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第二章 あやめ(菖蒲)の旗 頁二

第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その十一


 陽が沈み、月がたくさんの星たちをともなって夜空に浮かび上がる。月は三日月。その身を弓なりに反らせて、細々とした姿を下界にさらす。

 大高の郷は夜の闇に包まれて、人々は燭台に火を灯す。火を灯せば、わずかばかり闇は払いのけられて、自らの手をほのかに照らす。

 大高城で、お雪も同じように自分の手を照らし出す。その手に数珠が垂れ下がる。

 闇に飲み込まれまいと、あるかなきかの勇気を振り絞り、数珠を握り締める。周囲を見渡せば、壁やふすまは闇に飲み込まれて。そこからわずかばかり、その身を燭台の火ですくい出す。

 同じようにして、向かいの仏壇も半身を闇に、半身を火に照らす。仏壇に飾られた本尊は、闇に抗うようにして我が身に書かれた御文をぼやっと浮かび上がらせている。

 それを見て、仏壇の前に座り。数珠を持つ手を合わせて、本尊を見上げながら唱題を上げる。

 すると、ふすまの開く音がして。それに続く声。

「おひい様」

 とお雪を呼ぶのは、お藤であった。

「もうお休みなさいませ。朝からずっとではございませぬか」

 手燭を持ち、すすとお雪のもとまで歩み寄る。心配そうな顔をしている。それもそうだろう、さっき言ったとおり、お雪は朝からずっとここで唱題を上げてばかりで、ひとつも休もうともしない。

「でも……」

 と、言おうとすれば。お藤は後ろに振り向いて。

「お凛、いるのでしょう? 隠れてないで出てきなさい」

 と言った、すると同じように手燭を持ったお凛が。

「てへ」

 と言いたげに舌を出しながら現れた。

 闇を照らし出す火が増えて、明るさが増す。三人の顔がはっきりと見える。灯火は闇を払いのけて、それぞれの顔を照らし出す。その灯火に三人は寄り添う。

 火のぬくもりが、闇の冷たさを払いのけるようにして頬を撫でる。そうすれば、心根にまでそのあたたかさが届いているようだった。お雪は、それに安堵を覚えて、思わずほっと一息つく。

「お疲れでございますね」

 と、お凛。いつも明るい笑顔をしているこの侍女が、少し沈んだ顔をしていた。お藤同様、お雪を心配しているのだ。

「そのようにご無理をなされては、お体を壊してしまいますよ」

 というその言葉に、お雪は、とりあえずは頷いた。でも、やめようとは思わなかった。今輝虎は戦にゆき、命を賭けて戦っている。それなのに、自分がゆっくり休むことなど出来ようか。

 それを察して、笑顔をつくろうとしたお凛の顔が、また沈んだ。どうしよう、どう言ってお雪を安心させようか、そればかり考えた。でも、何を言っても気休めにしかならないような気がして、笑顔をつくることもままならない。

 若いふたりの娘が悲しげな顔を灯火に寄り添わせているのを見、年配者のお藤はため息をつく。やっぱり、まだまだ若い。こういう時こそが、年寄りの出番だと言わんがばかりに、こほんと咳払いをする。

 そうすれば、若いふたりは何かを求めるような眼差しをお藤に向ける。   

「笑顔でございます。おひい様が暗い顔をなされては、みな暗い顔をせねばなりませぬ。戦より戻られた輝虎様も、そのようなお暗い顔で出迎えるつもりですか?」

 求められている言葉、というより年寄りが今若い娘に求めていることを、お藤はありのままの気持ちで言った。こう言ってはなんだが、やはり男どもにしてみれば、年寄りの自分よりも若い娘の笑顔が好きだろう。戦から戻った時、若い娘が笑顔で出迎えてくれるのなら、戦から生きて帰りたいという気持ちにもなるだろうし。また、自分たちも男たちが帰ってくることを信じてやらなければいけないだろう。

 所詮、男は単純な生き物だ。こっちの気の持ちようひとつで、生かすも殺すもなすがまま。生きて帰ってほしいというのなら、そういう方向に行くように、仕向けてやればいい。

「そうですね。お藤の言うとおりですね」

 お雪は、お藤の言葉を聞いて、我知らず微笑を浮かべて頷いた。母親代わりになって自分を育ててくれた乳母の言葉には、不思議な魔法がかかっているようで。すると、そばでその様子を見ていたお凛が。

「あ、そうだ。おひい様おひい様」

 と、耳元で何かつぶやく。何ぞ妙案でも思いついたようで、さっきとは打って変わっていやにうきうきしていて。その妙案がなんなのかわからないが、灯火に照らされるお雪の頬が、にわかに赤く染まり出していた。お藤は目を点にして、あやうく手燭を落としそうになってしまった。

 どうやらお藤の魔法の言葉は、お雪よりもお凛に強くかかってしまったようだった。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その十二


「そんなものなのか」

 と、輝虎は言った。

 長い行列だ。

 前も後ろも、人で埋め尽くされている。今自分が進んでいる道に、びっしりと人で出来た黒い線が埋め尽くしている。空を舞う鳥が見れば、まるで蟻の行列のように見えるかもしれない。

 主君であり舅でもある、家成率いる二千の軍勢の中にその身を置き。途中前に立ちはだかるべき敵が、頭を下げて許しを乞うのを見かけるたびに。

「そんなものなのか」

 と、吐息と共に吐き出す言葉。

 才木長久と結託し、中村家成に逆らい続けた豪族たちが、二千の軍勢を前にして簡単に手のひらを返して。気がつけば、二千の軍勢は二千五百へと膨れ上がっているではないか。

 それまでに、小戦のひとつも起こらなかった。

 なんとも歯がゆいではないか。

 降伏をするくらいなら、最初から抵抗などせねばよかったのだ。家成に許された途端、輝虎たち家来集に、まるで旧友のようにふてぶてしく話しかけるものもあり。

―貴様はそれでも武士なのか。―

 と、何度そのあごに拳を叩き付けてやろうと思ったかわからない。潔く戦って死ね、とまでは言わないが。そう思わずにはいられない。

 最近まで、その者たちと命がけで戦っていたのだ。当然、命を落とした者もいる。それが。

「そんなものなのか」

 という言葉を吐き出させる。

「それが、戦国の世の武士でござるよ」

 と、晴景は達観して言う。

 武士の誇りだの意地だの、そんなものは世が平和な時の戯言にしかすぎないのだ。乱世ともなれば、誰もが、我が身の安全を第一に考える。

「しかし」

 と、輝虎は言い返す。

「ひとりくらいは、いてもよいのではないか。武士として、戦い。戦って、己をまっとうするものがあっても、よいのではないか」

 すると、晴景は首を横に振り、なにも言わなかった。

 血気にはやる若い主に、何を言ってもわかってもらえそうにないからか。それとも、自分がそういう生き方をしてきたからか。

 ただ、ぽそっとつぶやくように。

「それが正しいかどうか、最後はご神仏がお決めになりまする。我らはただ、家成様のお下知に従うのみでございまする。それが、今せねばならぬことです」




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その十三


 楽、というものはそこに楽しさを感じるから、楽に思えるわけだが。

 今回の戦は、楽ではあったが、楽しくはなかった。かといって、つまらぬというのも、違った。

 中村の軍勢二千五百の前に、騎馬武者が立ちはだかった。脇に何かを抱えている。

 その何かは、白い布に包まれ。よく見れば、赤く染みが浮いているではないか。

 騎馬武者は言った。

「才木長久が首を、中村家成様に献上しに参りました」

 騎乗にて軍の中ほどにいた家成はそれを聞いて。

「なんと、まことか。すぐにそやつを呼んでこい」

 と、騎馬武者を招き寄せた。もちろん、両脇には家来たちが詰めて、不穏な動きをさせぬよう身構えている。その中に、輝虎もいた。

 武者は家成の前まで来ると馬から降り、跪いて(ひざまずいて)。

「我が主、才木長久が首をお届けに参りました。今、それをお見せいたしまする」

 それを聞き、家成は眉をひそめた。

「我が主だと。おぬし才木の家来なのか」

「その通りでございまする」

「で、どうしてまた、主を討った」

 返答次第では許さぬというつもりか。それを察した武者は、跪いたままぶるぶると震えだしていた。地面に下ろされた白い布にくるまれたものは、黙してなにも語ろうとはしない。ただ結び目を風にゆらせている。

 輝虎は、固唾を呑んで、それを見守っていた。

 武者の言い分は、やっぱり、という感じだった。

 久遠の城攻めも失敗し、いよいよ家成は怒り心頭、今度こそ本気の本気で才木家を潰しにかかろうとするだろう。そうなれば、もう勝ち目は薄い。だから、いい加減無駄な抵抗はやめて降伏をしましょうと言った。

 だが聞き入れてもらえず、そのため、これ以上無駄な戦を続けて余計な犠牲を出さないためにも、やむなく主である才木長久を討ったという。

「なるほどそちの言い分もっともである。長久めも愚かなことよ、早く我が下につけばこのようなことにならなかったものを。まあ、今さら言っても詮のないことであるがな」

 と、がははと豪快に笑い出した。そのあけっぴろな笑いに輝虎は驚き目を見開き、舅と白い布に包まれたものと、それを持ってきた武者を交互に見つめていた。

―なんということだ。―  

 長久の首は自分が獲ってやろうと思っていたのに、恐れをなした家来にあっさりと横取りされてしまって。こんな馬鹿馬鹿しいことがあっていいのか、そう思わずにはいられなかった。

「まあよい。では長久の首を見せてもらおうか」

 と言うと、武者は白い布の結び目ほどいた。布が開かれ、そこから眠るような長久の顔が現れた。頬の下からあごにかけて、赤い血がこびりついている。

 思わず、輝虎は目をそらした。首など見慣れているはずなのに、今回は見たくはないと、不意に思ってしまった。

「これ輝虎よ、何を目をそらす。まさかこの『うつけ』に噛みつかれると思ったか」

 輝虎の様子を見た家成はけたけた笑っていた。それにつられ、他の家来たちも笑い出す。実成はうなずきながら声を抑えて笑っているが。

―むごい。―

 実は主君の手前、笑っているフリをしているだけで、内心は長久を哀れに思っていた。つい先日自分の城が攻められたのだが、それは昔のことである。願わくば、平和的解決をと望んでいたのだが。その望みは外れてしまった。

 いや、平和的に解決はした、といえばしたと言えるであろう。

 こたびの出陣、犠牲は長久の首ひとつ、たったそれだけで済んだのだから。

―けったくその悪い……。― 

 輝虎は飲んだ固唾を地に吐き捨てたい気持ちだった。確かに楽だった。確かに早く帰れそうだった。だが、けったくその悪さののこる出陣だった。

―馬鹿野郎!―  

 と、長久の首とそれを持ってきた武者を蹴り飛ばしてやりたかった。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その十四


 それから数日、大高の軍勢は、大高郷に帰りつき。十数日ぶりに、輝虎は大高城の床を踏みしめた。

 今にも泣き出しそうな、曇り空の日だった。

 やけに空気は湿っぽい。それにつられ、心まで湿りそうだった。

 今回の戦、手柄を立てたような、立てられなかったような、半端な気持ちだった。

 敵を撃退したものの、それだけ。あとは、雪崩を打ったように、とんとん拍子でことが進んだ。それ以上に、けったくその悪さを引き摺ってしまった。

―まったく、なんだったんだろう。―

 そう思いながら、お雪のいる奥の間へとゆく。しかし、これもまた、長く帰れそうにないと言いながら、早く帰ってきてしまった。名残惜しさのあまり、思わず妻を抱きしめてしまった。お雪は、輝虎に身を預けてくれた。

 それも思い出して、やけに背中がむずがゆい。頬が張ったような気がして、奥歯を噛み締める。

―ああ、なんか……。―

 その後の言葉は出ない、思わず天井を見上げて。たまたま近くにいた女中が、ぽかんとした顔をして、輝虎を眺めていたのに気付き。襟元をただし、咳払いをして、なるべく知らぬ顔をしながら、そそくさと歩く。

 まあしかし、兎にも角にも、早く帰れたのだ。ここは、素直に喜びたかった。陣中であれだけお雪のことを思い続けたのは、どこのどいつだ。複雑な気持ちだった。武士としての気持ちと、ひとりの男としての気持ちが、ごちゃ混ぜに混ぜくりかえされている。

 やがて、お雪の部屋まで来て、障子に手をかけて、そっと開いた。

「え?」

 輝虎は我が目を疑った。そこにいたのは、幼き日のお雪。小さな手で鞠をついている。いつもうたっていた手まり歌をくちずさみ、鞠はぽんぽん跳ねている。

 輝虎が来たのを見とめたお雪は鞠をつくのをやめ、笑顔を向けた。

 小さな手でもっていた鞠を置いて、指先を畳につけ。

「おかえりなさいませ」

 と、言った。それから。

「輝虎様も……」

 と、ふたたび鞠を手に取り、夫に差し出す。それを見て、右手が浮き上がるようにして動いて、鞠でなく、その手にふれようとした。

 胸に、どっと溢れてくる気持ち。武士としてではなく、男としてでもなく、小さいころ一緒に鞠をついて遊んだ男の子の気持ち。

―お雪を守るのは、おれしかいない。― 

 そう、想い続けた。でも、その想いはどこに仕舞っていたんだろう。初陣より三年の月日が流れ、ただ、戦で首級を挙げることばかり考えていて。

 だけど、この間、現実を見せられて。その時、心の中は、どんなだったろうか。己ひとりが戦に逸っていた、それが、輝虎に馬鹿を見せた。

「お雪」

 と、妻の名を呼んだ。

「はい」

 という返事。いまいちど見返せば、そこには、成長し美しくなったお雪がいた。手には鞠を持っていた。輝虎が来るまでのあいだ、鞠をついて遊んでいたのだろう。

 その鞠を持つ手に、輝虎は触れていた。ふたりは頬を赤く染めていた。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その十五


「しばらく、こうさせてくれ」

 と、ぽそっと、輝虎は言った。こうべをたれて、悲しそうな、疲れ切った表情をして。

 輝虎の顔が赤いのは、自分のしていることへの照れではなく、なにか感情が噴き出しそうなのを堪えているのかもしれなかった。

 お雪はどうしていいかわからず、言われるがまま、手にふれさせていた。

 戦で何があったか知らないが。帰ってきたと思ったら、子供が母親に甘えるようにして、手にふれてきて。突然のことに照れもあったが、それも徐々にさめてゆく。

 長く帰れそうにないのが、思ったより早く帰ってきて。輝虎も無事であると聞いて、待ち侘びていた。待ち侘びるあまり、鞠をついて遊んでいた。

 それが、幼き日のことを思い出させてしまったことに、お雪は気付いていない。

 輝虎の手のひらは、つめたかった。それがやがて、ぬくもりをおびてきた。

「お雪の手は、あたたかいな」

 また、ぽそっと言った。

 そういえば、こうして長くその手にふれるなど、初めてではないか。

 夫婦めおとになってどのくらい経つのだろう、ほんとうに、初心うぶなものだ。

 いま輝虎の脳裏には、一緒に鞠をついて遊んだ幼き日々のことが、浮かんでは消えて、消えては浮かんでを繰り返していた。あのころは、主の幼さに不信感を抱く家来たちに随分と悩まされてしまったけれども。

 でも、楽しかった。ふたりで一緒に手まり歌をくちずさみながら、鞠をつけて。その時が一番、心の底から楽しいと思えるときだった。

 男女のことなどまだ知らず、ただの仲良しとして、一緒にいられることがなにより嬉しかった。

 今は、どうだろう。

 どうして、帰り着くや否や、甘えるように妻の手のぬくもりを求めねばならぬのか。

 できることなら、あのころにまた戻りたかった。

 ただ、仲良く一緒に鞠をつけた、あのころに戻りたかった。

 手にふれてて、お雪の手の小ささを思った。それ以上に、輝虎の手は大きくなっていた。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その十六


 ふと、目をさす陽の光。え、と思ってお雪は顔を上げれば、障子紙が茜色に染まっていた。

「輝虎様、雲が晴れたようです」

 その言葉を聞き、輝虎も顔を上げた。確かに、さっきまで曇り空のせいで冷たそうに白かった障子紙が、茜色になっている。自分が頭を垂れているあいだに、空は晴れ夕陽が顔を覗かせたようだった。

「そうだな」

 手にふれて、言葉を出せなくて、そのままでいたいと思うと共に、どうしようとも思っていたが。空のおかげで、言葉を交すことができた。

 自分のしてることにはっとして、輝虎はそっとお雪の手から、自分の手を離して。静かに立ち上がって、障子を開けた。

 頬を撫でるそよ風を感じながら、夕陽が空を茜色に染めているのを見上げる。

「さっきまで曇っていたのに。すっかり晴れたなあ」

「そうでございますね。夕陽がとてもきれい……」

 いつの間にか、お雪も立ち上がって輝虎の隣にいた。鞠は床において、夫と共に夕陽を眺める。

 それから、一緒に濡れ縁に座る。そよ風と夕陽の光を受けていると、なんだか心が和んできて、空と一緒に曇っていた心も晴れてゆくような気がした。

―考えてもはじまらないか。―

 ふと、そう思った。けったくその悪いがどうのこうのなど、どうでもよいではないか。こうして城に帰ってこれて、お雪と一緒にいられるのだから。

 考えてもみよ。久遠の城を救援にいったときに、命を落としたものもあるのだ。それが、天下を動かすような大戦ならば、死に甲斐もあろうというものだろうが。

 結果として、小戦で終わってしまった。そんなことで命を落としたものの無念は、いかほどであろうか。大戦であろうが、小戦であろうが、戦である以上命を落とすものが出るのは仕方がないにしても。やはり、己の生き死のことを思うとき、つまらないもので命を落としたくはない。そんなことになるより、こうして妻と共に一緒にいられることのほうが、どれだけ大事なことか。

 お雪は、じっと、輝虎に手にふれさせていた。それがどういうことか。

「おれは果報者だ」

「え?」

「お雪がいてくれる」

「……」

 お雪はうつむいてやや黙って、なにやら両手のゆびさきを絡ませながら。

「私も、輝虎様のもとに嫁げて、仕合せでございまする」

 と、言った。輝虎もうつむいて、両手の指先を絡ませていた。

「そう言ってくれるか……」

「はい」

「ありがとう」

 こんどは、ふたりの手が触れ合って、指先を絡ませていた。

 それから。輝虎は、お雪のいる奥の間から出ることはなく。

 夜は静かにふけてゆき、風もなく、草木もひそやかなお喋りをやめ、ただ闇夜に身を預けていた。

 同じようにして、城も闇夜に身を預け。ただ、降り注がれるような月や星たちの光やきらめきを、受け止めるのみだった。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その十七


 いままで、手にふれることすら少なかった初心なふたりが真に結ばれて。

 暖かな空気に、その身を重ねあいながら、包まれているあいだにも。事態は刻一刻とかわってゆく。

 才木長久が家来の裏切りにより討たれ。それから、諸豪族の動きは二分化したといっていい。

 中村氏のもとに駆け込み傘下に入る豪族と、他のもっと大きな豪族のもとに駆け込み庇護を求める豪族と、である。

 中立はなかった。それはすなわち、孤立無援となって、最後には滅亡してしまうからだ。いや、もっともどちらかにつくかで生き長らえるか滅びるかも決まるのだが。

 今のところ、確実にというものはなかった。駆け込み組の豪族にしてみれば、これは完全な賭けのようなものだったし。

 位置関係もある。どっちの所領に近いかで、どこに駆け込むかを決めなければならない。そうしなければ、「私は敵です。攻め滅ぼしてください」と言っているようなものだからだ。しかし最後の運は、天が決める。

 その運が、着いた側にありますようにと祈るしか、彼らのなすことはなかった。

 家成は、居城である式頭城の自室の中で、最近側室とした少女に酒をつがせ物思いにふけっていた。

―才木は滅ぼした。さて……。―

 なら、その次はどうするか。

 燭代の火が細々とともる部屋の真ん中にどかっと座り込み、右手に持つ杯を差し出せば、少女は瞳を伏せてうやうやしく酒をつぐ。名はお鹿といい。年は、輝虎に嫁いだ娘のお雪よりひとつふたつ下という。父の名は、才木長久という。

綾山りょうざんの首を獲るしかあるまいなあ。―

 ぐるぐると、思考をめぐらせるも。結局はそこにたどりついてしまう。

―それしかなないであろうな。ええい、もう面倒じゃ。続きは明日にすればよい。―

 考えあぐねて、杯を置いたと思ったら、お鹿の手を取り引きよせる。

 才木一族の男衆はことごとく仏門に入れた。女も同様に髪を下ろさせ仏門に入れた。しかし、このお鹿はたいそう美しかったので、側室にした。

 散々抵抗したにっくき才木の一族の血は、根絶やしにするつもりであった。が、せめてもの情けで、俗世間とかけ離れた仏門に入れることで、生きながらにしてその血を根絶やしにすることにしたわけだ。流す血の量くらいはこころえている、ということか。

 では、お鹿はどうなるかというと。

「うぬの血に中村の血を混ぜ込んでしんぜようぞ」

 と、あまり趣味が良いとはいえない言葉をかけ、押し倒した。お鹿はただ、されるがままだった。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その十八 

 

 風雲はつねに動いている。

 つねに、誰かの頭上にのしかかってくる。

 中村家成がその野心のままに領土を広げて。ついには、綾山氏との領土にまで接した。

 これに、当主の綾山常光りょうざん・つねみつが黙っているわけもなかった。次から次へと、豪族たちが庇護を求めてくる。

 いわく、中村氏の家来などになりたくない、おなじなるなら常光様の家来がよい、と。

 ひげを蓄えた精悍な面持ちとは裏腹に、穏やかな性格をしているこの壮年になろうかという男は、その豪族たちを受け入れている。

 それは、そのものたちへの哀れみもあるが、どうにも中村家成が好きになれないでいるというのもある。

 いつしか雌雄を決せねばなるまいと、つねに心に語りかけていた。放っておけば、家成が稜山氏居城である飯歌城いいうたじょうに攻め入ってくるのは、火を見るよりも明らかだ。

 あの家成のこと、才木長久の領土を手に入れたくらいでは、満足はするまい。

 むしろそれを機に勢いを増してやってくる。

 ある日の昼下がり。自室の障子を開けて、濡れ縁に寝転んで日向ぼっこを満喫しようとしたが、できなかった。どうにも、色々と考えてしまう。

 鼻をほじくりながら。

―あの男の欲は底なしじゃのう。―

 などと感心してしまうが。

 その貪婪どんらんさは、乱世に生きるもののあかしであり。それを思うと、大きな黒雲がこちらにむかってやってきて、全てを飲み込もうとしているようでもあった。

 もう十分であろう、などと家成は思わない。常光はそう思うが。実際、今で十分満足している。だから、こうしてのんびりしていたかったのに。

 まさに、家成は黒雲であった。なら、常光はなんであろうか。

―このわしが、黒雲を払いのけるお天道様とでもいうのか……。―

 少なくとも、駆け込みの豪族たちはそう見ている。いや、家来たちも同じようだ。常光など、なんとも因果な名をつけられたものだ。

 それは買いかぶりというものだ、と言いたかったが。それどころではないようだ。その点に関して、選択の余地はなさそうだった。

「やらねばなるまい」

 と、舌打ちしながら鼻くそを飛ばしながら言ったとき。一計を案じ、すぐに家来を呼んでその一計の実行にとりかかった。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その十九


 それから数日、式頭城に怒号が飛んだ。

「あの餓鬼」

 という、大豪族の当主らしからぬ言葉まで飛んだ。

 それこそ、目の前にいる城にやってきた綾山家よりの使者に斬りかからんがばかりに、血相を変えていた。

「このわしに、飯歌の城まで来いと申すのか」

 と言いのけた後、本当に腰の刀を抜こうとしたから家来は慌てた。

「お怒りはごもっとも、されどいかなる理由があろうと使者をお斬りになるのは……」

 昔から続いた習慣に逆らうことになる。そうなれば、家成の名を汚しかねないと言った。

 それでやっと怒りをどうにか鎮め、使者を蹴飛ばすようにして追い返したのだった。

 何をもって家成は怒ったのか。使者のたずさえた手紙に書かれた内容は、こうだ。


 親愛なる中村家成様へ。

 近頃ご盛況の様子実にうらやましく思われまする。それがし(常光)も、父と慕うあなた様(家成)に仲良くしていただきたいと思っています。

 つきましては、おもてなしをしますゆえ、我が城に来られませんか?

 お互い酒でも酌み交わしながら、今後のことでも話し合いましょう。

 綾山常光


 という、なんとも馴れ馴れしいものである。

 これが、田舎の若者が親しい老爺に送る手紙なら問題ないのだろうが。飛ぶ鳥を落とす勢いの大豪族頭領中村家成に対し、ずっと年下の隣の豪族の若い頭領がよこした手紙なのだから。プライドの高い家成が怒るのも無理はなかった。

 しかも城に来いということは、仲良くするどころか、従属をせよということをも意味しているのだ。

 あまりにも見当違いな手紙であり。仲良くしてほしいのなら、まず常光が出向くべきである。これは、武家の礼儀としても当然のことで、無礼といわざるを得ない。

「あやつ、わしをなんと心得る。中村家成であるぞ」

 とわめきながら、家来が見守る中使者の去った広間をぐるぐるまわった。

 家来たちは、どういっていいのかわからなかった。ここで下手をいおうものなら、その逆鱗にふれとばっちりをうけるのは火を見るよりも明らかだった。

 そんな中、誰かが口を開いた。

「やはり、きゃつの首を獲るより他はございませんな」

 口元にしわを寄せた老臣の須木屋主水すきや・もんどだった、主水は綾山常光の討伐を最初に提案した家来でもあった。

 いわく、生かせば必ず災いとなる、と。実際、常光の人柄はいうに及ばず、その人柄にあわぬ戦上手であるという。

 これはもう、討伐しかございませぬと、口をきゅっとしぼって主に進言すれば。家成は動きを止めて、頷いて。

「そのとおりだ」 

 と、言い。戦への決意を固めた。

 追い返した使者が、その様子を思い浮かべて薄ら笑いをしていることも知らずに。




第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その二十


 輝虎は、今何がどうなっていこうとしているのか、全く知らず。今まで胸にとどめていたお雪への想いを注ぎ。お雪もそれを受け止め。

 ふたりは、ふたりでいられる時のなかにいた。

 ふたりが愛し合うことは、子供のころから、大人から義務づけられたことだった。

 でもそうじゃなくて、心の底から、お互いを愛し合いたかった。 

 郷に降り、郷を分ける川の川原を、手を取り合って歩いている。石ころに足を取られ転びそうになりながら、お雪は輝虎に支えられながら。輝虎はお雪を支えながら、川のふちに向かい歩む。

「きゃ、あ。あ、輝虎様」

「ははっ。大丈夫か」

「は、はい。なんのこれしき」

 と、お雪は強がりを言った。輝虎はそれが可笑しそうだ。

 いつも城の中にいる妻が。

「輝虎様と一緒に外に出てみとうございます」

 といったので。輝虎はお雪と共に馬に乗って、言葉通りここまでやってきた。それまで、輝虎の背中にしがみつくお雪が落ちはしないかと冷や冷やものだったのは、内緒だった。そのふたりの乗った馬は、どこぞの木にくくりつけている。

 お雪は初めて見る川の流れや、そのきらめき。ほどよく丸みを帯びた色とりどりの川原の石ころを、子供のような好奇心一杯の目でながめていた。

 そういえば、こうして外に出ることは初めてだった。箱入り娘とはよくいったもので、外に出ること自体あまりなかった。

 時折桑の実をお凛やお藤と一緒にとりに出かけるも、おひい様の身を案じる忠実な侍女や乳母の気遣いからすぐに戻ってくる。

 そのたびに、もっと向こうに行きたいという気持ちができてきて。

 それを、夫が叶えてくれた。

 日差しも城にいるときとでは、違って感じる。何の隔たりもなく、じかに降り注いでいるようで、それにくすぐられて見も心も暖かになってくる。

 少し上を向けば、周りを囲む山々。その山々のどれかに、お城がある。そのまた上、青い空に白い雲。雲はゆっくりと空を泳いでいる。

「わあ」

 と、声を上げる。何もかもが新鮮だった。空気まで変わったようだった。川辺ということもあって、ほどよく涼しい。

 輝虎に身を預けながら、子供のころ、自分が嫁ぐ前のことを問うた。

「輝虎様は、ご幼少のころよりここで遊ばれていたのでございますか」

「そうだな。十兵衛らと一緒にな、郷のこどもたちと合戦ごっこをしたものだ。たまにお凛もまざってたな。まったくお凛のお転婆は天性のものだ、十兵衛がのめされて泣かされていたくらいだからな」

「まあ」

 ふと、お凛の名を聞いた途端、何故かそっぽを向いた。

 輝虎は、「えっ?」と不思議そうだった。何か悪いことでも言っただろうか、いやしかし、ただ幼少のころのことを言っただけだ。

 では、なにがいけなかったのだろうか。

―ここでお凛とだなんて。―

 ここでは、よそ事を忘れて自分と輝虎のふたりきりでいたかった。それなのに、他の女性の名前を出してしまうなんて。というより、どうして今他の女性の名を聞きたくない気持ちになったのか。

 お雪自身もよくわからなかったが。それがやきもちだということを知ったのは、ずいぶん後になってからだった。 

「どうしたんだ。何かあったか?」

「い、いえ。なにも……」

「そうか」

 と、言うや否や、輝虎はお雪を抱きしめ。

「ここは誰もおらぬ。おれとお雪のふたりきりだ」

 と言った。そうだと思って、お雪は顔を上げれば。互いの唇が触れる。どちらからともなく、互いの唇を求めていた。

 ここではふたりきりなのだから、そのために、ここにいるのだから。


続く


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