜と共にいたニオは、《偽神》だということが周囲にばれている。『天城都』側に付くか『中原省』側に付くか――恩人の周囲にいた人間は、そればかりをニオへ尋ねていた。
黎は家に寄りついていなかったため、周りに素性が露見していないのが幸いだ。
みやびは表向きは中立だった。勇斗も《偽神》ではなく、一般人。力を持たない区民と一致団結している。昔からの強固な結び付き、絆。
そこにニオの居場所はない。黎の居場所もきっと、ない。
「君さ、最近、仙月家と仲がいいんだって? この先所属する場所を決めたのかい」
勇斗の言葉で静かにまぶたを開き、首を横に振る。
「大姐に気に入られる理由なんてありませんよ」
「そう? 彼も娼館に入り浸っているらしいから気になってね」
「仙月家の店、入りやすいんです。青嵐組の店はがらが悪いので。みやびの店には行きづらいですし」
「それは納得するよ。せいぜい美味しく食われないようにして」
「カニバリズムの気があるんですね。はじめて知りました」
「そっち?」
「違うんですか?」
勇斗が遠いところを見る目を作った。なんだろう、とニオは言葉の続きを待った。
彼はかぶりを振り、一転して真面目な顔になる。
「まあいいや。話は変わるけど、殺し屋がいるっていう噂が、もうこの区に流れていることは知っているよね」
「はい。あくまで噂程度のものだとは理解してます」
「ちょっと訳ありで、大姐が気にしてる。何か君の方で聞いてないかな」
「わたし、大姐と二人きりで話したことなんてないんですけど」
言って、ニオは首を傾げた。脳裏で赤い三つ編みを持った大姐――静芳の姿を思い浮かべながら。
仙月家の頭目にして、主。仙静芳は共工という神獣の力を持つ《偽神》だ。水を操る力もさることながら、明晰な頭脳を駆使して『中原省』側の代理人という地位にまで登りつめた。
彼女は『天城都』代理人、すなわち青嵐組の組長、嵐山とは敵対している。小競り合い程度の争いは日常茶飯事だが、本格的な抗争にまでは至っていない。相手の隙をうかがっているためだ。互いに、舌舐めずりをしながら。
もしかして、とニオは一瞬焦る。
「訳ありってことは……今回の仕事がきっかけで、大姐が大きい動きを見せましたか?」
「いや、そうじゃないよ。それとはまた別」
本当に? と自分の瞳が自然に細くなった。勇斗がまた、笑顔を浮かべてみせる。
「とりあえず君は食べられないように。次回もまたよろしく。追って指示するから」
「……わかりました」
食べられる、という意味はわからないが、気をつけろという警告なのかもしれない。内心うなずく自分をよそに、通信が途切れた。あっという間に静けさを取り戻した廃屋へ、風が入ってくる。
机の上の通信機を手に取り、地面に落とした。そのまま足で踏み砕く。何度も、何度も。完全に粉々になったのを見て、長いため息を吐き出した。
「大姐に好かれても嬉しくない」
つぶやく。本当に欲しいものは、もう失っている。
ようやく陽光を覗かせた空を見て、提灯の電源を切った。
提灯を片手に、今にも崩れそうな平屋から出る。ここはすぐ取り壊されることだろう。勇斗が指定する場所はいつもそうだ。もったいないと思うが、口出しできる立場にはない。
ポケットに入れた羊羹を取り出し、開封して食べながら歩きだす。
行儀が悪い、という内心の嘆きを無視した。二年前は食べ歩きだけでなく、雑魚寝にすら抵抗感を覚えていたが、今や時間も手間も惜しい。女だからと襲うようなばかは痛い目に遭わせればいいし、幸いその力が自分にはある。
(食料の半々は少し辛いかも)
今更ながら黎の出した条件に後悔した。非常食として重宝する菓子も、食べ続ければ飽きる。缶詰や野菜、米は、宣言どおり半分、朝方に相棒が持って行ってしまっていた。
「貯金、いくらあったかな……」
立ち入り禁止のテープが貼られている工事現場から、涼しい顔をして表通りへと出た。煉瓦や木材でできた建物が並ぶ道。路地を歩く人々の目はどこか、暗い。
菓子の袋をポケットに入れ、回り道をしてから帰ることに決める。青嵐組にも仙月家にも、みやびの面々にも殺しの現場を見られてはいないが、念のためだ。勇斗との会話も毎回、盗聴されないよう、専用の通信機でやりとりする。
不毛だ、と思った。打ち水をする長屋の男を横目で見つつ、雑踏にまぎれる。
本当に不毛で、先が見通せない。いいように使われているのは百も承知だ。殺し屋なんて、結局は自らの首を絞めるだけの職業だろう。だが、どうしていいのかわからない。
黒曜なら、相棒の父ならどうするだろう――そこまで考え自嘲した。
自分で責任を取りなさい、と言われると思って。




