1-1.新月の夜に欲を吐く
「面倒だ」と男は言った。
「頭かち割りますよ」と女は言った。
※ ※ ※
牡丹の模様が描かれた薄紅色の灯籠は、黎の情欲をそそるに十分すぎた。臥室を染める色の中、体の上にかぶさる白い肌がまぶしく見える。
「疲れてないか、お前」
「大丈夫。こんくらいでへばってたら、娼婦なんてやってらんないもん」
恋人は笑う。黎は不愉快になる。己以外の男へその体を見せていることに。だが、彼女を身請けさせるにはあまりに金が足りない。貧乏とは、と首を振る。精神的に余裕がなくなる。
「黎の金髪、やっぱりきれい。どうして伸ばしてるの? 切らないの?」
「切るのが面倒」
「もう。またけだるいとか、めんどうだとか」
たしなめつつ、恋人――さやかの瞳はどこまでも優しい。黎は愛おしく思い、床面に敷かれた布団へ彼女を押し倒す。安っぽい架子床が軋んだ音を立てた。
さやかの体を丁寧になぞりながら、灰色の双眸であだのある顔を射貫く。彼女の鼻を覆うそばかすは純白の肌に不釣り合いで、しかしそれも含めて愛らしい。少なくとも、黎にとっては。
「幸せだね」
「……そうか?」
「あたしはね。でも、ちょっと不安になるんだ」
「何が」
「あたしたちは今は幸せかもしれないけどね、ときどき怖くなるの。神様たちの気まぐれで、いつかこの生活も終わるんじゃないかって」
「俺がいるから平気だ」
さやかは答えなかった。視線同士がかち合う。見つめ合う。恋人の目の奥に、仄暗い光が灯っている。不安と焦燥。ない交ぜになった二つを、黎は取り除いてやりたい気持ちに駆られた。
甘い梅花の香と愛情、少しの肉欲に当てられたように、唇を重ねようとした瞬間。
窓際にある紫檀でできた囲屏の奥、その上から気配がした。
この店――美帆は、仙月家直下の娼館だ。高級とまではいかないが、それなりに値も張る。護衛や見張りもいる。他の客が覗きをするには、無理があった。
「黎?」
手を止めたことに疑問を覚えたのだろう。さやかが首を傾げる。
「面倒だ」
「頭かち割りますよ」
小さい返答。同時に、天井から囲屏の裏へ、一人の娘が軽やかに降りてくる。
振り返った黎には、白と黒、二色のグラデーションをしている短髪が確かに見えた。
さやかはシーツで小さめの胸を隠し、上体を起こしたまま引きつった笑みを浮かべている。
「に、ニオさん? びっくりしたよ」
「すみません、さやかさん。ことを見てはいませんから。今来たばかりなので」
小声だが凜とした声音に、黎は思いっきり舌打ちする。いいところで邪魔が入った。
「お前、見つかったら殺されるぞ」
苛立ったまま、床に散らばった披帛や丈の短い旗袍をさやかの裸体にかけてやる。それから近くの布で褐色の体を雑に拭き、下着と綿生地の褲子、白い長袍をのんびり着こんだ。
「そうだよニオさん、危ないよ。ないしょで入ってくるなんて。大姐が知ったら」
「どうしても仕事の人手が足りず、ぜひ彼にと思ったんです」
嘘つけ、と娘――ニオの言葉に黎はつぶやく。本職のことはさやかに話していないため、そこを考慮してくれたのだろうが。
靴を履いて架子床から立ち上がる。欲を吐き出したためか、体が少し重かった。
「行くの?」
「朝まで寝てろ、さやか。その分の料金は払ってあるから」
「うん……気をつけて行ってらっしゃい、黎」
「ああ。俺は表から出る。お前はとっとと天井から裏に出とけ」
「わたしに命令しないで下さい」
ニオは冷たく言い放ち、それでも一度の跳躍だけで再び消えた。
黎は気にせずさやかの頬を撫で、額に唇を落としてから臥室の扉を開ける。狭い室内に充満していた香の煙が、通路の冷たい風に流れていった。
※ ※ ※
美帆から出ると、客のついていない女たちがこぞって声をかけてくる。黎にとっては有象無象そのものだ。やかましいし、邪魔くさい。目もくれず、ヤナギが植えられている大通りから脇道へ、それから路地へと大股で回りこむ。
曇った空。饐えた匂い。ごみが散乱する路地裏に、ひっそりとした人影があった。
「殺す相手は?」
「理由が何か聞かないんですね、あなた」
ため息をつき、暗がりから近くのガス灯へ姿を現したのは、ニオだ。
特徴的な金の両目を細め、呆れた視線でこちらを見てくる彼女に対し、ただ肩をすくめた。
「標的がわかればそれでいいだろ。殺す、金と食料をもらう。結果よければ全てよし」
「その物言い、大姐に似ていますね。感化されました?」
「お前こそ大姐に好かれてるらしいな。倭人のくせに、って誰かが言ってた」
「言わせとけばいいんですよ。さて、仕事の話をしましょうか」
ニオは白い前髪から指を戻し、改造した着物の襟をこれ見よがしに正してみせた。
彼女の服装はちぐはぐだ。上は袖のない着物で下は黒いスラックス。帯の代わりに革のコルセットをしており、靴は踵のないカッターシューズを着用している。
『俗区』の一般人を気取っているのかもしれないが、まとう剣呑な雰囲気で無理がある、と黎は思った。思うだけで指摘もしないが。
「今回の標的は大物かもしれませんよ。『天城都』の青嵐組、組長の嵐山は知ってますか」
「会ったことはない。……まさかそいつじゃないだろうな」
「いいえ。彼の息子の碧志。それが今回の相手です」
全身から力が抜けた。こめかみを指で掻き、左右に首を振る。
「いくらで請け負った?」
「食料が十日分。金額は共通紙幣にして二十万然ですね」
「安いな。嵐山の能力なら知ってる。火之炫毘古神の力を持つ偽神だろ」
「碧志もそうですよ。ただ、力は嵐山と比べてかなり落ちるらしいですけど」
「《偽神》には違いないだろ……火を操るのは厄介だ」
「彼は子どもたちに薬を配り、廃人にしたところで殺しています。臓器売買で稼いでいるとか。今回、わたしたちに依頼をしたのは、殺された子どもの親御さんです」
「薬って炎氷だろう、どうせ。危ない薬に手を出す方にも問題があるだろう」
「生後半月の赤子に対しても言えますか、それ」
口から長い吐息が漏れた。何に嘆息したのか、己でもわからなかったが。
「話を急いだのは、今回珍しく碧志が『俗区』に来ているからです。この目で確認しました。一度し損じれば、屋敷から出てこなくなるから、というのが理由です」
「九対一。九が俺の取り分。食料は半々」
「それでいいです。急ぎましょう。『俗区』外れに碧志はいます」
正義感が試されるとき、ニオは損得を考えない。変なところで素直だ。二年前、はじめて会ったときからそれは変わらず、損ばかりしているように黎は思う。指摘も注意もしないが。
何も言わず、ニオは駆け出す。黎は追う。闇夜に二人の足音が小さく響く。
今日は神降歴五十八年の六月四日。新月は暗躍するのに十分役立つ。
※ ※ ※
とある大陸では《セブンダウン》、あるいは《セブンフォール》と呼ばれる出来事は、遙か昔、アジアと称された島国などでは《七神災》と言われている。
西暦二千年の中頃――世界中で神話に出てくる神々が突如顕現し、国々を壊滅状態にした戯れごとを、人はそう語る。巻きこまれた人々は死に、人口は著しく減った。同時に神に刃向かい、消滅した国も数知れず。たった七日間で地球の環境は様変わりした。
神々は気まぐれだ。何を考え、地球を破壊寸前までに至ったのかわからない。だが、なんにせよ八日目に『休息』してくれたのは、人間側にとってはありがたいことだった。
しかし、ただで終わらないのがまた、神たる所以だろうか。
神はそれぞれが気に入った『人間』に力を与え、特別な存在だと人類に認めさせた。彼のものたちは様々な呼ばれ方をするが、多くは《スピーラー》、あるいは《真神》と敬称される。
一般の人間は《真神》を恨んだ。羨み、恐怖し、妬んだ。これから崇める対象が同じ人間であったことを。ゆえに、媚びへつらい、崇めながらも現れた神々の能力を研究し、作り上げた存在がいる。
《偽神》。神々の戯れで敗北した神の力を持つ、にせものの存在。
それらは人間の手に負える代物ではなかった。作り出しておきつつ、人は対・《真神》の候補となった《偽神》を捨てた。それを拾ったのは《真神》だというのだから、皮肉にもほどがある。
だが、全ての《偽神》が寵愛を受けるわけではない。
《真神》の支配下に置かれなかった《偽神》は、人と共に生きつつ、彼らを支配するようになった。例えば、そう――《七神災》で大陸の形が変わり、陸が繋がった日本と中国。一般的に現在、東瀛と天朝と名乗る国には一つ、無法地帯がある。
『香魎』。わずかに残った海に面する、小さな島国だ。『香魎』に睨みを利かせているのは、東瀛側の『天城都』、そして天朝側の『中原省』の二つで、未だ戦は起こらないまま時は過ぎていた。
それがいいことなのか、悪いことなのか、誰にもわかりはしないだろう。
何より神というものは、気まぐれに過ぎるのだから。