1-3.離れないでと傲慢に願う
『俗区』は碁盤の目状に作られた街だ。『天城都』の和風、『中原省』の中華風の文化それぞれがない交ぜとなり、どちらを支軸としたのかわからないほどごった煮の建築物がひしめき合っている。上空から見て東側は『天城都』に、西側は『中原省』に近い。
黎は『中原省』近くにある自宅から、南西側の道を歩いていた。清陵門、富狼門とくぐっていけば、次第に『中原省』の面々――すなわち仙月家直下の連中が行き交う表通りに辿り着く。綿生地の褲子、幾何学模様の赤い長袍を着こなしてはいるものの、褐色肌という出で立ちは未だ視線の的だった。
いつものことと気にせず、石の灯籠、橙色の縦長い提灯で飾られた道を無表情で進む。途中、屋台で肉饅頭を数個、買った。桂花陳酒も二本。さやかのためと店番の女用にだ。金を渡せば娼婦は勘違いする。食品を差し入れする方が後腐れなくて済む。
金髪を生温い風になびかせ、しばらく行くと小さな私家庭園が見えた。蓮の花形にくりぬかれた漏窓からは、紫煙をくゆらす女たちの姿が覗ける。花木の端、草むらに建てられた独立亭では、景色など無視した男女が半裸で絡み合っていた。
表門に着くと、桃色のネオンで美帆と浮かび上がる看板のもと、客引きの娼婦たちがたむろしている。
黎は媚びた視線、やかましいかけ声を無視し、表門から店に入った。
朱色の欄干に手をかけ、片腕で荷物を持ちながら庭園の湖を見て回る。造花の蓮と人工ホタルが水面で淡い光を発していた。
「あ、お兄さん、どーも」
「曜子か」
前から訪れたのは、派手な紫に髪を染めた少女だ。共通語で朗らかに声をかけてくる。出で立ちはさやかなどと同じく、披帛と丈の短い旗袍だった。さやか以外で唯一名を覚えている彼女は、恋人と同期の娼婦だった。
「さやかちゃんなら今、お風呂だよ」
「深夜に客が入ったのか?」
「うん。珍しく大姐の機嫌悪くてねー。休みなかったんだ。稼げ稼げってうるさくて」
「そうか……予約はしてある。支配人に来たことを伝えてくれ。あとこれ、差し入れだ」
「わー、ありがとね。うちは大人しく店番してるー」
曜子たち娼婦の分の酒と肉饅頭を渡し、残った数個を紙袋で持って彼女と共に先へ進んだ。
「予約のお客さまですー。さやかちゃんご指名」
「梅の間、二号にどうぞ」
曜子が声をかけた男に睨まれても、なんら怖くはない。もはや親の顔より多く見た顔なじみの支配人だ。とはいえ、話したことなどないのだが。
曜子と別れ、入り組んだ廊を歩く。支配人も他の黒服たちも、屈強だがみな、一般人だ。いや、もしかすれば己のように、《偽神》だと悟られないよう神力を消して過ごしているだけかもしれない。
神力は遙か昔、氣やエーテルと呼ばれていたもので、実際に人類が目の当たりにしたのは神々が顕現してからだ。体から溢れ出る神力を血液のように、空気のように循環させ鎮めること、《偽神》と露見しないようにふるまうのは『俗区』では当たり前のことだった。
黎とて例外ではない。さやかのためなら力を使うのも惜しくはないが、仙月家と青嵐組の睨み合い――『中原省』と『天城都』の代理戦争に巻きこまれるのは、まっぴらだ。
隠れて嘆息し、いつもの部屋、梅の間に入る。
取り立てて大きくない部屋の隅、素朴な茶几の上に饅頭と酒を置いた。近くにはクリアケースに囲われた風呂場がある。架子床も相変わらず粗末だが、ベッドメイクはなされていた。
代わり映えのしない部屋に、嫌気が差す。広さの有無でではない。恋人の仕事場だからだ。
早くここから、彼女を連れ出してやりたい。自由にさせてやりたい。椅子に腰かけ思案する。碧志とやらを殺して手に入れた金も、下級娼婦とはいえ、人一人を身請けするには足りない。
梅の花を模した漏窓から、空を見た。昼下がりの曇天は気分をいやでも落ちこませる。
「お待たせ、黎。ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった」
深淵に落下していく気持ちを呼び起こしたのは、さやかの優しい声だ。
扉を後ろ手で閉め、恋人は黎の背中から腕を回して微笑む。
「どうしたの? おとといより暗いよ?」
「自分の不甲斐なさに、こう」
「何それ。あ、なんかいい匂いするね」
「饅頭と酒、買ってきた。腹減ったんじゃないか」
「うん、食べたい!」
さやかが思い切り破顔する。そこでようやく、黎も苦笑を浮かべることができた。
「黎、これ見た?」
「新聞? みやびが出したやつか」
眼前の椅子ではなく、太股に乗った彼女の肩を抱き寄せる。さやかが新聞を茶几に広げてくれた。
「読んで。まだむずかしい文字あるから、何書いてるのかわかんないの」
「食べながらな。俺も腹減ってるし」
紙袋から出した肉饅頭はかなり温くなっていたが、まだ皮の柔らかさは保たれている。小柄な彼女に割った半分以上を手渡し、二人で密着しつつ新聞へ視線を落とした。
さやかは字が読めない。計算もできない。母親が『中原省』、父親が『天城都』の人間という混血児の恋人は、教育すら受けることなく借金のかたとして売られた。
そんな人間は『俗区』にごまんといる。大半は一般人で、なんの力も持たない。そんな無力な一般人をまとめ上げるのが、自治会のみやびだ。
『香魎』と呼ばれるこの島ができあがった際、不要な存在として、普通の人間や多数の《偽神》が東瀛側と天朝側より送られた。そのときにはもう、みやびという小さな集団があったらしい。
自治会は現在、『俗区』内のパトロールや病院運営、一般人の職業斡旋など、多岐に渡って活躍している。新聞の発行や放送局の運営もそのうちの一つだ。
「うーんと、アオ? ……アオ、あらし?」
「せいらんぐみ」
「むう。なんでこんなに文字、むずかしいのばっかなんだろ」
新聞の一面を見つつ、饅頭を頬張るさやかが一つ、唸る。彼女の頭頂に口付けしながら、黎は口角をつり上げた。爽やかな石鹸の香りがする。
「前よりかは読めるようになってきた。ゆっくり覚えればいいんだ」
「そうかな? ね、なんて書いてるの?」
「青嵐組の若頭、碧志、埠頭にて不審な死を遂げる……だと」
「ふしんな死……変な死にかたってこと?」
「ああ。それであってる」
読み上げて、素早く日付を確認した。今日、六月六日の発行となっている。号外が出なかったのも不思議だが、丸焦げの身元を確認するのが遅れたのかもしれない。それか、父親である嵐山が、新聞局に圧力をかけていたか。
『天城都』にいる《真神》の代理が青嵐組だ。それと対立しているのが、仙月家。
負けた神の力を持つ《偽神》でも《真神》に気に入られれば、武器や薬、人材などという援助を得られる。食料だってそうだ。ばか高いレートの『俗区』で、まともな食事をとるのは難しい。
新聞と睨めっこをする恋人を見た。十六歳とは思えない痩せぎすな体。亜麻色の髪の艶は、ツバキ油のものだと知っている。
どうしようもなく心苦しくなる。辛くなる。だが、労っても決して哀れみはもってはいけない、と思った。憐憫は他者を見下すものだとわかっているから。
「あ、ここに大姐の名前があるよ」
「……静芳の?」
気付いたさやかが、該当する箇所を指差した。すでにページは次、二面に移っている。
「六月五日、仙月家本宅に何者かが侵入……死者十数名、生き残りなし。敵対する青嵐組の犯行だと、大姐・静芳は語る。一方、青嵐組の組長・嵐山は潔白だと発表……か」
「そんなこと起きてたの? だから大姐、きげん悪かったのかな」
「かもな……どっちにせよお前、疲れてるだろう」
「わかる? 寝不足っていうのがほんとのとこだけど」
「半日分の代金は払ってる。今のうちに寝ておけ」
「黎ともっと話してたい。文字とか計算も、いつもみたいに教えてほしいし」
「無茶するな。時間はゆっくりあるだろ? いやっていうほど体に叩きこんでやるから」
「言い方、やらしい」
笑って饅頭を食べきるさやかに、黎も微笑んだ。だが体を重ねる気分は毛頭ない。話して、触れ合って、温もりを共有する。それだけで充分満足だ。
「そういやニオさんとの仕事、上手にできた?」
「ああ」
「なんの仕事だったの、体力仕事?」
「配水管の掃除」
饅頭を口に押しこみ、嚥下してからさやかを抱き留める。嘘が悟られないように。人を殺して、彼女を時間で買っている息苦しさを気取られないように。
「あいつが言ってた。邪魔してごめんだと」
「そういうとこ、ニオさんってまじめだよね。大姐たちに見つからなくてよかった」
二の腕に頭を預け、さやかが安堵の表情をする。彼女は優しい。いつでも、どんなときでも黎を否定しない。あらゆる面で己を受け入れてくれる恋人が、愛おしくてたまらなかった。
だからこそ胸の奥で眠るしこりが疼く。嘘をついているくせに、ともう一人の己が嘲笑する。真実を知ったとき、さやかが己を許すかどうか不明瞭に過ぎて。
腐って狂った世界の中で、唯一彼女が光に思え、細い体から立ち上る石鹸の香りを吸いこんだ。腕に置かれた手のひら、少し熱い体温が暗くなる心に染みこんでいく。
許してくれとも、愛してくれとも言わない。さやか、と心の中だけでつぶやく。俺の側から離れないでくれ、と。