1-4.喜びの歌が遠くで聞こえる
心の奥底、本心から願ってやまない黎の腕を、さやかが掴んだ。
「黎、平気?」
「俺は大丈夫だ」
「そうかな……仕事の疲れ、抜けてないとか?」
おもてを見上げる彼女の眉が下がっていることに気付き、黎は首を横に振る。
「仕事は一昨日のことだ。俺がタフなの、お前、知ってるだろ」
「だから言い方なんだってば、もう」
軽く笑い声を上げ、さやかが太股から降りた。黎の両腕が引っ張られる。
「ね、また黎の昔のこと聞かせて」
「つまらないことばかりだと思うぞ」
優しく導かれるように、架子床の上にある布団へ座った。二人、並んで。こうしているとごく普通の恋人同士に感じるのだから、どしがたいと黎は自嘲した。
「さやかは何を聞きたい?」
「黎のお父さん……黒曜さんのことは知ってるけど、お母さんの話聞いてなかったなって」
彼女の髪を梳く手が、止まる。それは一瞬のことだったが、機微に聡いさやかに硬直が伝わってしまったようだ。少し寂しそうに、恋人ははにかむ。
「いやな思い出があるなら、いいよ」
「そんなんじゃない。記憶に薄いだけだ」
「そうなの? ニオさんも知らないの?」
「お前と会ったあとだからな、あいつが親父に助けられたの。そのときにはもう、おふくろは死んでた」
「ごめん」
「なんでお前が謝る。親父と同じ病気だったらしいんだ、おふくろは。小さいときに死んだから、あんまり記憶にない」
さやかの頭頂を己の二の腕に押しつけ、ささやいた。
父、黒曜は、一年前に肺炎をこじらせて死んだ。みやびが経営する病院の中でもそれなりのところに入院していたが、薬の流通不足はどうにもならなかった。いや、担ぎこまれたときにはすでに手遅れだったのかもしれない。
黒曜という人間は、天朝の神獣、黄龍の力を得た《偽神》だったらしい。だが仙月家側にも青嵐組にも組みするわけではなく、みやびの中で力を抑え、漢方薬の医師として働いていた。
力を知られ、一般人から妬まれて石を投げられても、愚直に、口数少なく、抗争の中で傷付いた人を救っていたのが黒曜だ。それにしては呆気ない最期だった。
《偽神》も病で死ぬんだな、と黎はぼんやり思ったものだ。だが、治癒の力を持つ人間に頼らなかった分、借金は少なく済んでいる。そこだけは父に感謝した。
治癒能力に長けた存在は、大抵が区を通り越し、東瀛か天朝のどちらかに召し上げられる。中には隠れて商売をしているものもいるが、ぼったくりもいいところの値段を取られるのだ。
父は死ぬ間際、血を吐きながら言い残した。これで華月の元にいける、と。顔も朧気な華月という母親が、どういう女性だったのか黎は知らない。けれどさやかのように明るく、優しい女だったらしい。
「華月ってのが俺のおふくろの名前。親父との馴れ初めも聞いてないな、そういや」
「いい名前だね。二人とも『中原省』から?」
「多分そうだと思う。あんまりまともに話、してなかったし」
「黒曜さんと?」
「ああ。親父はあいつと話してるときの方が多かった」
「ニオさんのこと、助けたんだよね。ニオさん、医務所で手伝いしてたってことは知ってるよ」
「そう、あいつがいたからお前との時間が増えた。様々だな」
「いじわるだね」
嘘を見破られ、それでも黎は微笑む。額に口付けし、石鹸の香りを堪能した。
なんだかんだ言いつつ、決して口には出さないが――ニオには感謝している部分もあるのだ。黒曜に拾われた存在。『天城都』から捨てられた存在、それがニオだった。決して交わることのない二人が混ざり、今、殺し屋などという稼業をしている。住処も兼ねた医務所は借金のかたに持っていかれ、暮らしはちりぢりになっているものの。
父に病院を紹介したのも殺し屋の依頼を受け付けているのも、二人共通の知人ではあるが、黎はほとんど関知していない。全て相棒に任せている。
利用しているのか、と聞かれればそうだ、と答えるだろう。だがそれは彼女もきっと同じだ。目標を殺すときに役立つ支援、補佐役。ニオの性格を知った上での行動は、奇妙なコンビネーションを発揮している。
ただ――と、さやかの細腰を抱き寄せながら、冷静な頭で思う。
『共通の知人』というのが多少、厄介ではある。唯一、己とニオが殺し屋であることを知る人物。いけ好かない類いの人間で、信頼などこれっぽっちもしていない。黎が《偽神》であることを知るのは、その人物とニオのみだ。
秘密とは、必ず暴かれるものだと黎は思っている。真実を知っているものが一人いたとして、弾みで露見するものだと。ニオのことは第三者に囚われた際、拷問されても口を割らないと断言する程度に信頼してはいるが、知人に対しては未知数過ぎる。
「もう、黎。またむずかしい顔してる」
頬を軽くつねられ、黎は手の温もりで我に返った。頭の隅に浮かんだ知人の顔、ニオのおもてを消し去り、さやかの頭を撫でる。
「まあな、人間関係で少し」
「ハケン? みたいな感じなんでしょ? いやな人、やっぱりいるんだね」
「お前や曜子ほどじゃないさ。大変なのも、辛いのも」
軽口を叩けば、なぜかさやかは、亜麻色の団子髪を揺らす勢いでそっぽを向いた。
「なんだよ?」
「よーこちゃんの名前、出した」
年相応に唇を尖らせる彼女は、どうやらやきもちを焼いてくれているようだ。ちょっと意地悪をしたくなり、小さな背中に抱きついた。
「あいつと寝たとか思ってんじゃないだろうな」
「そんなことしないって信じてるけど……よーこちゃんは肌のツヤもいいし、かわいいし」
黎は内心で頭を抱える。さやかを指名するたび、曜子へ差し入れを持っていったのがまずかった。確かに出会ったときより、恋人の同僚は少し肥えているように思う。
「さやか」
名をつぶやき、さやかの頭上に顎を乗せ、後ろから抱きしめる。彼女は逃げようとしない。逃げるという行為を考えたことすらないのだろう。
この小さな部屋がさやかの世界で、だからこそ黎は壊したい。壊して彼女を連れ去り、一緒に笑い合いたい。何度、破壊衝動を抑えるのに苦労したことか。
だが、無理やり連れ出しても、きっと恋人は喜ばないはずだ。正規の手順を踏んで、さやかの自由――権利を取り戻す。そのためには金がいる。金、金、金。
「俺はあいつとは寝ないし、お前以外に好きなやつもいない」
それでも今、この瞬間に必要なのは、と思う。金ではない。言葉だ。歯の浮くような台詞だって、他の連中に聞かれたら小っ恥ずかしい言葉だって、さやかのためならいくらでも紡いでみせる。
「……あたしもそうだよ。黎に助けられたから好きなんじゃないの。黎が黎だから、好き」
腕に頬を擦り寄せるさやかの肌は、柔らかい。黎は彼女の、猫のような所作が愛しく思う。
以前、さやかが青嵐組のチンピラにさらわれそうになったところを、助けた。互いを知るきっかけはその程度だった。だが、ちょっとした縁は今や強固に結びつき、現在に至る。
彼女の胸から伝わる心臓の音が、とくとくと優しい。二人の心が結びついている、確かな喜びの音。その音を消さないために、誰にも渡さないために、己はここにいる。
さやかが身動ぎし、こちらへ振り返った。自然と唇を重ね、布団の上に倒れこむ。
黎は目を閉じて恋人を抱き留めた。大切なものは、腕の中にある。世界そのものと呼べる、大事なものは。