第二章 あやめ(菖蒲)の旗
第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その一
夜空を覆う漆黒の空にちらばる星くずたちをながめ、輝虎は、その夜空の向こうにある我が城を思う。
初陣より数えて何度戦に出たことであろう。
今までの戦の数を数える気にはなれないが、気がつけば、早三年の月日が流れたことは思い出せた。
甲冑を身にまとい。騎乗にて戦場を駆け巡り、槍をふるい。その槍で何人突いてきただろうか。
これからも、何人を突いてゆくのだろうか。
すこし視線を下げれば、闇を払いのけるように火をともす小さな城が向こう側に見える。それを囲む兵ども。
今も騎乗にて、その中にある。家来の津川十兵衛、氏清晴景、善景の父子。付き従う二百の侍たちも、一緒にその中にある。
それらもまた、闇を払いのけるかがり火を、夜を昼にでもするかのように焚いている。
大きく息を吸い込む音がした。
「火矢をかかげよ」
ところどころに号令が響き渡る、輝虎も続いて号令をかける。弓を持つものたちはたちは一斉に矢に火をつけて、いつでも矢を放てるように弓を構える。
その時、頬をかすめるもの。瞬時に風を切る音が通り過ぎるや否や、かつ、という地に何かがあたる音がした。
「矢……」
どこかで誰かが叫ぶ声がする。それから矢継ぎ早に聞こえるうめき声。自分たちの囲む城から矢が放たれてきている。
「放て!」
闇を突くようにして槍で城を指し示し、号令を下す。
夜空に、火が舞う。
火は吸い込まれるようにして漆黒の空に浮かび上がって、一瞬の間だけそれに幻想的な美しさを感じて、それから城に向かって落ちてゆく。
それと入れ違いで城から矢が闇に紛れて放たれる。そばで誰かが餌食になって、どおっと倒れる音がする。
城の裏手からときの声が上がった。裏手に回った別働隊が城に突入したのだ。
双方矢を止める。
歯を食いしばる。
そうすれば、ついに正面の門も打ち破られる。
「かかれ」
の掛け声とともに雪崩れ込む。輝虎も馬を駆ってその雪崩の中に家来たちとともに突っ込んでゆく。
どこをどう走ってきたかなど覚える間もなく、狭い城壁の囲む中人であふれ、それを時に馬脚で蹴り倒しつつ槍を振るう。混乱の中、よく馬などに乗って戦えるものだとふと思った。
「おのれ!」
という、頬をぶつような怒号がした。
同じ騎乗の武者が突っかかってくるのを、反射的に槍で突けば。喉から血を溢れさせながら落馬するのを視界の隅でとらえながら、また別の者を突く。
「!!」
不意に視界に飛び込むもの。ひとり落馬する者があった、家来の善景だ、相手の槍をかわしたはずみでバランスを崩し、そのまま落っこちてしまったのだ。
「しっかりせい!」
急ぎ十兵衛が駆けつけ、善景に群がる敵兵たちを払いのけるが。善景は背中を打ったらしく、痛そうに顔をしかめながらほうほうの体で十兵衛のかげに隠れるようにしながら、ようやく自分の馬をつかまえ乗っかった。
ふっと笑った。なんだか、善景の慌てぶりが可笑しかった。後で親父殿の晴景に「なんと無様なことよ」としぼられるだろう。
日が昇った、と思うほどあたりが明るくなる。
そうではない、自分たちの攻めている城が火に包まれたのだ。その火に完全に闇は払いのけられてしまい、暗闇の世界の中にわかに光明の世界が出来上がる。
が、その光明の世界の中にあるものは凄惨を極めた。
業火に焼き尽くされようとする小さな城。そこから這い出す死兵ども。それを生ける兵たちがむらがって食い散らかしている。
どちらも、血みどろになって戦っていた。
第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その二
初陣より三年。輝虎は戦ってきた。
これからも、戦ってゆく。
妻である雪姫の父であり、主君である中村家成がその胸の中に燃え盛る野心を抱き続ける限り。娘婿として、家来として、家成の野心をおのれの野心として、小さな城一つを守るため、戦い続けねばならなかった。
ある日のこと、お雪がたずねたことがあった。輝虎がつかの間の休息をお雪とともに過ごしていた時のことだった。
「輝虎様が戦にゆかれるとき、いつも思うのですが。その戦でたくさんの人をあやめております、手柄になるとはいえ、それがこわく思うのです」
「え、怖いのか?」
「はい」
このお雪の言葉に、輝虎は少々面食らったようだった。戦にゆくことを、妻に責められているようで。しかし、自分は武士なのであり、お雪はその妻である。
が、お雪としては幼いころよりともに年月を過ごしてきた輝虎が人を殺すなど想像しがたいことだった。幼少のころ、一緒に鞠をついたり、寂しさのあまり輝虎に一緒に寝てとせがんだこともあった。
その輝虎が、戦となれば何かに取り憑かれたかのように鬼神のごとく働くという。
普段もどちらかというとおとなしめで、虫も殺せぬような男なのに。人を殺すことよりも、そのギャップが怖いのかもしれないが……。
「欲のためや、怒りや憎しみで人を殺すやつもいるだろうが、おれは違う」
と夫は言う。どう違うのか、お雪にはわからない。どちらも、人を殺すことには変わりがないではないか。だが、輝虎は「違う」と言うだけの確固たる信念があるようだ。
「おれはただ人を殺しているのではない、義のために戦っているのだ」
「義、でございますか」
「そうだ。我が君であり、そなたとおれとを引き合わせてくれた父君である家成公への義のために、おれは戦にゆくのだ。決して、非道なことはしていない。神仏に誓って」
なんとも、苦々しそうな物言いだった。
しかし、因果というかなんというか、かつて居城の大高城が囲まれたことがあった。それが、いまや囲む側になって戦っていたりもする。
城攻めのとき、それだけは、ひしひしと感じるときがあった。
お雪はなにも言わない。何を言っていいのかわからない。
それを見た輝虎は急に態度を改めいつもの輝虎に戻った。お雪が悲しそうにするのを、辛く思ったのだ。
輝虎は、お雪が好きなのだ。好きな人の悲しそうな顔を見ることほど、辛いものはないのだから。
第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その三
家紋とするあやめ(菖蒲)が紫色の花を咲かせるころ。山の頂に居座り最後まで粘っていた雪もみんなとけて。
陽が昇れば暖かな空気が肌を優しく撫でてくれ。蝶は舞う。
その蝶が木刀の切っ先に止まるのを見て、十兵衛は拍子が抜けた。同僚の善景と相対し、隙を狙い急所に打ち込もうとした矢先のことだった。
「ありゃあ……」
と、吐息とともにもれる声。
濡れ縁に腰掛け、城の庭で稽古を見学していた輝虎もこの事態に拍子抜けする。十兵衛と善景の双方の間合いにちゃっかりとやってきたこの珍客は、「お呼びでないですか……」と言わんがばかりにまた空へと舞ってゆく。
それを目で追えば、中天に輝く太陽がその光で瞳を刺す。
「ん……」
眩しさを覚えて片目を閉じて手で陽をふせぐ。眩しさを覚えれば、やんちゃ小僧が目を覚ます。
馬で駆けよと囃し立てる。
―こんな天気の良い日に城に閉じこもるなんて、もったいない。―
と立ち上がったそのとき。
「殿、もう稽古は終わりましたかな」
と後ろでささやく声。
「げ、爺」
「げ、とはなんですか。さあ、まだまだ仕事はありまするぞ」
「ちぇ、わかったよ」
しぶしぶと、老臣晴景とともに奥へと引っ込んでゆく。家来ふたりはそれを見て笑いをかみ殺す。
自分の治める領土の内政に関する仕事をこなすのも、もちろん輝虎の仕事だ。サボることは許されない。
その仕事が終わったころ、もう陽は落ちてしまって馬で駆けることは出来なくなってしまい。ため息をついて、奥の間へと行く。その奥の間に、お雪がいる。
途中、侍女などの女奉公人とすれ違った。彼女たちは、輝虎に頭を下げた後決まって考えることがあった。
―今夜こそは……?―
である。
悲しいかな、輝虎とお雪、今も寝所は別々だったりする。
―あのとき一緒に寝たのは、なんだったのかしら……。―
幼少のころ、ふたりが大人の目を盗み一緒に寝たことがあったのだが、ほんとうにあれはなんだったのだろうか。
変な話だが、年齢的にも身体的にも、もう一緒に寝ても問題はないどころか。そうすべきなのに。
「さて、わたしはこれにて」
と、輝虎がお雪の部屋に来ると同時に、お藤はどこぞへと引っ込んでゆく。ふたりに気を使っているのだが、主を見て今までのことを思い出すたびに、気の使い甲斐のないことよと心の中でそっとため息をつく。そりゃ、おひい様は可愛い。そのおひい様にはいつまでも、汚れを知らぬ乙女でいてほしいという気持ちもあるのだが。
「甲斐性というものを持ち合わせておりませぬのか」
と輝虎を問い詰めたくもなる。
お藤にしてみれば、安心してよいやら心配すべきなのか、複雑な心境だった。
やがて夕食が運ばれてきて、ふたりで食す。
その間、会話は止まることはなかった。やっぱり一緒にいたいのだ、だからこうして一緒に夕食をとっている。一緒にいて、いろいろとお互い物語りたい。
そこで、輝虎は言った。
「今宵は、ここで寝る」
双方動きを止め、岩のように堅くなった。燭台の火だけがゆらいで、ふたりの顔をほのかに照らし出していた。
第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その四
「あさって、出陣だ」
「存じております」
「今までの戦とは違い、長らく帰ることが出来ないかも知れない。だから、その……」
「はい……」
お雪はただ「はい」とだけ応えた。
重い沈黙がのしかかる。
お互いに目を合わせつつも。輝虎は、お雪のその白くて細い首筋が気になり、その下にあるものはもっと気になる。
ふたりはそれぞれ、今の自分の年を考えた。輝虎は二十となり、お雪は十八(ともに数え年)。めおとになって、もう九年が過ぎたのだ。
輝虎とて、男だ。
―抱きたい。―
と思ったことは一度や二度ではない。が、それを実行に移せなかった。
あの日のことが、まだ心のどこかに染みのように残っていて、それにまだ恥じらいを感じていて。正直、怖い。
未だ知らぬものへの怖さもあり。
うかつに触れれば、それこそお雪という名の通り、雪のようにとけて消えてなくなるんじゃないかという怖さもあり。よくあのとき消えなかったものだとさえ思う。
そのことが、戦以上に怖かった。敵の大将の首を取るほうが、まだたやすく思えるほどだ。
それほどまでに、怖い。今それを正直に感じていた。
が、その前に食器を片付けさせよう。さすがに食器をそのままにしておくのは、どうかと思った。まずはそれからと思ったとき。
「殿……」
障子の向こうで、侍女が静かに輝虎を呼ぶ。
「お凛か」
またいいタイミングで来たものだが、おかしいとおも思った。侍女のお凛は家中でも一二を争うほどの元気な性格をしているのである。小さなころ、家来の十兵衛とけんかをしてボコボコにしたこともあるというほどの、女傑といってもいい女である。
その元気さゆえに、お雪が一番信頼する侍女でもあり、同じ女性としても憧れを抱いているほどだし。一時期、お凛はお雪の恋愛指南役をもしていたのだ。といっても、その指南は押しの一手ばかりだったが……。
それはともかくとして、どういうわけかお凛は声を潜め静かに輝虎を呼んだ。ほんとうなら、ここには来ずに同僚の侍女たちとなにやらよからぬ期待に胸を膨らませているはずだ。
お雪もこのことに気付いている様子だ、静かに事の成り行きに任せるしかない。何があったのだろうか。
「家成公さまよりのお使者が、おいででございまする」
そういうことか。輝虎は伏し目がちに、わかった、すぐ行くといって立ち上がって。
「後で戻る」
と言って、行ってしまった。
お凛は、後に残されたお雪に頭を下げて、なにも言わずに立ち去った。
第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その五
それからしばらくの後、輝虎はお雪の部屋に戻ってきた。食器はすでに片付けられていた。
何かとたずねてみれば案の定。
「戦だ」
という。
「ご出陣が早まったのでございますか?」
「違う」
「では、どのような」
「久遠殿の城が突然攻められたそうだ。才木のやつら、上手く身を隠してやって来たらしい」
そこで、その援軍に行けということになったのだという。
「先手を打たれてしまったな。こうなったら是非もない」
と、穏やかに言った。こうなってしまった以上は、味方を救いに行かなければならないだろう。今夜の決意は、また次の機会へと取っておいて。
「輝虎様……」
「お雪」
互いに名を呼び合ったあと、輝虎はお雪の手をとりひきよせ、抱きしめた。いい匂いがした。
お雪は輝虎の胸に身を預け、瞳を閉じた。胸板から響く心音が耳を打つ。
「ご武運を、お祈りいたしておりまする」
静かにささやいた。そのささやきが、輝虎の胸に響くように。
第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その六
菖蒲の花が、戦場に咲く。
中村家の家来である久遠実成は、その花を咲かせるためにひとりの家来に命を賭けさせて、式頭城へ向かわせた。敵の目を盗み命からがらたどりついた家来は、涙ながらに窮状を訴えた。知らせを聞いた家成は。
「左様か」
と、救援のための援軍を出せという早馬(伝令)を急ぎ各家来のもとに向かわせ、輝虎はそれに応じた。
雪がとけて、草花などの生けとし生けるものが土より目覚め蝶が舞い出すころ、紫の花が剣先のようにとがった葉の上に咲く。その菖蒲の花が、大高家の家紋であった。
杜若と似てはいるが、よくよく花びらを見れば。菖蒲の垂れ下がる花びらに紫色と黄色の虎班の模様が見受けられる。杜若にはそれがなく、中央から爪部にかけ白から淡黄色の斑紋が見受けられる。それが、菖蒲と杜若の見分け方である。
旗に、その菖蒲の花びらが描かれている。丸の中に虎班のある花びらが三つ垂れ下がり、その上に同じく三つの花びらが天を仰いでいる。もっとも、色は黒で。本来のように紫ではないが。
それはともかくとして。一番最初に久遠家の居城である久遠城にたどりついたのは、輝虎率いる大高の軍だった。その数二百。以前は二百五十の兵を出せたものの、相次ぐ戦のために人員が減っていってしまったのだった。
「もうすぐ久遠城に着きまするぞ」
と、行軍中十兵衛が問うた。味方がまだ合流する様子がないが、まさか我らだけで突っ込むのか。と続けた。
―のろまどもめ。―
内心そう思っていたのは口に出せないが、いや、それは輝虎も同じだった。
「そうだな」
と言ってしばらく黙った。どうしようか。味方が着くのを待っている間に城が落ちてしまうかもしれない、かといって自分たちだけで突っ込んで勝ち目があるかどうか。
中村家の家来集は、それぞれが自分の城と領土を持つ豪族であり。中村家は豪族連合の長という立場であった。その長の座は、力でもぎ取ったものなのは言うまでもない。
ほとんどの家来たちは普段は各居城にいて、いざと言う時に郷や村の若者を率いて戦いにゆくという戦争のやりかたであった。家成の出す早馬とて同じタイミングで各家来のもとに着くというわけでもなく、また出発のタイミングもそれぞれまちまちでもある。
その中で、やんぬるかな、輝虎の軍勢が最初に到着してしまった。
「ちっ」
と舌打ちする。
「いくしかあるまい」
槍を持つ手に力がこもる。目前には久遠城。大高城のように山の上に建っておらず、田園の広がる開かれた平野部にぽつねんとあり。大高城と同じような二階建ての質素な小さい城だ。それを囲む才木の軍勢は、ついに来たかと迎え撃つ。敵の救援はあらかた予想が着いていたのだろう。そんな相手の思惑など知らず、輝虎は槍を振るい。
あやめ(菖蒲)の旗が、戦場を駆け巡る。それはまるで、槍や刀を葉のかわりにして咲いた戦場の花のようだった。
第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その七
敵将、才木長久は馬上にて苦々しく舌打ちした。思ったより早く援軍が来たものだ。旗印を見れば、菖蒲の花の紋。たしか、大高輝虎とかいう若い武将のものだ。
「家成の娘婿か」
家成が自分の娘を家来に嫁がせているのは聞いてはいた、その娘婿として、輝虎の名を覚えてはいた。
「あっ」
城の中で誰かが声を上げる。
「援軍じゃ、援軍が来たぞ」
その声を聞き久遠家当主実成は、二階から菖蒲の旗の軍勢が才木の軍とぶつかり合っているのを見止めた。天は我らを見放さず、救援要請に行かせた家来は無事式頭城にたどりついた。それまでに、どのくらいの日数がかかったことか。
「よし、我らも出るぞ」
急ぎ階下に降り馬に乗り、家来から槍を受け取り、城から打って出た。三十になったばかりのこの実成、それほど戦上手というわけではないが、義に厚く生真面目な性格をしていた。
輝虎は、敵を突き突き才木長久を探す。混戦になり、敵の顔がよくわからず見つけられない。援軍ついでに大将首を挙げようと思っていたが、なかなか難しいものだ。
「殿!」
十兵衛の声だ。でも、声が聞こえただけで何を言っているのかわからない。
「深追いはやめなされ。なるべく我らから離れぬよう」
かなり大声をあげているようだが、やはりよく聞き取れない。しかし、深追いをしてしまったかなというのは考えていた。声のした方を向けば、十兵衛がこっちに大口を開けてなにやら叫んでいるのを見た。
それも一瞬のことだ。この戦場の中余所見は命取りになる、すぐに向き直ってひとり歩兵を突いた。向き直るのがもう少し遅ければ、歩兵の繰り出す槍の餌食だ。
周りを見た。味方が少ない、やばいかもしれない。十兵衛はそのことを叫んでいたのかもしれない。
「あ、くっ……」
一度こっちを向いたきり、戻ってこようとしないのか出来ないのか、ただひたすら敵兵を突く輝虎に十兵衛はやきもきさせられた。仮にも一軍の将ともあろう者が、勇だけが頼りの一平卒のような振る舞いなどして。
その振る舞いから、敵大将を捜し求めているのは容易に想像できた。気持ちはわかるが、雑兵が討たれるのと輝虎が討たれるのとでは、同じひとり討ち死にでも全然違う。それがわかっているのか。
「十兵衛。殿は、殿はどこに?」
善景だ。彼は常に十兵衛から離れようとしない。喧嘩の弱い男だが、こういう時安心できるというのは、なんともかんとも。むしろ、輝虎は下手に喧嘩が強くなってしまった。それが、あんな行動を取らせてしまう。
―いっそ鞠若子のままでよかったわい。―
善景の呼びかけを無視し、憎憎しげに突っかかる騎馬武者をひとり槍で突いた。善景の父晴景は老体に鞭打って、なんとか槍で敵を突き伏せている。もう誰にもかまうゆとりなどもちえなかった。
―早く来いのろまども!―
相手方はこっちよりは五,六十人多い。このまま味方が来なければ、負けないにしても壊滅的なダメージを食らってしまう。十兵衛は未だ来ぬ味方の軍勢にもやきもきさせられていた。
第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その八
そのやきもきが通じ、城の門が開き実成の軍が加勢してきた。
「助かった」
十兵衛は内心安堵を覚えて。さらに善景にいたっては、弾むような気持ちだった。自分たちが才木のものどもとぶつかれば、それを見て城から打って出てくれるかと期待していたが。その期待は当たった。
もし実成がびびって城から一歩も出ず、全て大高軍にまかせっきりにしようとしていたら、どうなっていたことやら。
「輝虎殿。恩に着る」
と、大声で叫ぶ実成。援軍が余程嬉しいのか、混戦の中で笑みを浮かべっぱなしだ。輝虎もそれに気付き、笑顔で応える。混戦の中で、それ以上のことをする余裕はさすがにない。
「おのれ家成めの娘婿めが」
もうすこしで城を落とせたものを、あの若造のせいで。と、恨み言を口走るのは長久であった。輝虎と名前で呼ばず、娘婿と呼ばわることに遺恨の念がこめられている。直に名を口にするのもはばかられるほど、憎悪しているようだ。
「引け」
と号令をかける。こうなっては早く切り上げるほかはあるまい。それこそ才木軍は引き潮のように、城から離れようとしていた。家来たちはよりそれに敏感になっていたようだ。その行動の早さは、あっけにとられるほどだ。
「逃げるものは追うな。久遠の城を守ることを第一にせよ」
輝虎はそう家来たちに号令を下す。自分たちの目的は、あくまでも久遠実成の救援であるのだ。無理にそれ以上のことをすることはない。と言いたいところだが、当の輝虎は長久の首を獲る気満々であった。
内心。
―もう少し粘れよ。―
と文句をたれていた。もう少し粘ってくれれば、長久の首を獲る機会がやってきたであろうに。結局、長久はまんまと逃げおおせた。その機転が大将の素質のひとつなのだが。若い輝虎にはまだ理解しきれていないところがあった。
とにかく、こうして久遠実成の救援という家成からの命令は果たした。
その時になって、他の武将たちの部隊が次々とやってきた。辺りをきょろきょろと見回し、すでに才木の軍勢はいなくなっている。結局、実質的に援軍としての機能を果たしたのは、輝虎の部隊のみだった。
―のろまどもめ。―
と遅刻したものたちに恨み言を心の中で唱えている間に、輝虎が実成と一緒に十兵衛たちのもとまでやってくる。そこへ、他の武将たちもやってくる。
今回一番の手柄を立てたものに、遅れの詫びのかわりに、ねぎらいの言葉をかけているようだ。十兵衛はそれを見て、ため息しか出ない。
やがて輝虎や実成、各将たちは久遠の城に入り。家来たちは農家や寺社などを仮の宿として、久遠の郷に駐屯することになった。
家成がやってくるのだという。もともと、才木長久を討つために攻撃の計画を立てていたのだが。その予定が早まっただけのことと言い、自らも出陣へと踏み切った。
「ご父君がここに来られるのか」
と、家成自らの出陣を聞いた輝虎は、久遠の郷を囲む山を見。その向こう側にある我が郷のお雪を想った。またこれからは、しばらくは城に帰れない。ということは、お雪とは会えない。
瞳に映し出す白い雲に、空を舞う蝶や小鳥たちに、想いを託すしかない我が身をも想う。今できることは、それしかなかった。
第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その九
久遠の郷に軍旗が居並び、郷を埋め尽くすように人で溢れかえろうとしていた。普段は閑静な辺鄙なこの郷が、にわかに慌しくなってきて、人で埋まろうとしている。
それと同時に、殺気立ってもきていた。
これから、どうやって敵をたくさん殺し己たちの強さを思い知らせるか。皆そのことで頭が一杯だった。
郷の者たちは、その殺気に縮み上がりそうなのを何とかこらえながら、酒や女で武士たちをもてなしてゆかねばならなかった。
そんな時に、事件が起こった。足軽が数人、里の娘に乱暴をはたらいたのだ。酒びたりになり、その娘に向かい伽をせいと、いやがるのを無理矢理てごめにした。
数刻後、乱暴をはたらいた足軽たちの首が晒された。
そばの立て札には、「この者共、郷の者に狼藉をはたらいた咎により斬首」と書かれていた。娘は、領主である実成が奉公人として雇うということで、家族とのけじめをつけることになった。その全てを指示したのは、家成であった。
むやみに殺気立ち、いらぬ所業を犯すものは軍規を乱す。そのような者に、弁解の余地などない。
愚か者どもの馬鹿面をよく見ておけ、と諸将は晒し首のもとへと集められた。集められた理由は他でもない、一罰百戒の意味を家来たちに教えるためだ。輝虎は晒し首を見て。
―おそろしいお方だ。―
と思った。もちろん、狼藉を働いたも足軽が悪いのは言うまでもない。だが、この者どもが殺気立つ理由をつくったのは、家成なのだ。ついでに言えば、こういったことは今回が初めてではない。今までも何度かあったことだ。
自分は、その家成への義のために戦っている。
「さて、家の食い扶持が増えましたなあ。これからもまた、戦で手柄を立て褒美に預からねば」
と、晒し首を前にしてのんきなことを言うのは、久遠実成だった。さっきまでも、これからしばらくも。
「輝虎殿のおかげで……」
と、しつこく礼を言われる。それも無理はない、落城寸前のところにあって、真っ先に駆けつけ敵を追い払ってくれたのは輝虎なのだ。感謝などよいというのは無理な話だ。そこへきて、生真面目な性格ときているから尚更だった。
最初こそ「いえいえ、どういたしまして」と謙虚に、軽く受け流していたのだが。さすがにそのしつこさに閉口し、かといってむげにするわけもいかず、無理矢理笑顔をつくりお礼の言葉をこらえねばならなくなっていた。
帰り道、実成がにっこりとこっちを向いた。もう輝虎にべったりだ。
―来るか?―
と、思わず身構える。お礼の言葉などもう聞き飽きたのに……。
「今度の戦」
あれ、と思った。てっきり、輝虎殿のおかげで、から始まると思ったのに。そのまま、聞いてみることにした。
「お屋形さま(家成)は、いよいよ才木長久とのケリをつけるようでござるぞ」
「それは、いつものことでしょう」
「いやいや、確かにそうだが。今まで何度も手こずらされていますからなあ。おかげで私は危うく首を獲られるところでしたよ。ほんとうに、輝虎殿のおかげで」
ああ来た……。と思いながら、笑顔をつくり、いえいえと返す。
「それはそうと。今朝のお屋形さまのあの目、尋常ではござりませなんだな。このご出陣で、今度こそは長久めの首を獲るつもりでござろう。それまで、陣を引くこともあるまい」
今度は、空を見上げた。そんなこと言われずともわかっている、というか、その今朝に、大広間で諸将を前にしてそう言ってたではないか。だいたいこの実成、何を言いたいのか。真面目な顔をして、どうにも『天然』の気があるようだ。
「ゆえに」
さて、次は何を言うのかと待てば、神妙な顔つきになっているのに今気付いた。さっきまで、笑っていたのに。この変わりようは。
「この間のような端武者の如きお振る舞いは、自重されたほうがよろしいかと。命はひとつしかござらぬ、その命をつまらぬ小戦でなくされることもないでしょう」
ぎくっとした。そのまま、実成は続ける。
「武勇をお示しになりたいのであれば、やはり大戦でなければ。でなければ、武勇の使い損ではなかろうか。雑魚の首などいくら獲ったところで、ものの数にもなりませぬ」
という、思わぬ説教に、口をつぐみ考え込んでしまった。またしっかりと見られているものだ。
まあ、そうですが、いやしかし。と口を開こうとすれば、そこを見計らったかのように、ぴしゃりと言った。
「長久などは、小物でござるよ。この世の中には、まだまだ大物がおりもうす。ご自慢の武勇は、それにお使いなされ」
第二章「あやめ(菖蒲)の旗」その十
輝虎は、実成の言葉にきょとんとしてしまった。ふと前を見れば久遠の城の門。家来たちが一礼をしながら、扉を開く。そのまま中に入ってゆく。
「大物、ですか……」
それは、どのような。と言っているあいだに、背中の後ろで扉の閉まる音がした。実成はそうですなと頷きながら。例えば、あくまでも、例えですぞと、前置きをした上で。ぽそっと。
「ほれ、お屋形様のような」
と言った。
言葉が出ない。この男、何を考えているのやら。
「そ、それは畏れ多いことを」
「そうかな」
「えっ」
「戦うのであれば、やはり大物でなければ。それでこそ、戦い甲斐があると思われぬか。考えてもみなされ、長久がどのようなものか」
と言われて、考えた。あの時の兵数、いかほどであろうか。こっちの二百より、五,六十人ほど多かったであろうか。それが、長久の出せる兵力だとすれば。
そうなのだ、彼もまた輝虎や実成と同じ小豪族に過ぎないのだ。家成の統一事業に未だに反旗を翻し、同じように家成を嫌う他の小豪族たちと結託し、ところところでゲリラ的な抵抗をしているに過ぎない。
久遠の城攻めも、そのゲリラ戦法の一環であったのだ。そしてそれが、長久の出来ることの限界なのだ。中村家のような大豪族ならば、そんなみみっちいことはまずない。多勢をもって、一気にもみ潰しただろう。今度こそ、危ない。と実成は言う。
「この久遠の郷に、二千もの兵が詰め掛けている。いやはや、我が郷のなんと狭いことよ」
耳を澄ませば、どこからともなくの馬のいななきや人の声が絶え間ない。気のせいか、郷の温度があがったような気がしないでもない。晒し首を見に出たときも、人の往来の耐えぬことキリがない。
兵数二千。その数を聞いて戦慄を覚えずにはいられない。今まで、そんな兵数での戦に出たことがない。その二千でもって、長久をもみ潰す。
「んー。どうやら、それがしの出番はないようですね」
と、ぽそっと言った。相手方がどんなに数を集めようが、七,八百ががせいぜいだろう。とすれば、勝負は呆気なくつく。これは、思ったよりも早く帰れるかもしれない。と考えたとき、胸が弾むのを覚えた。
―お雪。―
ふと、その顔が脳裏に浮かんだ。この腕でお雪を抱きしめた感触がにわかに蘇えってくる。
―ご武運をお祈りいたしております。―
と、いうその言葉は、今も胸の中で響いていた。
続く