第三章 赤日
第三章「赤日」その一
その腕に抱く赤ん坊の笑顔に、お雪は顔をほころばせて。
優しく体を揺らせば、揺れが心地よいのか、まだ歯の生えぬ小さな口をひらき、赤ん坊は目を輝かせて笑う。
腕の重みを感じながら、お雪は腕の中の赤ん坊に頬ずりをする。頬に、赤ん坊の頬の柔らかさとあたたかみを感じた。
「おひい様」
そばにいるお藤が、すこし困ったような顔をしている。
「そろそろ千丸どのを八重に返してあげてはいかがですか」
「そうでしたね。そろそろ母親の乳が恋しいでしょうし」
それを聞いて、お雪ははっとして。お藤に八重の子、千丸を預ける。
千丸が生まれてひと月して、お雪は初めて赤ん坊を腕に抱いた。思ったよりも重かったが、抱くうちにいとおしくなって。気が付けば、八重に千丸をつれてこさせて、毎日のように自分の腕に抱いていた。
「おひい様は八重から子を取り上げたいのですか?」
可愛がるのはいいとしても、はたから見ればまるで母親から子供を取り上げようとしているみたいで。お藤は見かねて、ついそんな皮肉をいってしまった。
最初こそ頓着のなかった八重も、さすがに最近は困っているようだ。
お藤に。
「いくらなんでも……」
と、ついもらしてしまったこともあった。お雪に可愛がってもらうのは嬉しいが、そのお雪の腕に抱かせるためだけに生んだのではない。それ以上に、千丸は亡き善景の忘れ形見でもあるのだ。
その忘れ形見を、鞠で遊ぶような感じで抱きたがるというのは、どうだろうか。
「八重に、詫びてください。申し訳ないと」
自分のしたことを反省し、哀しそうなお雪。
乳母としてお雪を幼少のころより育て上げたお藤だ、お雪のことがわからないわけではない。
しかし、いくらかは分別というものを持ってもらわねば。城主夫人が、家来の子を抱きたがるというなど、古今聞いたことがない。
辺境の小さな豪族の家だからこそ許されるかもしれないが、これがお雪の実家である中村家であればどうなることやら。
晩方、輝虎とともに夕食をとっているとき。何度もため息をついてしまっていた。
「どうした?」
妻の様子を案じて、輝虎が声を掛ける。その声色の優しさに引き寄せられるように。
「いえ、千丸のことですが」
「ああ、千丸か。可愛いだろう」
自分の幼名を与えた赤ん坊を、輝虎も好きだった。だが、お雪の手前もあるが、自分が腕に抱く赤ん坊は、自分とお雪の子でありたいと思い。千丸を抱くことはなかった。
それでも、内心は一度くらいはなどとも思わないでもない。
「いえ、今日お藤にいさめられまして。八重から子を取り上げたいのか、と」
それを聞き、思わず苦笑いをしてしまう輝虎。
「取り上げるか。お藤もきついことを言う」
「ですが、その通りですね。善景どのの忘れ形見であることを忘れ、鞠で遊ぶように……」
「まった」
善景、その名を聞き、途中で言葉を止める。
「もうよい、終わったことだ」
と、言った。それ以上続けられたら、あのとき、善景が自分のためにみずから命を絶ったことを思い出し、泣いてしまいそうで。いや、お雪も今にも泣き出しそうだ。よほどお藤のいさめが堪えたのだろう。
「よし、酒でもやるか」
「え?」
お雪はあまり酒が飲めない。それを思い、輝虎はお雪の前で酒を飲むことはなかったし、一緒に飲むこともまれであったが。今宵はともに一献、と言い出した。
「こんな時は、酒を飲めば良い。酒が、哀しみを溶かしてくれるからな」
と、輝虎にしてはめずらしく風情のあることを言った。
「まあ。お上手ですこと」
「なにが」
「そのような風情あることを、輝虎様でもいわれるのですね」
「おいおい、それではまるでおれは風情がない男のようではないか。そのようにおれを見てたのか」
「いいえ、滅相もない」
といいながら、なんだか笑いをこらえているみたいだ。さっきまで泣きそうだったのに。
やがて、侍女のお凛が酒と杯を持ってきて。杯をお雪に手渡し、酒をついでやった。
つがれた酒を少し口にふくめば、言われたとおり、胸中にある哀しみが身体の奥底へと溶けてゆくようで。それから、火照るような心地よさを感じて、ほっとため息をついた。
第三章「赤日」その二
中村家成と綾山常光との戦がはじまり、気が付けば、山々の木の葉の色が紅く色づこうとしていた。
朝夕の風が涼しくなってゆくのを肌身で感じながら、輝虎らは槍を振るい、戦場を駆け巡るも。
一進一退を繰り返し、なかなか決着はつきそうになかった。
ただ、刀槍を、己自身を、血で染めあげてゆく以外になかった。
今も輝虎は、戦場の真っ只中、騎乗にて槍を振るっている。
乱戦の中、土ぼこりが舞う。それを突っ切り、槍を突き出す。そうすれば、ひとり騎馬武者が馬から落ちる。
そのまま駆け抜けたとき、顔には土ぼこりや返り血がこびりつく。
「やあ、あれにあるは中村家成の娘婿ぞ」
「それ討ち取れ」
と、敵もさるもの、輝虎の戦場での働きを見て功名心を震わせて、いっせいに飛びつくように迫ってくる。それを、ひとり、またひとりと槍で突く。
しかし。
「さすが家成の娘婿よ、一筋縄ではいかぬわ」
輝虎が働けば働くほど、功名心はよりいっそう刺激されるのか、ひるむどころかますます迫ってくる。
逃げるものがないわけではないが、そんなものはまず輝虎の前に現れない。
現れるのは、輝虎の首を獲り手柄を立てたいという、名うての腕自慢ばかりだ。
「貴様ら、この津川十兵衛を知らぬか」
輝虎に次から次へと敵が迫り、とてもひとりでは防ぎきれそうもなかった。家来の十兵衛が、そのサポートにまわる。他の家来たちも主が討たれては大変と、輝虎を取り囲み必死の働きをして、そこでやっと一角を崩す。
そうなったらそうなったで。
「おのれ家成の娘婿め」
そう罵りながら、相手は引いてゆく。
―ちっ。―
と、舌打ちする。必死の働きで敵を引かせたものの、引っ掛かることがある。
―おれの名は、大高輝虎だ。娘婿ではない。―
何かにつけて、輝虎が家成の娘婿と呼ばれているのを、今までの戦でいやというほど聞かされた。これではまるで、虎の威を借る狐のようだ。
それは、何のためにか。
舅である中村家成への義のためでもあり。一城の主として、守るものがあるためでもあり。
そこに、野心というものの入り込む余地は、なかった。功名など、蛇足である。そのために槍を振るうのであれば、お雪を妻として愛してゆくこともなかった。
愛情を、闘争心へと転化し。戦場へと赴く。
それが、輝虎の生き方だった。
それは、お雪を妻として迎えた日よりさだめられたものだった。
第三章「赤日」その三
空は晴天、お天道様が地上に恵みの光を降りそそぎ。戦場の広野を囲む林の木々は、降り注がれる陽の光を受け止め、切り裂くように吹きつける涼風が、木々を揺らす。
揺らされる木々から、いくつもの葉が舞い散り。土ぼこりの中へと落ちようとする。その土ぼこりから響き渡る怒号、刀槍の音。そしてまた葉は舞い散り、地に落ちてゆく。
地に落ちた葉は、雑草らとともに無数の足で踏みしだかれて、降りそそがれる血で赤く染まった。そこに覆いかぶさる武士のしかばね。首はなかった。
それもまた踏みしだかれる。
輝虎の槍は一閃する。そのたびに、血はしぶき、誰かが地に崩れ。しかばねは積み重ねられる。
そのしかばねを越えて、ひたすら前へ、前へと突き進む。
その手に握る槍で、綾山常光を討ち取るのだ。
だが、その姿はいまだ見えず。
奥歯を噛み締め、またひとり槍で突き倒す。
―綾山常光はいずこに。―
倒しても倒しても、津波のように押し寄せる敵兵たち。突き崩したと思った一角は、後詰の部隊が駆けつけ、また新たな壁となって立ちはだかる。
「おのれ」
火でも吐くような声だった。綾山常光は戦上手とは知っているが、こうして突き崩した箇所がすかさず補修されて。結局またふりだし。ということが何度あったことか。
いままで、才木長久までは、少し強いところを見せればすぐに相手は引いていったのに。
「輝虎殿」
と、呼ぶ声。僚友の久遠実成だった。実成は輝虎のよきパートナーとなって、なにかと助勢してくれる。十兵衛も実成の声が聞こえたか、開きかけた口を閉じる。
「もう潮時でござろう。これ以上戦っても無益でござる」
そのとおりだ。相手はこちらの力量を十分推し量った上で戦をして、その手はずをきちんと整えているようで。見よ、さきほど突き崩した箇所から、溢れんばかりに兵が集まり始めている。このままいけば、必ずや飲み込まれてしまうことであろう。
「引け」
槍を掲げ後ろを指す。もうこうなっては引くしかない。
相手もこちらが引くのを見て、同時に引き始めた。必要以上の戦いで無用な損害を出さないため、追ったところで家成の娘婿に返り討ちにあうかもしれないとの警戒のため、後姿を見せず。槍を突き出しながら後ずさりしてゆく。
その用心深さが癪にさわり、輝虎は舌打ちする。十兵衛は息をのみ、その用心深さだけでなく、手際のよさに感心する。
実成は自分の部隊のみならず輝虎の部隊にも気を配り、スムーズな撤退が出来るようしきりに声を大にして皆を導く。
突き進むことは得意でも、後に引くことが苦手な若手の弱みを上手く補っている。
だが、これを何度繰り返していることか。
結局今回の戦も、ただの『戦』で終わってしまって。何も得るものはなかった。
第三章「赤日」その四
またか。
という、舅、家成の言葉。今回もさしたる戦果なく、互いに刀槍を打ち合わせただけ、ということへの苛立ちもこめられていた。
過日、常光よりの挑発的な手紙を受け取り、開戦を決したものの。この様はどうだろうか。
虎と恐れられたこの中村家成が、若い綾山常光にてこずっている。
紅い夕陽が山の陰に隠れようとする時刻。本陣とする古寺にあって戦場より引き揚げた娘婿ら家来一同を出迎えた家成は、眉間にしわを寄せ、戦の報告に耳を傾けている。
長く伸びた皆の影が、石のように固まっている。
結局のところ、何の進展もなかった。それが戦の報告であった。
「もうよいわ」
というや否や、古寺の中にひきこもってしまった。古寺といっても、昔はそれなりの格式があったのだろう、十数人程度の人数ならなんとか泊まれるだけの大きさはあった。その中の個室を、家成は使っていた。そこに一人の少女がいた。
お鹿であった。先に滅ぼした才木長久の娘で、生き残った一族ことごとく出家させてしまったが。このお鹿はたいそう美しかったので、側室にした。それを、戦にもつれてきているのだ。よほど気に入ったのだろう。
「おかえりなさいませ」
と床に指をつき平伏する。
それを見て、うむと頷き。それから、お鹿は家成の鎧を脱ぐのを手伝う。その間、黙りこくっていた。家成もお鹿も。
もともとお鹿は物静かでおとなしい性格をしている。言い換えれば、つまらぬ娘ともいえ。その若さと美貌がなければ、出家させられていた。
よそ事を思っていたのか、うっかり、家成の肌に爪を立ててしまった。
「なにをするか」
と、怒号とともに平手が頬に飛んだ。ぴしゃりという音が室内にはじけ飛ぶ。
「お許しくださいませ」
痛みを感じる暇もなく、慌てて額を床にこすりつけ平伏して詫びる。
「どいつもこいつも、まったく使えぬわ」
と怒鳴り散らし。それをかわすように、お鹿は身を伏せるしかなかった。それから、出てゆけという一言。今宵は伽などいらぬ、ここより出て、どこぞで寝よ。という。
戦に連れてゆくほど気に入りの側室にそこまで言う家成の、その心情は、いったどのようなものであったろうか。
「……」
お鹿は物言わず、部屋をあとにした。家成の側室ゆえ、猛々しい男たちからいたずらをされることはないだろうが。適当な場所を見つけ、木の床にねぞべりそこで夜を明かさねばならなかった。
家成の気まぐれで、好き放題に扱われて。
一族の皆とともに、出家させられていたその方がどれほどよかったか。と何度も思い。このような境遇に身を置かねばならぬことに、引き裂かれるほどに惨めな気持ちだった。
そして、どうして自分がそのようになったのかを思い、胸のうちにたぎる怨嗟の念。あの家成の娘婿のせいで、このようなことになってしまって。
今になって、はたかれた頬がしびれだして。目に涙がにじみ、流れ落ちる。
中でそんなことがあるとも知らず。実成は古寺を眺め、あごに手を当て物思いにふける。
いまでこそ人っ子一人もない古寺も、建てられた当時は寺の住職や僧侶、周辺の郷に住まう信徒らで賑わっていたことだろう。それが、長く続く戦乱のため、皆出て行ってしまって。
いまや血生臭い武士どもの寝所にされてしまって。
「ご神仏のお嘆きはいかばかりか」
ぽそっとつぶやいた。
野営で夜を明かさねばならない実成や輝虎たち家来衆は、星がきらめきだし暗くなりつつある空の下、郷への恋しい気持ちを胸に抱いて。ひとときの眠りを貪る。
明日も生きているかなど、その時になればわからなかった。
第三章「赤日」その五
その明日になった。
綾山常光を討て、という果たさねばならない至上命令。
その至上命令のもと、刀槍も、血も弾き飛ぶ。
その中を、輝虎は駆ける。
朝方、目覚める前に夢を見た。
お雪の夢であった。
お雪は言う。
「輝虎様が戦で人をあやめておられるなど、考えられませぬ。いいえ、考えとうもございませぬ」
どうして、あのお優しい輝虎様が、どうしてでございまするか。
という妻の言葉。
一瞬、目が見開き、口は半開きで止まり、息を強く吐き出す。
―どうもこうも。―
誰かが突っかかってくる。
「おぬしのためではないか」
そういったとき、騎馬武者がひとり地へと崩れ落ちる。槍で突かれた胸から血を噴き出しながら。
目もくれず、もうひとり。
―おれがこうして戦にゆかねば、家も城もない、おぬしとも一緒にいられぬのだぞ。―
戦にゆく前、お雪を抱きしめていた。
お雪は輝虎の胸元で、ご武運をお祈りいたしております、といってくれた。
これが今生の別れになるかもしれない。そう思うと張り裂けそうな気持ちになる、しかし、ゆかねばならない。
ご武運とは、どういう運をいうのだろうか。
はっと、思い浮かぶもの。
善景の子の千丸を腕に抱く、お雪の姿。
そうだ、こうして戦うのは、千丸のためでもあるのだ。もしご父君のご勘気をこうむり、家を潰されれば、千丸と遊ぶことも出来なくなるのだ。
ただ、戦をしているだけではない。すべてを、すべてを守るために、家成の命に従い戦にゆくのだ。
それを、ただ人をあやめるというのか。
しかし、どうしてそんなにそれが気になる。
それは、輝虎自身が一番感じていることだからか。いや、己は武士ではないか。と自分に言い聞かせ、戦場を駆け抜けてゆく。
その姿を見る綾山の軍勢のものたち。よってたかって輝虎を討とうとする。
「殿」
十兵衛だ。相変わらず突っ込みすぎる主のあとを追い、大声を張り上げる。
「深追いでござるぞ、自重されよ」
何をそんなに力んでいるのか知らぬが、あまりにも無鉄砲だ。ただ勇に任せてひた走る一平卒のようだ。
「殿」
もう一度読んだ。聞こえないか、輝虎はそのまま突っ込もうとする。それどころか、なにやら口走っているようだ。その口の動きから。
「綾山常光はいずこにある」
と叫んでいるようだった。
常光は家成と違い、自ら進んで戦場に立つ。まるで首を獲ってくれと言わんがばかりだが、もちろんそうではない。つねに戦場に身を置き戦うことが、家成と戦う上で、常光自身が決めた信条でもあり。またそうすることで、家来たちを鼓舞することになる。
御大将自らが槍働きをすれば、部下もおのずと励むものだった。強大なものを相手にするには、それくらいはせねばならないと、常光は思っていた。
それに、そうすれば必ず先走るものもある。そうすれば、軍勢の統率に乱れが生じる。
実際輝虎の軍勢は、指揮系統はなきにひとしかった。ただ、主に続いて突っ込むというような、猪武者そのものの戦いぶりであった。
「来ているな」
槍を振るいながら、菖蒲の旗印が徐々に近付くのを見て。
「おれの首もそうとうな高値がついているようだな」
と、つまらぬ冗談を口走る。思惑通りに、輝虎が動いてくれるからだった。
「須木屋主水ごときと、何も変わらぬ」
中村家成の家来集はみんなそうだと罵ってやりたかった。先の戦で先走った須木屋主水とかいう間抜けがいたが、条件をそろえれば、皆そのようになる。
実際、今の輝虎がそうだった。
常光から見れば、所詮彼らはただ喧嘩が強いだけのゴロツキ連中の寄せ集めでしかなかった。
第三章「赤日」その六
敵兵をかきわけかきわけ、輝虎は常光を探し求める。
髭面の三十半ばの大将、ときく。それらしきものを見つけようとしながら槍を振るうが、なかなか見つからない。
敵味方入り乱れての混戦の中だ、そうそうに見つけられるものではない。それでも、探し求める。
菖蒲の旗が、輝虎の後ろ、混戦の中を駆け巡る。
そんな様を思い浮かべながら、お雪は城の中の仏間にある本尊の前で、題目を唱え続けていた。
その黒い瞳に本尊を、本尊に書かれた御文を写し出して、数珠をもつ手を合わせて。
ご武運を、とはいったものの、それはどのような運なのだろう。
わからない。
自分は武家のむすめだ、でも、そうとは思っても戦にゆく輝虎たちのことを思うと、心穏やかではいられない。
いままで、何人のものたちがその戦で死んでいったのだろう。
そして、あやめてきたのだろう。
唱題をするうち、いつしか頭の中は空っぽになり、何も考えられなくなってきて。それでも、ただひたすら唱題をしていれば。
本尊を通して、脳裏に戦場が見えてきそうだった。
そのとき、ふと、思い浮かぶもの。
ひとついしだん(石段)あがりゃ
ひとつまりつけ
ふたつあがりゃ
ふたつつけ
おてんとさま(お天道様)は
それみてわらへ(笑え)
みっつあがりゃ
みっつつけ
よっつ いつつ むっつ ななつ やっつ ここのつ
とう
とうあがりゃ
とうまりつけ
とうあがりゃ
そこはおじょうど(お浄土)
それ
おてんとさまが
わろうとる
おてんとさまも
つけや つけや
まりつけや
幼いころ、輝虎とともにうたった手まり歌が、脳裏をかすめてゆく。
あの時は意味もわからずうたっていたけれど、それが唱題のさなかに、心に入り込んでくる。
「ああ」
ぴたりと、口の動きが止まった。口だけでなく、すべてが止まったようだった。
その手まり歌の意味。
人は石段をひとつひとつあがるように、年をとり、そして死んでゆく。
それは、あまりにも当たり前すぎるほど、当たり前なこと。生あるものは必ずや滅するのだ、それを幼き日に無邪気にうたっていたのだ。
だけど、その人の臨終は、どのようにして迎えられるのであろうか。
それを思うと、弾かれるようにしてまた題目を唱えていた。
そうすれば、本尊を通して、いま輝虎たちが身を置く戦場がまた見えてきそうだった。
声は震えていた、それでもお雪は題目を唱え続けていた。
第三章「赤日」その七
ふと、人の気配を感じて唱題を中断して後ろを向いた。閉ざされた仏間のふすまから、「おひい様」と呼ぶ声がする。その声は、八重のものだった。
「八重ですか」
と呼びかければ。
「はい」
という応えがかえってくる。
お入りなさい、というと、八重は静かにふすまを片手で開ける。もう片方の手には、千丸が抱かれていた。
「……」
千丸を見て、お雪は息を止め、その姿をまじまじとみつめる。先日、あまりにもおもちゃのように扱ってしまったため、母親の八重はもちろん乳母のお藤にまでひんしゅくを買ってしまって。そのために、八重は千丸をお雪のもとへと連れてこなかったが。
これはどういう風の吹き回しであろうか。
「千丸」
正座のまま回れ右をしながら、家来の子の名を、ぽそりとつぶやく。そうするうちに、ふすまは静かに閉められて、千丸を抱いた八重がやってくる。
「お城にやってきましたところ、おひい様は仏間にあるといわれ、お邪魔させてもらいましたが」
「そうですか。でも、どうしたのですか?」
「いえ……」
八重は、千丸をみつめながら、なにかためらいがちに語った。
「いえ、その。家にいるとお義父様が、千丸が泣いて嫌がるのも聞かず、腕に抱いてばかりで……」
いくら孫かわいさとはいえ、これでは千丸の心に障ると思い、城に避難して。同じ腕に抱かれるのなら、おひい様のほうがよい、という。
今男たちは戦に赴いているが、年寄りの晴景は留守をさせられていた。以前は無理矢理にでも輝虎についていっていたのだが、それでも役に立てられればよかったのだが、役には立てられなかった。年齢が晴景の戦闘力を落としに落としていたのだ。これでは足手まといになるだけである。
そこで、今度は輝虎が無理矢理にでも留守番をさせている、ということだ。が、そうしたらそうしたで、今度は千丸が被害を受けた。
それを聞き、お雪は晴景を不憫に思った。子に先立たれ、嫁や孫からも逃げられようとは。その晴景の心情も、わからないわけでもないが、やはり千丸への被害はなるべく防がねばならなかった。
「千丸は、おひい様がお好きなのでしょうね。さきほどまで泣きべそをかいておりましたのに、唱題の声が聞こえてくると、ほら」
と、腕に抱く千丸の寝顔をお雪に見せる。
目を閉じて、すやすやと眠っている。
ふくらんで薄紅色に染まった頬が、まるで桃のようだ。この頬を見ると、思わず指でそっと触れたくなる。
思わず千丸に見とれてしまったお雪だが、「あっ」と、八重を見て。
「今すぐわたしの部屋に戻りましょう。お布団を敷かせますので、そこで千丸をゆっくり眠らせてあげましょう」
八重は、その心配りに感謝して。お心遣い、痛み入りますと頭を下げた。
「お心遣いなど、滅相もない。わたしも千丸を鞠のごとくにあつかってしまいました。これは、その、せめてもの罪償いです」
と言いながら、幼いころにうたった手まり歌を思い浮かべていた。
千丸も、大人になれば戦にゆかねばならないのだろうか。輝虎と同じように。
できることなら、そうはならないでほしいと、思わずにはいられなかった。
輝虎が、戦にゆき、そこで人をあやめているなど、考えられないことだったし、考えたくもなかった。同じように、安らかに寝息を立てている赤ん坊が、大人になれば戦にいって人をあやめるなど、考えたくもなかった。
第三章「赤日」その八
おびき寄せるだけおびき寄せ、罠にはめて、殲滅する。造作もない。
といいたかったが。
そばに駆け寄った家来からの言葉を聞き、苦い顔をする。
同じ家成の家来である久遠実成が、猪のように突っ込む輝虎に追いつき、それを制止したというではないか。
「少しは戦を知っている者がおるか」
ふと振り返れば、乱戦の中、遠くからこちらを鋭く睨みつける若武者がいた。かなり近いところまで来ていたようだ。
―あれが、家成の娘婿かよ。―
初めて顔を見る。それなのに、直感的にそう思う。向こうも同じようで、自分を綾山常光だと思っているらしい。なんとも、お互い勘の良いことか。
少し後ろにいるもうひとりの若武者は輝虎の家来か、それで輝虎を押しとどめようとしているのが、久遠実成というものか。
もうすこしで、脇に潜ませていた伏兵の餌食にしてやったものを。
いや、そのとき、常光の中に電撃が走った。
―殺さねばならん。―
輝虎らの軍勢が、大将に追いつきそれを囲みはじめ、ひと塊になってゆく。これでは罠にはめても効果は期待できそうにない。だが、それどころではなかった。
直感が、常光に。
「かかれ」
と、全軍突撃を命じさせた。
これには家来が驚いた。罠にはめそこねてしまい、無用の損害を避けて少し後に下がるかと思ってばかりいたら。かかれ、とは。
少数とはいえひと塊になり、すんでのところで押し留まって、こちらからの急襲にそなえているというのに。いや、他の家成の家来の軍勢がやってくる危険性がないわけでもない。それでも、かかれ、とは。これは、常光らしからぬ下知であった。
しかし。
「なにをしておるか、かかれ、かからぬか」
と、叫ぶばかりだ。
そうこうしている間にも、輝虎らはじりじりと引いてゆく。こちらの気配を察したらしい。
「実成殿、すまぬ」
「それはあとでござるよ」
己の突っ込みすぎを詫びる輝虎に、実成は笑って応える。ほんとうなら、同僚として輝虎を叱らねばならぬだろうが、それどころではない。いや、ギリギリで追いつけた安堵の方が大きいようだった。とにかく今は引かねば。そうせねば、昨日のように引き切れるかどうか。
―なんと仏様のようなお方か……。―
十兵衛は実成を見て、感心するばかりであった。機に応じ、進退の手助けを丁寧にしてくれる同僚の武将は、実成以外にまずいない。
それどころか、他のものたちはばらばらで、お互い手助けするというような協力体制など、まずなかった。
だからこそ常光はそれを罵り、罠にはめようとしたのだが、地獄に仏と言わんがばかりに実成がしゃしゃり出てくる。
「中村家にも、人がおったかよ」
その人がもっと多ければ、こんな戦などせずにすんだろうに。などと考えている場合ではない。
「かかれ」
と、何度も叫んで、叫びながら常光が馬に鞭を打って飛び出した。家来たちも主が飛び出ればゆかぬわけにもいかず。
「それ、殿に遅れるでないぞ」
と、いっせいに輝虎たちに襲い掛かる。
「きてるぞ」
十兵衛が叫んだ。綾山の軍勢がこちらを追ってくる。みれば、今まで見なかった軍勢まで加わろうとしている。やはり伏兵がいたようだ。
―他のご家来集はなにをしている。―
輝虎と実成の、合わせて三百余の軍勢以外に、味方の軍勢が見えない。いや目を凝らせばいるにはいるのだが、ばらばらで統率が取れていない。おのおのそれぞれが自分たちの思うがままの戦をしている。
それに対し綾山のほうはどうだ。十兵衛は、舌打ちした。
「なんなんだ、これは」
と、吐き捨てずにはおれなかった。
―所詮、田舎の地侍の集まりに過ぎぬのだ。―
実成は、苦虫を噛み潰すような顔をした。はっとする輝虎。
―悲しいかな、おれもそうだ。田舎の地侍のまま、勇も知もない。できるとすれば、機を見て恩ある輝虎殿を危機より遠ざけることだけだ。―
それが、せめてもの実成のできることであった。実際、やばそうだという勘だけは当たる。それだけが、実成の唯一の取り得であった。
「あっ」
と誰かが声を上げた、と思ったら、倒れた。綾山の軍勢が前に立ちはだかり、突っ込んできて。
ぶつかった。
さきほど自分たちが追い越していったものたちが、壁となって立ちはだかり、輝虎らに襲い掛かってきたのだ。皆気勢を上げ、輝虎らを討ち取ろうとしている。
「おのれ」
遅かったかと、実成は叫んだ。逃げ切れなかった。囲まれてしまった。
輝虎は振り返った。
その途端馬首を返し、乱戦の中、綾山常光に向ってゆくではないか。
「ばかな、何をしている」
実成が叫んだ。
まさか、とは思ったが。そのまさかだった。
「ええい、ままよ」
十兵衛も輝虎に続く。完全に囲まれてしまっては、逃げ切ることは出来ない。死中に活ありと、いちかばちかの賭けに出たのだ。もう、それしかなかいようで。
輝虎、十兵衛に続いて、菖蒲の旗が綾山常光に向かってゆく。
先頭の輝虎は、乱戦の中を突っ切りながら、我知らず、お雪がいつも唱えている題目を唱えていた。
第三章「赤日」その九
一度退いた菖蒲の旗が、またひるがえり、こちらに向かってくる。その中から、ひとりの若武者が竜巻でも起こさんとするほどに槍を振るって飛び出してきている。
それに触れようとするものはことごとく、竜巻に飲み込まれて、血煙を上げながら吹き飛ばされてゆく。
吹き飛ばされゆく者はその直前に、唱題の声を聞いた。
「修羅」
ということが、あちらこちらで叫ばれた。
これには常光も驚かずにはいられなかった。
「ばかな、あやつには天魔がとりついておるのか」
思わずそう口走れば、そばの家来がすかさず。
「まことに、あれは修羅そのものにござる」
と付け加える。
さきほどから、修羅、修羅、とまわりの者たちが騒いでいる。それほどまでに、輝虎の働きぶりは凄まじかったということだろう。事実、何人束になってかかったところで、皆槍で突き伏せられてしまっていたのだ。
しかも後に続くものたちの働きも凄まじく、まるで、ひとつの塊がこの乱戦をかき乱し始めているようだ。
「逃げ切れぬと思い、わしを道連れにするつもりか」
歯軋りをしながら、菖蒲の旗を恨めしげに睨みすえる。どうするべきか、引くか、それとも受けて立つか。よもや家成の娘婿がここまでやるとは。
「やるか」
苦々しくつぶやく。やはり大将たるもの、敵に背中を見せるわけにもいくまい。それよりも、輝虎らの戦場での働きが、常光の心に、己は武士であるということに、火をつけた。
と思うや否や、常光は輝虎目掛けて馬を走らせた。
さきほど見た若武者が、きっと家成の娘婿、大高輝虎であろうとみて、まず間違いはないだろう。
―よい目をしておったな。―
輝虎という名に負けぬ若々しいその武者ぶりは、同じ男として嫉妬を覚えるほどだ。だが哀しいかな、その輝虎は、中村家成という粗暴な大豪族の手足でしかなかった。だからこそ、娘婿になったのだろうが。
「大高輝虎というは、うぬか」
と、乱戦の中馬を駆け巡らせ、ようやくその若武者を見つけた。返り血を全身に浴び、真っ赤に染まった顔をさらに赤くして槍を振るい敵兵を屠るさまは、まさに修羅であった。
常光の呼びかけに気付き、輝虎は声の方を向いた。声の主は、さきほど綾山常光と思しき(おぼしき)ものだった。
「いかにも、大高輝虎でござる。綾山常光殿でござるか」
「左様、綾山常光である。汝ほどのものを雑兵づれに討たせるは忍びない。このわし自らの手で葬るが武士の情けと心得よ」
これに慌てたのが常光の軍勢のものたちだった。御大将自らの槍働きで敵方のいち部将を討ちとろうなど、正気の沙汰ではない。そうでなくとも相手は修羅の如きものだ。気ぐるいあそばされたか、と家来たちが駆け寄ろうとするが。
「手出し無用ぞ!」
と輝虎に向かってゆく。
そう思ったころには、すでに槍を数合あわせた後だった。
しかし、槍働きに関しては輝虎が数段勝っていたようで。常光は押され気味だった。
槍を交わす中、常光は輝虎の目を見た。その黒い瞳はらんらんと光り輝いていた。
―綾山常光を討てば、戦は終わる。―
お雪を悲しませることもない。
「うぬは……」
押されながら、常光がつぶやく。らんらんと光り輝く瞳の奥に、何かが見えたようだった。
だがつぶやいたのはまずかった、一瞬の隙を作り出してしまったのだ。
両勢の者たちはそれに合わせるように、一瞬だけ戦の手を休め、それからどうなるのかを、固唾を呑んで見守ろうとしていた。
常光の体勢が崩れ、喉目掛けてて槍がほとばしろうかとする、まさにその直前。
輝虎の目先を矢がかすめ飛んだ。
「卑怯」
十兵衛が叫んだ。御大将を討たせまいと誰かが矢を放ったのだろう。が、あとであれは流れ矢であろうと言い訳も出来るのが、なんともたちの悪い仕業であった。
かすめ飛ぶ矢に気をとられ、輝虎の動きが止まったのを見計らい、誰か家来が常光を無理矢理引っ張っていって、その場を脱した。
一瞬でも動きを止められてしまえば、もう機会はなかった。
「おのれ」
と叫びあとを追いかけようとしたが、肩を掴むもの。実成だった。
はっとした拍子に、その拳が頬にぶちつけられた。
第三章「赤日」その十
目先を矢がかすめ飛んだかと思えば、次は拳がぶちつけられた。
輝虎は馬上よりよろめき落ちそうになり、ようやくにして手綱を握り堪える。
同じく馬上にて、剣を左手に持ち替えた実成が、右手の拳を握りしめて、輝虎を睨みすえている。
「さ、実成殿」
ぽつりとつぶやく。
周りの者たちはことの事態についてゆけず、何故輝虎が僚友に殴られねばならぬのかわからずぽかんとしていたが、はたかれたようにして「はっ」と我に帰り。また再び刃を交えはじめる。
しかし、綾山常光が後ろへ引いたために、ともに刃を交えながら後ろへと下がってゆく。
輝虎も、実成も、さきほどのことなどどころではなく、下がってゆく。下がりながら、実成は輝虎のその様を見た。
全身に返り血を浴び、槍も血に染まり、槍の穂先より滴り落ちる血に柄も赤く、柄を握る手も、赤かった。
十兵衛も見た。
その姿を、お雪に見せられるかどうか。
平時にあっては、良き夫であり、良き領主であっても。有事にあっては、どうだろうか。それこそ、いまのような、真っ赤に染まらねばならない。
実成もまた、同じことを思う。
自分たちが今生きているとき。それが、どのようなときなのか。
生まれるときは、選ぶことは出来ない。
出来る事といえば、生まれ出でたときを、精一杯生きること。
輝虎のその真っ赤な姿も、生まれ出でたときを精一杯生きているということなのだ。
大きな声を上げて泣き喚く赤ん坊のままに。
頬にこびりついた血。まるで血の涙を流したかのようだ。
その頬が、痺れる。
―あの仏のような久遠実成殿が……。―
なぜおれを殴ったのか。
しかも戦のさなかに。
思えば、猪のように突っ込むばかりの輝虎を上手く導いてくれた。行くときも、引くときも。
どうして、そうしてくれたのか。
―おれを思うあまりのことか。―
落城寸前の久遠の城を、急ぎ駆けつけた輝虎が救った。いまも、その恩義を抱き続けている。
いや、それだけではない。
輝虎に、死んでほしくないから。
にもかかわらず、死に近付くようなことばかり。
それどころか、猪のようにつっこむことで、無用な戦死者も出る。実成はそれを戒めたかったのだろう。
―しかし、我らは武士ではないか。それが死を恐れるなど。―
なぜか頭が冴え、色々と思い巡らせている。
もうだいぶ引いた。綾山の軍勢も見えない。なにはともあれ、今日も命を繋いだ。と思ったそのとき。
「見たぞ見たぞ」
と、わめきながら近付く影。
須木屋主水であった。
「家成公の娘婿殿を殴るのを、この目でしかと見たぞ」
騎乗にて家来を引き連れ、まっさらにきれいな槍の穂先を実成に向け、家来を引き連れてやってくる。
―まずいのが来た。―
十兵衛は顔をしかめた。
輝虎もはっとして、実成をかばうように前に進み出た。
実成は、表情を変えず動じない。それを見た輝虎と十兵衛、よもやと思うが、すべて承知のことか。
たしかに、あの乱戦、人ごみの中、敵も味方も多数のものが見ているはずであるが。
よりにもよって、須木屋主水にまで見られていようとは。
しかし、あのまっさらにきれいな槍の穂先はなんだ。ただ乱戦の中にいるだけで、何の働きもしなかったということか。おそらく、家来どもに周りを囲ませて敵を凌いでいたのだろう。
―卑怯。―
輝虎は顔をしかめ主水を見据える。常光との一騎打ちの際に十兵衛が卑怯と叫んだが、主水にこそその言葉を浴びせてやりたかった。
当の主水はそんなことなどちっとも気にかけていないようで。
「このこと、お屋形さまにとくと申し付けておくぞ」
と言いながら、引き揚げてゆく。
その後姿すら見たくもなく、輝虎らは距離を置きながら、引き揚げてゆく。
その後どうなるのか、悪い予感が脳裏を離れなかった。
続く