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第二章 あやめ(菖蒲)の旗 頁四

第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その三十一


 常光みずから槍を手にとり、この乱戦の中を駆け巡っている時。

 にわかに騒ぎ出す雑兵たちの姿を目にした。

―どうした。―

 敵に不意打ちを食らわせ、形勢は一気に逆転し、あとはその敵を木っ端微塵に打ち砕くのみという時に。

「殿」

 と呼ぶ声。家来がひとり息せき切って駆け寄ってくる。

「何事だ」

 ともに槍を繰り出しながら、何事かと聞けば。

「い、一大事でござる。田尾和孝殿が、家成の娘婿に」

「和孝が、娘婿にだと。どういうことだ」

「う、討たれ申した」

「なに!」

 すると、あとからあとから、雑兵たちがあらぬ方向へ向って走ってゆくではないか。皆、恐怖の色を湛えて。それを見たほかのもの達にも、その異変は伝わった。

 これは何事か、皆そう思った。

「ばかめ」

 それだけを言うと、苦い顔をあらわにし。

「もうよい、引け」

 と、下知を下す。

 もう十分に、敵に打撃を加えている。これ以上無理をする必要もあるまい。だがそれ以上に、あろうことか、仮にも一部隊長をつとめるものが討たれたとあっては。

 ひとり討ち死にでも、雑兵が討たれるのと大将が討たれるのとでは、わけが違う。大将ひとりの討ち死にで、戦の形勢が大きく変わることもあるのだ。単純に言えば、大将とは強く頼れる者をさす。その強く頼れる者が、討たれたとなれば。その下の者たちの動揺いかばかりか。

 下手をすれば、こっちが逆転されるおそれがあった。だから、今勝っているうちに引かねば。

 よく聞けば、一騎打ちを申し出、それで討たれたというではないか。

―家成の娘婿に陣を破られたのを悔いたのだろうが、それにしても軽率な真似をしてくれたものだ。―

 そう思わずにはいられなかった。哀れに思わないでもないが、部隊を率いるものとしては、やはり軽率すぎた。そのために、己は討たれ。 

 そのために、引かねばならなくなってしまった。

 この時、常光の脳裏にひらめくもの。

―家成の娘婿は、必ずや殺さねばならぬ。―

 そうしなければいけないような気がしてくる。

 胸に殺意を生んで、それを秘めて。常光は残りの一突きを敵兵に食らわせて、軍を引いた。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その三十二


 自分が倒した田尾和孝にも目もくれず、輝虎は善景のなきがらのそばにいて、呆然と立ち尽くしていた。

 大将が討たれたことで、綾山の兵たちはみな恐慌をきたし、一斉にその場から逃げ出している。仇討ちと、輝虎に挑もうとする者はいない。

 挑んだところで、和孝の二の舞を食らってしまうのがオチだ。それだけの強さを見せ付けられたあとでは、逃げるより他はない。

 右手で血塗られた太刀を握って、善景と、善景のなきがらにすがりつき泣きむせぶ晴景を、輝虎は閉じられそうな目で見下ろす。逃げ出す敵兵にも目もくれない。

「……」

 なんと言葉をかけてよいやらわからぬ実成だったが、はっとして。

「引け、もうここに長居は無用じゃ。引け、引け」

 と、腑抜けになってしまっている輝虎に代わって下知を下す。林からの不意打ちで大きな打撃をこうむり、多数のものが討たれ、とてもこれ以上の進軍は出来ない。

 それ以上に、この進軍そのものが不必要なものだったのだ。須木屋主水などのために……、と普段温厚な実成ですら怒りを感じ、このことを、主君の中村家成にとくと伝えねばと思っていた。

 そうでなくば、ここで死んだ者たちがあまりにも哀れである。

「そうじゃ」

 と、十兵衛もはっとして、輝虎が倒した和孝のもとにゆき。その割れた兜を取り、両の耳をそぎ落とそうとする。

 輝虎が氏清父子を前にしてあの有様では、自らの手で『手柄』を持って帰るところまで気が回らぬであろう。

 本当なら首を取って帰りたいが、あごまで割れていては持ち運びが不便だったし、それ以上に、さすがに歴戦のつわものである十兵衛でも、あごまで割れた顔を見るのは堪え切れないものがあった。

 兜と両の耳を持って帰り、それを輝虎の『手柄』の確かな証拠とするのだ。この状況下でも、輝虎は果敢に戦ったということを、皆に伝えたかった。もちろん、中村家成にも。

 割れた兜を取り、耳をそぎ落とす最中、ふと背筋に怖気を感じた。この割れた顔をつくりあげた主の輝虎にも、怖気を感じた。

 輝虎の怒りと哀しみは、それだけ大きかったということだろうが。これが戦なのだと、まざまざと思い知らされる。

 やがて引き潮のように両軍の兵が引いてゆき、あとには死んだ者たちが残された。

 善景は晴景がおぶっている。首筋に血がしたたる、それを意にかけず、鼻をすする音をさせながら、ただおぶって歩く。

 孫の誕生を子と一緒に祝いたい、その想いは儚くも崩れ去ってしまった。

 善景が、武士であったがために。

「この親不孝ものめ」

 と、何度も何度も、繰り返しつぶやいて。首筋にしたたる血の冷たさを想う。 

 気がつけば、空の雲は風に流されて、蒼天が広がっている。雲は思い思いの姿かたちになって、つわものどもをあとにして、空を旅してゆく。

 隠すもののなくなったお天道様は、その恵みの光を降り注ぎながら、ただ下界を見下ろす。

 草花の雫は、恵みの光を受け、きら、きら、と輝いて。水たまりは空を映し出して、輝虎の目にも、水たまりに映る空が見えた。

 それを踏みつけ、空を濁してゆく。空を濁したあとに、見たものは。

 泥にまみれた、菖蒲の旗だった。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その三十三


 敗戦の報告をうけた家成は、最初こそ顔を真っ赤にしたが。やがて落ち着きを取り戻し。

「勝敗は兵家の常である」

 と、諸将だれひとりとして、責任を問わなかった。

 確かに戦に破れたのは痛いが、取り返しのつかないほどのものでもないし。さきほど述べたように、勝敗は兵家の常である。

 戦をする以上、勝つこともあるし負けることもある。それでいちいち咎めていては、キリがない。

 という旨のことを家来たちに言った。

 輝虎も実成も、主水も、家成の滞在する寺社にてその労をねぎらわれて。

 その中で、輝虎が綾山家家来の部将を討ち取ったことが何より嬉しそうで。割れた兜と耳をさしだし、さすがは我が婿殿よ、と機嫌よく褒めちぎったものだった。

 それどころか。

「はよう孫の顔をみせよ」

 とまでいった。

 輝虎はただ、ははっ、と深く頭を下げた。

 自分のことなど、どうでもよいのだ。主水が敗戦の責任を取らされて、なんらかの処罰をうけることを期待していた、なのに、そうはならなかった。

 確かに、勝敗は兵家の常である。家成の言い分がもっともだと、自分に言い聞かせるしかなかった。

 しかし、孫の顔となると、こればかりは天からの授かりものである。みせよといわれて、すぐにみせられるものではない。

 結局のところ、何もいえず。帰還を許されて、それに甘えて帰るしかなかった。

 善景はというと、宿営地でだびにふされた。さすがに、そのまま郷へ帰すわけにはいかなかった。

 帰り際、実成が輝虎のもとを訪れてきた。

 朝、宿営地を引き払い、一路郷に向おうとする少し前のことだった。

「輝虎殿と話がしたいが、よろしいかな?」

 と、気さくな表情で、ひょっこりと徒歩で姿を表したのだ。まるでご近所さんへちょっと挨拶を、とでもいいたげに。

 遺骨を納めた木箱を抱いて哀しみにふける晴景や、物憂げな十兵衛を横目に、訪問客を出迎える輝虎。

 その顔を見て、実成はほほえんだ。まだ疲れてはいるようだが、背筋をピンと伸ばし、なにごとでござろうか、とはきはきとした声で出迎える様は、まさにまだはたちの若者であり。

 それが、うらやましくもあった。

「いやいや、ちと、詫びをと」

「詫び? いえ、実成殿に詫びられるようなことはありませぬが」

「それが、あるのですな。ほれ、この前、わしが輝虎殿に言ったこと。大物うんぬん、と」

「ああ」

 この前、久遠の城が才木長久に攻められ、その助けに行った時のことだ。そのとき実成は「ご自慢の武勇は大物にお使いなされ」と、輝虎にいった。

 そのとき、大物がだれになるかまだわからなかったが、今回、綾山常光という大物を相手にして。その結果……。

「あのとき、わしは大物との戦というものがわかっておらなんだでな。つい軽くいってしまったが。それが現実となると」

「いえ」

 輝虎はあわててかぶりを振った。そんなことなど、とっくに忘れていた。それを、実成は詫びたいという。

「そのようなことで、実成殿がわたしに詫びる必要などありませぬ。むしろ色々と助けていただいて、こっちが礼を言わねばなりません」

 田尾和孝を討ったあと、輝虎に代わって実成が軍を手際よく引かせてくれた。

 詫びるという実成に、輝虎は遠慮して。ありがとうございました、と頭を下げた。

「そうでござるか。では、次にあいまみえるときまで、お達者で」

 と、実成は自分の宿営地へと帰りゆき。輝虎はその背中を見送った。次にあいまみえるのは、そう遠い日のことではないだろうし。やはり、今回と同じように、ともに戦うことになるだろう。

 ともに中村家成の家来なのだから。そして、自分は中村家成の娘婿なのだから。

「よし、帰ろう。郷に帰ろう」

 と、輝虎は皆に言ってまわった。

 今せねばならぬことは、それなのだから。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その三十四


 輝虎らが郷に、城にかえりつけば。お雪をはじめとする女たちはたすきを巻いて、男たちに握り飯をふるまった。

 早馬からの伝言で、もうすぐ皆が帰り着くことを聞いて。それと同時に、ひどい負け戦で、善景をはじめとしてたくさんのものたちが死んだことも聞いた。

「……」

 はじめは絶句していたお雪だが、すぐにお藤やお凛たちに命じて、米をたき、握り飯を作らせ。みずからもたすきを巻いて、はたらいた。

「おひい様みずから……。もったいなや」

 敗戦のショックでこれでもかとしょげかえっていた男たちは、涙を流しそうになりながら、お雪の持つ盆の握り飯を手に取り、ひとつぶ残さず大事そうにほおばっていた。

 お雪はただの城主夫人ではない、中村家成の娘なのだ。ゆびさきにささくれが立つことすら許されないほど、大事にされねばならない存在なのだが。

 お雪自身、それがいやだった。

 それこそ、お藤やお凛がとめようとしたが。

「わたしはただここに鞠をつきに嫁いできたのではありませぬ」

 と、とめるのも聞かず、はたらいた。米のとぎ方やたき方は確かに知らぬが、皆に配ることぐらいのことは出来る。その昔、採った桑の実を、皆に配っていた。

 男たちが戦から帰ってきても、なにもせず笑顔を振りまくだけだった。でも、こたびの戦のことを聞いて、いてもたってもいられなくなった。なにより善景は、輝虎のためにみずから果てたというではないか。

 広間で腰を下ろす男たちの間をすり抜けはたらきながら。

―八重になんと言えば。―

 そればかり考えていた。

「お雪……」

 そんな妻の姿を見、輝虎は何も言わなかった。お雪が皆に握り飯をふるまう様にも見とれず、同じように。

―八重にどう言おうか。―

 と、考えをめぐらせていた。八重は氏清家の邸宅にて、夫の帰りを待ち侘びているはずだ。身重でなければ、ここで皆と一緒に握り飯をくばっていたことだろう。

 さすがに城主だけに、他の者たちのようにうなだれるわけにもいかず、背筋を伸ばしてしゃきっとして、お雪から受け取った握り飯をほおばる。

 米が、甘くしみた。

 大きくなった八重のお腹を思うと、涙がにじんでくる。

「ばかめ」

 と、ちいさくつぶやいた。

 晴景は、いない。庭に出て、陽の光になでられながら、ひとり哀しみをかみしめている。

 とても飯など食おうという気にならなかった。

 十兵衛は壁にもたれて、足をのばし、天井を見上げていた。その昔、善景に喝を入れられたことを思い出しながら、握り飯をほおばっていた。

 お雪も、お藤やお凛も、皆の沈み具合を見て、よほどのひどい負け戦であったことを思っていた。

 負け戦は今までもあったことだ、それでもすぐに立ち直り、また次の戦へ元気よく出向いたものだったのだが。

 綾山常光との戦は、そんなにも厳しいものだったということだろう。

―武士とは、善景どののようなお方をいうのであろう。―

 お藤は、ふとそんなことを考えた。それと同時に、晴景のあの落ち込みようは、いかばかりか。善景のあの優しい性格を思うと、厳しくも大事に育てたのは容易に想像できるし、なにより似合いの父子であった。

 八重もまた気の毒なことだと思わずにはいられないが。武士の妻であるということは、そういうことなのだ。

 ただ、生まれてくる子が不憫でならなかった。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その三十五


 輝虎とお雪は晴景とともに、氏清家の邸宅へと出向き。そこで出迎えた八重に、すべてを語った。

 居間にあって、輝虎とお雪は上座に座して。その正面に八重、控えめに後ろに座す晴景。それらの間に、木箱。

 遺骨をおさめた木箱を目の前にして、八重は、ぱっと涙をあふれさせて床に突っ伏したが、輝虎とお雪の手前、すぐに気を取り直し涙をぬぐい。お見苦しいところを……、と言い、姿勢をただす。

 それを見たお雪も、胸が張り裂けそうだった。八重のおなか、その中にいる、ふたりの子。

「見苦しいなどと、そのような。これで泣かぬようにというのが、無理というものです」

「お心遣い、いたみいります」

 そう言いながらも、今も涙をこらえてふたりのまえで毅然と姿勢をただし正座をする八重。それを見、輝虎はいてもたってもいられず。

「どうだろうか」

 と、八重になにか望みはないかと聞いた。

 欲しいものがあれば、望みのままに、と思ってさえもいた。自分のためにみずから命を絶った善景に少しでも報いてやりたくて、そのようなことを言った。

「されば」 

 と八重は少し考えて、ふと、何かを思いついたように、望みを語った。

「生まれてくる子が男であれば、殿のご幼名を、女であれば、おひい様の名を、いただきとうございまする」 

「名を……」

 名を与える、それは主が家来にしてやれるもっとも名誉的なことだ、しかし辺境の小豪族である大高家の家中にあっては、その名誉に対する意識は薄い。

 金なり食べ物なり土地なりという、実利的なものこそが真に褒美とするものであるが。

 八重はそれらはいらぬという。代わりに、名がほしいという。

「はい、それでお願いいたしとうございまする。それでこそ、我が夫の面目が立つというものでございます。是非、名をいただきとうございます。わたしも、武家のむすめでございますれば」

 武家のむすめ。

 その言葉がすべてだった。八重は、生まれてくる子に名誉をさずけてやりたかった。父は殿のために死なれたのだ。その褒美として、名を頂戴したのだ、と。亡き父を、誇りに思えるように。

 そのためには、名をもらうことより他はないと、八重は考えた。

 だが、これはみずから望むものではない。主が自発的に家来に与えるものであって、ある意味、これほど図々しい望みもないのだが。

 輝虎も、お雪も、八重の意を酌むよりほかはなかった。

 三人のやりとりの間、晴景は何も言わなかった。

 八重の言葉を聞き、義父として、武士として、黙って嫁の望むままにすることが、最良の方法だと思っていた。

 輝虎は、ひとこと。

「わかった。そのようにせよ」

 と言い。それから、しばしの沈黙。

 木箱を前に、何をどう話せというのか。

 目を閉じ、ため息をつくと、おもむろに輝虎はたちあがり。お雪がそれにつづく。

 正直、この場にいるのは辛い。そのまま玄関まで歩く。見送りのため八重がそれに続くが、晴景は残った。それが何を意味するのか、輝虎はやむなしと、何も言わずにおいた。

 邸宅の玄関まできたとき、お雪は、八重に。

「子が生まれたら、是非わたしにも抱かせてもらえませんか」

 と言った。

 悲しそうにしながらも、どこか微笑ましそうに、八重のおなかを見ていた。自分もいつか同じように、子をなし、母親になるのだ。

 そう思うと、なにか腕に抱きたくなるような願望をおぼえずにはいられず。この空気の中場違いなと思いながらも、つい言ってしまった一言だった。

 その一言に少し戸惑った輝虎は。

「これ」

 と、小さく言う。

 だが八重は意に介さず。

「もちろんですとも、是非抱いてくださいませ。子も喜びましょう」

 と、微笑んで応える。

 八重も、お雪が大高家に来た当時のことを知っている。

 あのとき大高家に嫁いだ九つの女の子が、もう母親になってもよい年頃になっていて。月日の流れというものを、思わずにはいられなかった。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」最終話

 

 それからひと月ほどして。

 八重は、子を産んだ。男の子だった。

 名は、千丸と名付けられた。

 お雪は出産に立ち会い、生まれたばかりの千丸を見つめ。

 八重のそばで静かに眠る千丸の頬に、おそるおそる、ふれた。

 子は、ななつまで神のうち。

 その言葉の意味を思い。とても小さくて、少しふれただけで消えうせてしまうのではないかというような、どことないはかなさを覚えながらも。

 その頬にふれたとき、それはたしかに生きているという、命あるものの息遣いとぬくもりを感じた。

 すると、千丸の口が開き。あ、という声を上げようかとして。あっ、と思い慌てて手を離す。

 その様子を、八重は微笑ましそうに見ている。

 男たちはというと、戦にかりだされている。

 晴景すらいない。

 輝虎は、八重のそばにいるように言ったのだが。

「少しでも殿のお役に」

 といって、無理矢理ついてきてしまった。善景を失った悲しみを、戦で忘れたいのだろうか。孫が生まれるというのに。

 いや、だからこそ、なのか。

 この哀れな老人に何を言っても聞きそうにもなさそうなので、輝虎は戦に行くことを許し。十兵衛は、今度は晴景のお守りをせねばならなくなってしまった。

 大高家の家中のものたちはみんな、菖蒲の旗のもとに生まれて、生きて、そして死んでゆく。

 千丸もまた、そういう生き方をしてゆくことになるのだろう。

「おひい様」

 八重が、千丸を見つめていたお雪にいった。

「先日言われたとおり、千丸を抱いてやってくださいませんか」

 布団にくるまり横たわって、顔をすこし倒し、我が子を見つめている。出産の疲れから、すこしやつれているようにも見える。

 それでも、我が子、千丸を見つめる瞳は潤んで、輝いていた。

「いえ、まだ生まれたばかりですので……」

 そばにいた産婆が、戸惑うお雪をあわててとめ。子供は鞠とは違うのですよ、と八重に説教をたれる。

「そうですね。わたしったら、なんてせっかちなのでしょう」

 八重は、自分のせっかちさがおかしくて、ふふ、と笑う。子供を無事出産できたことが嬉しいあまりのせっかちさだった。

 千丸はそんな母親など意に介さず、開きかけた口を半開きにして、目は閉じられて、すやすやと眠っている。

 お雪は、なにも言わなかった。何と言っていいのかわからなかった。

 こうして新しい命が生まれる一方で、命を落とすもの。それこそ、いま男たちは戦の真っ只中にいる。

 それが世の常であるという。

 人の一生は、無常であるのに。

 その人の一生は、みんな等しく、千丸のような小さな赤ん坊からはじまる。

 お雪は、もう一度、その頬にふれようとしたが。

―それにしても、なんと小さな。― 

 と、思いとどまって、やめた。また起こしそうになって、泣かせてしまっても申し訳ない。

 それにしても、赤ん坊のなんと小さなことかとを、思わずにはいられず。

 その小ささを思ったとき、自分の手をなにげに見てみれば。

 鞠にふれていた小さな手が、子供を抱けるほどには大きくなっていたことに気付いた。


第二章「あやめ(菖蒲)の旗」 終わり

第三章「赤日」に続く

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