1-2.暗く、落ちていく
また一人、死んだ。死んだ。死んだ。
発砲音と怒号、悲鳴、バイクの走り去る音が黎の耳に入ってこだまする。表通りからは血と脳漿が撒き散らされた匂いが鼻をつき、何度嗅いでもえずきたくなってしまう。
『香魎』中央区画――すなわち『俗区』の夜は物騒だ。いや、夜でなくとも危ない。薬物の売買人にラリった使用者、強盗に強姦。老若男女、いつだって損をするのは一般人だ。
今日は特に派手だな、とニオを先頭に、裏通りを走りながらぼんやり思った。
「どうやら青嵐組の鉄砲玉が、仙月家の人間を襲ったようですね」
前を駆ける彼女が言う。黎は黙って彼女の足を見た。白い羽が足首から生えており、温い風にゆうらりとそよいでいる。鴻鵠――天朝で呼ばれるところの神獣は、どうやら今でもニオを気に入っているようだ。
二年前――ニオを救った――父の病死――借金。
とめどなく溢れる単語を脳内から押し出し、黎は嘆息交じりに口を開いた。
「碧志ってやつはアホなのか。こんなときに外出するとか」
「少なくともまともではないでしょう。幼子に薬物を注入する相手ですよ」
「そうじゃない。チンピラが仙月家を襲うときに、どうしてわざわざ表に出てきた? ってことだ。跡取りだろ。自分が狙われるかもしれないのに」
「力への自信。増長、でしょう。碧志は火之炫毘古神の力を行使し、誰彼構わずいたぶるのも趣味だとか。むしろ狙ってくれ、と考えているのかもしれません」
「とんでもない《偽神》様々だな」
「あなたも《偽神》ですけどね。……そろそろ埠頭です。標的は一の二〇番。援護、お願いします」
ああ、と一言だけ返答し、彼女と別れる。コンテナ倉庫が建ち並ぶ埠頭は静かで、ニオもまた、音と気配を消して薄暗闇の中へと消えていった。
埠頭にもガス灯が設置されており、穏やかな海――いや、湖が丸見えだ。わずかな細波を立てるそれは、高度な酸性を保っている。遠くにあるのは特殊合金でできた壁。壁を隔てた先に『中原省』があるとは死んだ父親の言だ。
「……ひたってる場合じゃないな」
独りごち、ガス灯の明かりでかすかに見える文字を見上げて歩く。一、二、三……。
神獣の召喚、ならびにその憑依を得意とする自分にとって、切りこみ隊長がいるのはありがたい。いや、本当なら何もしたくない。戦闘も援護も、さやかが泣くようなことは何一つ。
それでも恋人は、娼婦だ。会うだけでも金がかかる。三年前、黎が十五のときに出会った際から、彼女はもうその職に就いていた。十四歳で大人の相手――一番売れていた頃。
「貧乏なのは辛い」
だから、とかぶりを振ってこめかみを掻く。
(俺は金をもらって人を殺す)
十九、二〇。
ターゲットがいる場所へ辿り着く。驚くほど、己でも怖いほどに思考が暗闇へ落ちていく。無我の境地。そのまま、無意識的に右腕を広げた。
「畢方」
指先から生じたのは、金色の渦。そこから一匹の鳥――いや、神獣が飛び出した。
白のくちばしと、体に赤い紋様を持つ一本足の鶴、炎を操る畢方を呼び出した瞬間だ。
眼前の倉庫が爆発した。
黎は走る。勢いのある炎は、入口から湖に向かって放たれている。大方ニオが、考えもなく突っこんだのだろう。それか扉を破壊しようと力を使い、溢れた神力を悟られたか。
風に舞う熱波は、黎が考えていたより弱い。コンテナの天井は煤だらけだが、穴が開いた程度で、未だ燃やしきれなかっただろう鉄筋が残っている。これなら、と冷静な頭で判断する。ニオの神力でもいくらかは耐えられるはずだ。
両足に力をこめ、屈んでから一度に跳躍した。着地するのはコンテナ上部に残された瓦礫の上だ。溶けた鉄骨の匂い、立ち上る熱気に顔をしかめるような真似はせず、眼下を確認した。
「クソ、クソ、クソ! やりやがったな!」
中から飛び出した――碧志と思しき青年が、狂ったように喚いている。両手には炎の尾。相対するのはニオで、彼女は体の線を斜めに、ただ拳を構えていた。
「全部パアだっ。ここにいくら金かけたのか知ってんのか、クソアマ!」
碧志の殺気だけは見事だ。台詞とほとばしる神力は三流並みだが。
ニオが、動く。
ばかの一つ覚えとばかりに、直線上に彼女は間合いを詰めていく。
「あほんだら! 死ねや、クソ!」
碧志は哄笑し、両腕を突き出した。空中に火球が生まれる。幼児くらいの大きさはある炎の群れに、それでも彼女は止まらない。火が、落ちる。
「喰え、畢方」
「んなっ……!?」
黎がつぶやいた途端、炎は柱に変化した。火球全てが火の柱と変容し、開かれた畢方のくちばしに吸いこまれてゆく。浮かんだ火球全てを食らい尽くした畢方は、どこか不満そうに翼を広げた。
「炎を飲んだだとっ……」
碧志が、はじめて気付いたとばかりにこちらを見上げてくる。驚愕のおもてをして。
その頃にはもう、ニオは彼の懐へと飛びこんでいた。
一撃、右拳で顎を打ち上げる。神力をこめた膂力で碧志が吹っ飛ぶ。ニオは追う。左手に、淡い緑の光を灯しながら。
宙に舞う碧志より遙か上空に跳躍した彼女の爪は、五本全てが長い刃となっていた。
《偽神》の能力は各々によって異なる。ニオであれば筋力増加と両爪の変容。碧志は見たところ火球を生み出すだけで、周囲の酸素を燃やし尽くしたり、手足に炎をまとわせることはできないようだ。神力も、怒りのためか一点集中ができていないことを黎は察する。どんなに多くの神力があっても、能力と上手く組み合わせられなければ、本格的な戦いでは役に立たない。
黎が見下ろす中、ニオは無造作に、斬った。碧志の顔から腹にかけ、遠慮も躊躇も何一つなく。血飛沫と引き剥がされた肉片がコンテナの残り火に輝いた。
「畢方、返せ」
己の言葉に、神獣はまずいものを吐き出すようにして火を噴く。
宙返りをしたニオの頭上をかすめ、火炎の息吹が絶叫する碧志を包んだ。自らのものと畢方の力そのものの炎は、螺旋を描いて彼を焼く。悲鳴すら通さないほど巨悪な業火だ。
焦げた死体が埠頭の道端へ落ちた。衝撃で四肢がばらばらになる。
人が焼かれる臭気は、なかなかにこたえる。それでも顔には出さない。黎は右腕の一振りで神獣を消すと、ニオの側へと着地した。
彼女はコンテナの近くで、消えかかっている炎に横顔を照らしながらささやいてくる。
「髪、焦げたんですけど」
「焦げて困るようなものじゃないだろ」
「髪は女の命だという言葉、知りません?」
「中に誰かいたなら、全滅だな、あれ」
黎はニオの言葉を無視して前を見つめた。コンテナの中は煤にまみれている。溶けかかった鉄の机や、爆風で飛んだと思しき手錠や足枷、紫の結晶を詰めこんだ瓶などが入口付近に転がっていた。
「扉は開いていました。中を見たとき、彼一人でしたし。これから誰かを捕らえに行く手はずだったんだと思いますよ」
「周りに仲間は?」
「探るのはあなたの役目でしょう」
目を細めながら言われ、こめかみをただ掻く。確かにそうだ。殺し屋なんて稼業に首を突っこんだときから、自然と役割分担はできていた。
索敵能力に長けた神獣を呼ぼうとした、そのとき。
サイレンの音が、遙か遠くから聞こえてくる。
「……みやびの連中が出てきたってことは、俺たちの出番はもうないな」
「ですね。依頼料の手渡しは、二日後にいつもの場所で。邪魔をしたこと、さやかさんに謝っておいて下さい」
さらりと言って、ニオはサイレンの音とは逆方向の暗闇へ駆け出していく。謝罪に肩をすくめ、黎もそれに倣った。
金が入るのが二日後でよかった、と内心思う。
人を殺した直後の手で、恋人を抱きたくはない。