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第一章 夫婦雛 頁四

第一章「夫婦雛」その三十一

 

 どうしてあんなことを。

 そればかり思っていた。 

 あろうことか、亭主から逃げ出してしまったのだ。自分から会いに行こうとしながら。

 莫迦、莫迦莫迦莫迦。

 と、自分を責めたてる。だけど、胸のつかえは取れない。

―輝虎様は、どうおもわれたかしら……。―

 自分から逃げ出した女房を。

 それより、どうしてこうもぎこちなくなってしまったんだろう。

 小さいころ、一緒に鞠をついて遊んでいたときは、そんなことなどなかったのに。

 あのころから、一緒に寝てお藤を驚かせてしまったころから、少しずつ少しずつ、お互いの距離がひらいていった。

 それに気付けなかった。今や、それが日常になってしまっていた。

 あの時、輝虎に一緒に寝てくださいませ、とせがんだけれど。今、同じことが言えるのだろうか。

―とてもとても、そんなこと……。―

 言えない。

 ふと、庭で木刀を振るう輝虎の姿を思い浮かべた。

 ずっと前、輝虎に会いにゆくと、自分の亭主は庭で木刀を振るっていた。

 それを少し離れて見ていた。

 額から汗を流し、引き締まった腕は木刀を振り上げ振り下ろす。

 なにより、その横顔は、一緒に鞠をついて遊んだ輝虎ではなく。ひとりの男になりつつある輝虎の横顔があった。

―そうだ、あれから……。―

 胸が、きゅんと締め付けられるような思いがしたのを、今でもはっきりと覚えている。

 素振りを終えると、その男の横顔を向け。

「やあ、来てたのか」

 と言った。自分が来たのにも気付かないほど、夢中になって素振りをしていたようだった。

 来てくれて嬉しかったのだろう、顔に満面の笑みを浮かべていた。

 それからどのくらい経ったのか。

 自分でもわからない胸のつかえ。それをつくった、木刀を振るう輝虎の姿。その横顔。

 日に日にそれが大きくなっていって、それこそ、胸が張り裂けそうだった。




第一章「夫婦雛」その三十二


 いけない、このままでは。何とかしなければ。

 そう思い、お藤にお凛を呼びに行かせた。

 お藤は、わかりました、とだけ言って。しばらくして、お凛を伴って部屋に戻ってきた。

「何か困ったことがあれば、どんどんとお申し付けくださいませ」

 と言ってくれた頼もしい侍女に、相談しよう。

 この胸のつかえはなんなのか、どうすればいいのか。

 自分ひとりでは、どうしようもなさそうだった。

「ありがとう、お藤。もう下がっていいですよ」

「はぁ……」

 お藤は、誰も近づけるなと言ったお雪が、今度はお凛をつれて来いと言ったような変わりぶりを不思議がりながら。頭を下げて部屋を後にした。

 お凛は、愛嬌のある明るい笑顔をお雪に向けている。

「私に御用とか。どうなされました?」

 凛とした、澄んだ声だった。その声を聞き、心がやや落ち着いた。

「実は……」

 鞠を手の中でころがしながら、次の言葉が出ない。

 お互い正面向き合って正座をして。お凛はしっかりとお雪の目を捉えて離さない。が、お雪はめをきょろきょろさせて、お凛の視線の捕捉から逃れようとしているようだった。

―まだまだお若い、十五におなりになったばかりだもの。―

 その落ち着きのなさを見て、微笑ましいやら可笑しいやら。

 お雪は、やっとのことで声を出した、が声にならない。

「その、あの……、て…」

「て?」

「ああ、あの……」

 と、しどろもどろだ。

 て、の後ろに何が続くのか。考えるまでもなかったが。

「手が、どうかなさいましたか? ご安心くださいませ、おひい様の手は細くて白いきれいな手でございますよ」

 お凛はわざとボケてみせた。すると。

「いえ、そうではなく。て、輝虎様のことで」

 と、お雪はか細い声をやっと出した。

「輝虎様。殿のことでございますね、それがなにか……。まさか、殿に何か悪いことでもされたのですか? さきほどのことは、もしやそれで。ならばけしからぬことです、おひい様に代わってこのお凛が、成敗してくれましょう」

 またボケるお凛。いよいよお雪は慌てた。

 年の離れたお藤より、こういう相談は年の近いお凛のほうが、何もかも察してくれると思って期待していたのに。思いっきり肩透かしをくらったようだった。

「輝虎様を、成敗? と、とんでもない! そ、そうではなくて」

「はい?」

 慌てたお雪は、そのはずみか、自分から何もかも喋りだした。お凛は、何も言わずに笑顔でそれを聞いてあげていた。

「最近、どうもおかしいのです。輝虎様のことを想うと、何故か頬が暖かくなります。それだけならまだしも、輝虎様とお会いすると、胸が張り裂けそうになって……。これは、どうしたことでしょう。今さっき、お会いしたとたんに、逃げ出してしまったのです。輝虎様が嫌いではないのに。むしろ、おそばにいたいというのに。それなのにどうして、わたしは、逃げてしまったのでしょう」

 それから、黙り込んで、うつむいて、ひざに置く鞠に視線を落としていた。

 お凛は、うんうんと頷いていた。話を聞いていて、自分もまた胸が張り裂けそうだった。

 もうこれは、言ってあげなければいけない。自分が、ちゃんと教えてあげないと。

「それは……」

 と言うと、お雪は顔を上げて、次の言葉を待っているようだった。今度はきょろきょろしていない、一言一句聞き逃すまいと、お凛と見つめ合っている。

 くす、と笑うお凛。おひい様は、まるで自分を姉のように思っているようだった。

 すぅ、と息を吸って。それから静かに、ゆっくりとお雪の心に届くようにその言葉を言った。

「それは、恋というものです」



 

第一章「夫婦雛」その三十三


「恋。恋、というものですか」

「はい、恋でございます」

 お雪は、両手のひらを頬にあてていた。頬は、暖かかった。

「わたしは、輝虎様に、恋をしているというのですか」

「その通りでございます」

 と、言うや否や。お凛はお雪の手をとり。

「この気持ちを、輝虎様にお伝えするのです」

 はしゃぐような物言い。手を取られたお雪は、頬を赤くしたままきょとんとしていた。

 かと思えば、手を離して、今度は自分の手を組んで。

「素敵ですわ。恋する乙女が、想い人にその胸のうちを伝えるなんて。ほんとうに、なんて素敵なのでしょう」

 と、目をキラキラと輝かせる。

 その昔聞いた、恋物語が脳裏をかすめてゆく。その恋物語に何度胸をときめかせたことか。

 女ともだちと一緒になって、その恋物語の感想を言いあっては、きゃあきゃあさわいでいたものだった。

 その恋物語のまっただなかに、お雪がいる。想い人、輝虎に胸をときめかせ、頬を赤く染めている。

 これが都の貴族なら、その気持ちをうたに詠み、そっと想い人に伝えるところだろうが。そこはやはり、素朴な田舎の地侍の娘としてそだったお凛のいうことは、なんともストレートなものだった。

 それはそれで、可愛げはあるのだが。はたしてお雪はというと。

「そ、そんな……。で、できるのでしょうか。なんだか、こわく思います……」

 と、震えていた。

 初めて覚えるこの感情に、ただ、心が打たれていた。

 ましてや、気持ちをうたに詠み、そっと伝えるなどという、風情のある方法など思いつくこともないし。さきほど述べたように、お凛がそんな気の効いたことを教えてあげるなど期待できそうもない。

「とてもとても……」 

 と、お雪は首を横に振るのであった。頬は真っ赤なまま。

「でもおひい様、ならどうなさるのですか、このまま黙っていては……」

 それはわかっている。だが、自分自身にもどうしようもないものを、人に言われたからといって、そうなのですかと出来るというわけでもなく。

 いやしかし、ここで一番肝心なのは、輝虎とお雪は夫婦なのである。うかつにも、ふたりともそのことが完全に頭の中からどこかへと飛び立っていっていたのには、気付いていなかった。




第一章「夫婦雛」その三十四


 さて、お凛がお雪を憧れの恋物語の主人公にしようとやっきになって、お雪は頬を真っ赤に染めてそれに身もだえしているころ。

 そばで聞き耳を立てるものがひとり。お藤であった。障子紙に影がうつらぬよう、壁際によりそって耳をとんがらせている

 大切なおひい様が、お凛を呼んでなにやらひそひそ話をしているようだ。これは捨て置けぬと、立ち去るフリをしてまた戻って。

 やがて、目を潤ませてどこかへとほんとうに立ち去っていってしまった。

 城のどこかの隅っこに隠れて、自分自身も胸が張り裂けそうなのを、我慢をやめて一気に張り裂さいた。

 次から次へと、涙が溢れてくる。今までどんな辛いことがあっても泣くまいと思っていたのに、今度ばかりは泣かずにはおれなかった。

 すると。

「や、お藤殿、どうなされた」

 と言う声。

 はっとして涙を袖で拭いたが、ときすでに遅し。目は真っ赤でとても誤魔化せるようなものではなかった。

「ど、どうなされた。何を泣かれておられた?」

 晴景であった。たまたまどこかへとゆくお藤を見かけ、どうしたのかと思い後を着ければ、おいおいと泣いているではないか。これはただ事ではないと、失礼……、と声を掛けずにはおれなかった。

「あ、晴景殿」

「どうなされた。何があったのですか、目が真っ赤ではありませぬか」

 老境の粋に達した晴景の温和で心配そうな顔が、とどめていた涙をまた溢れさせる。この方なら、何を話しても……、そんな気にさせて、涙と共に押し出す言葉。

「聞いてくだされ、おひい様が、おひい様が」

「おひい様が、どうかなされましたか?」

「はい、それが……、輝虎様に恋をなされておると」

 お雪の身に何かあったのか、思わず身構えお藤の言葉を聞けば。それは老境ながらも、歴戦の武士として戦ってきた者にはなんともむずがゆく、聞いているこっちまで顔から火が出そうなものだった。

「こ、恋でござるか」

 恋、それはあまりにも耳にするにはなんともむずがゆい。ちょっと、引いてしまった。それを抑えて、じっと話を聞いてあげた。

「はい、そうでございます。おひい様は、輝虎様に恋をなされておるそうです」

「は、はぁ……」

「もう、わたくしはそれを聞き、いてもたってもいられなくなって、恥ずかしながらもこうして隅で泣いている次第でございます。だって、泣かずにおれないでしょう。今まで、恋などというどころではなかったのですから」

 その通りだった。実際、大高家は中村家に侵略されて、支配下に置かれているのである。それをより確実なものとするため、頭領である輝虎の首輪の代わりとして、お雪が嫁がされたのだ。

 お雪の扱い一つで、大高家の忠誠度がうかがい知れる、というわけだ。大事に扱えばよし、でなければ叛意ありとかなんとか難癖をつけ、事次第によれば潰す。

 かつて善景が十兵衛に言ったようなことがいつおこってもおかしくない。下手に忠誠を誓われるより、いっそ反逆してもらった方がいい場合もある。藁の下でくすぶる火種の心配など誰もしたくはないものだ。

 そんな中で、お雪とお藤は大高家で年月を過ごさねばならなかったのだ。恋どころの話ではない。しかし、今現実にお雪は輝虎に恋をしているという。

「おなごとして生まれたからには、やはり想い人に恋焦がれていたいものでございましょう。それは、おなごの夢でございますもの。わたくしには経験がございませぬけれど、恋というのは、ほんとうに良いものなのでしょうね」

 そう語るお藤の頬は、涙を流す目以上に真っ赤だった。 




第一章「夫婦雛」その三十五


 このことは、どうかご密に。という言葉を最後に、お藤は自室へともどっていった。ご内密もなにも、晴景にはこのことを誰にも言うつもりはない。

 言ったところで、「何を甘っちょろいことを」と同僚たちに言い返されるのがオチだからだ。それ以前に、恋云々という話自体、受けつけられないというか……。

 しかし、それは輝虎とお雪の仲がうまくいっているのだといっていいかもしれんと。なら、お家も安泰と思い、ひとり何とか納得して。彼もまた自分の邸宅へとひきあげてゆく。

 ふと、お藤の涙を思った。あの気丈な女性がおいおいと泣いていたのを思い、その心中や気苦労はどのようなものであったか。察してあまりある。

 そんな中、ひとつ気になることもあって。もうそろそろ、と何度も心の中でつぶやいていた。

 なんとも、おのれ自身もまた気苦労の耐えぬことであろうか。

「お互い、年寄りはつらいのう」

 ぽそっと、声に出てしまった。

 そんな年寄りの気苦労も知らず、若い娘は自分が仕えるおひい様に。

「そのお気持ちを、お伝えするのです」

 ばかり連発していた。連発されるたび、おひい様は真っ赤な頬に両手をあて、身もだえばかり。

 話が全然進まない。でも、お互い楽しそうだ。おひい様のお雪は最初こそ戸惑ってはいたが、侍女のお凛に励まされ少しずつでも勇気がわいてきているようで。

 主従という枠をこえて、ただ若い娘同士恋について語りあっていた。

 では、若い男同士ではどうかというと。

 輝虎は自室に十兵衛と善景を招きよせ、しきりに戦の話しをねだっていた。落ち着かない、どうにもこうにも落ち着かない。

 お雪のことも気になるが、戦のことも気になる。いや、何もかもが気になって落ち着かない。出来ることなら、なんでもいいからこの手でわしづかみにして振り回したくなる気持ちが胸の奥底から際限なく湧き出てくる。

 十兵衛も善景も、同じようにねだられるまま戦の話しをした。男児として生まれ、武士として生きている男なのだ。

 体は出来上がっている、気持ちの準備はいつでもいい。あとは、ご父君(中村家成)よりのお沙汰を待つのみ。

 それまでは、十兵衛や善景のしてくれる戦の話しで憂さを晴らすしかなく。耳を働かせながら、拳を強く握り締めていた。

―おれはもう十七なのだ。―

 まだ戦を知らぬ悔しさをこめて、この小城一つの主は何度もそう胸の中でつぶやいていた。




第一章「夫婦雛」その三十六


 願いは叶う。今まで生きていて、これほどまでにそう思ったことは無い。

 にわかに城中が慌しくなった。

 皆、胸躍らせていた。

「輝虎よ。こたびの戦、そちにも働いてもらうぞ」

 という家成の言葉をたずさえ、中村家よりの使者がやってきたのだ。輝虎、十七にして初陣となったのだ。 

 もう留守番などしなくてもよいのだ。皆と一緒に出陣が出来るのだ。

「ご父君のために、存分に働きまする」

 胸が高鳴り、今にも飛び上がりそうなのをやっとこらえて、そう使者に告げた。

 使者はそれを察したか、いつも通りの高飛車ながら、握られる拳を見て顔を自ずと引き締めていた。それほどまでに、輝虎は初陣を待ち望んでいたのだ。

 使者の去ったあとのはしゃぎようときたら、まるで子供のようだった。

「初陣だ、初陣だぞ」

 と、何度も何度も拳を振り上げていた。

 お雪はその様子を女中や侍女たちから聞いた。

 やがて、輝虎がお雪に会いに来た。

「お雪、聞け。初陣だぞ」

「初陣でございまするか、なんとも喜ばしいかぎりです。おめでとうございます」

 という、妻としての言葉。その裏にある、ひとりの少女としての気持ちは、どうなのだろうか。

 がら、と障子を勢いよく開けて、ずかずかとやってきたのだ。はっとする間もなく、そのまま初陣の話し。

 その嬉しさはわからないでもないけれど、あまりにも無邪気すぎるのではないか。

―これが、胸を打つような恋を覚えたあの輝虎様なの……。―

 あの時の、胸を締め付けさせた男の横顔は、今はなかった。ただの無邪気なものがそこにいるだけ。

 もっと他にも、話すことがあるだろうに。初陣の話ししかしてくれない。ということは、自分のことなど、たいして想ってくれていないのだろうか。

 ただでさえ会話の機会が少なかったというのに、久しぶりに長話ができると思えば、これだ。

 が、しかし。お雪は武家の娘として生まれ育ち、武家に嫁いだ。ならば、これこそ無上の喜びとせねばならない。という武家の道徳をそのまま、十五の少女が持てるかどうか。

 初めて覚えた恋というもの、その恋の行き場。

 それがどこなのか、わからなくなった。




第一章「夫婦雛」その三十七


 こういう時は、「ご武運をお祈りいたしております」と言うのだ。と、お藤から教わっていた。

 いずれは輝虎は戦にゆくのだから、それを笑顔で見送らねばならない。

 でも、笑顔など、とてもつくれるものではない。

 胸の奥底から何かが沸き起こり、喉を痞え(つかえ)させようとしていた。

「……?」

 無邪気に初陣への心意気を語る輝虎だったが、お雪の異変に気付き話しを中断した。

 しばし、沈黙が流れた。

 なんとも、気まずい沈黙だった。

 自分の妻が無理に笑顔をつくろうとしているのに気付いて、あれ、と思っても遅かった。

「……、お雪?」

 といっても、ただ「はい」と返事をするだけで、なにも言わない。

 これは一体どうしたことか、輝虎には皆目見当もつかない。どうして、お雪の笑顔にどこかしら影がひそんでいるように感じるのか。

―どうしたんだ。おれが初陣なのが嬉しくないのか。―

 長いまつげがさがり気味なのを見、胸騒ぎを覚えた。唇も震えているようだった。紅を塗ったような、赤い唇だった。

 すっくと立ち上がって。

「すまん、用事があるのを思い出した。またあとで」

 と、そそくさと立ち去ってゆく輝虎。

 お雪は正座のまま遠くを見る眼差しで、壁と向きあっていた。

―わたしは、武家のむすめだもの。―

 ただそれだけを思った。

 涙は出そうで、出なかった。




第一章「夫婦雛」その三十八


 そそくさと自室へとひきこもった輝虎は、部屋の真ん中で腕を組み考え事をしていたかと思うと。

 にわかに右手で頭を抱えた。

―おれ、お雪になにかしたのかな。―

 そればかり思った。

 待ちに待った初陣に胸を躍らせて、その喜びをお雪とわけあおうと思っていたのに。ながいまつげは、さがり気味で。

 その笑顔には、どこか影がひそんでいるようで。

 そんなお雪を見たのは、初めてだった。

「お雪は、おれの初陣を喜んでくれないのか?」

 つい、ぽそっと声に出していってしまった。

 それを聞く者があるとも知らず。それを聞く者とは、他ならぬ十兵衛であった。

 部屋をたずねて。「よろしいですか」と声を出そうとしたまさにその時。輝虎のつぶやきが聞こえた。

―なに?―

 と、動きを止めそのまま立ち去っていった。初陣について色々と話そうと思っていたが、そのつぶやきを聞きそれどころではなさそうだというのを察した。

―こりゃ一体どうしたことだ。殿とおひい様になにが……。―

 あったのかは知らない。しかし、かといって捨て置けぬ。

 ということで、幼馴染みのお凛のもとへと早足でゆく。こういう場合は、お凛ならなにかしっておるかもしれぬと。

 そうすれば、ばったりと出くわしたはお凛そのものであった。

「あっ」

「あ~」

 と、互いに間の抜けた声を出しあい。同時に動きが止まった。なんだか妙に息があっていた。

「おい、お凛。殿とおひい様がだな」

 と言うや否や、お凛は手を差し出し止し。

「馬鹿。ここで話すことではない。どこか人のおらぬところへ」

 と、ふたり城の隅へとゆく。十兵衛は、馬鹿と言われたことが少し気に食わなかった。

「殿とおひい様のことでしょ。あたしもそれを言いたくてあんたをたずねたのよ」

「そうなのか。おれも同じだ。いや殿がな、おひい様は初陣が嬉しくないのか、などとつぶやいてだな。こりゃどういうことだ?」

「そんなことを……」

 城の隅っこについて。ふたりはわけを話し合った。お凛もやはり十兵衛と同じで、お雪の様子がおかしいのを見て。

―十兵衛ならなにか……。―

 知っているかもと、十兵衛をたずねたわけだが。それから語られる輝虎のつぶやきを聞いて、なんとも言えなかった。

 お凛は、輝虎がはしゃいでお雪のもとまで来るのを見ていたから。おそらくは、と見当はついていた。その見当を、そのまま十兵衛に言ってやった。

「あれはなによ、おひい様の気持ちも知らずまるで子供のようにはしゃいで初陣初陣と叫んで。見ているこっちが恥ずかしいくらいよ。だいたい、十兵衛」

「な、なんじゃ」

 いきなりふられて、十兵衛は少し驚いた。だが、構わず続ける。

「あんた殿に何を教えたのよ」

「はぁ?」

「そりゃ、初陣で心が弾むのはわかるわよ。でもね、だからといって、馬鹿みたいにはしゃいでいいわけないじゃない。おひい様は今とても不安定なお年頃なのよ。それなのに、それなのに……」

 と、途中言葉を詰まらせた。今にも泣きそうだった。

「いたわりの言葉もなく、初陣じゃ、おぬしも喜べ、だなんて。あまりにも一方的で身勝手すぎるわ。あの優しかった殿が、気がつけば阿呆みたいにガサツになってしまって。こうなったのも、十兵衛、おぬしの教え方が悪い」

「え、えぇ~。おれのせいなのか?」

 突然の言葉に、十兵衛は自分を指差しきょとんとしてしまった。

「それよ。それがいけないのよ。あのね、女はね、喧嘩の強い弱いよりも、優しさが好きなのよ。優しさに触れさせてほしいのよ。なのに……。馬鹿がいらぬことを教えてしまったために……」

「ちょ、ちょっと待てい!」

 わけもわからず一方的に悪者にされて、しかも馬鹿とまた言われて黙ってはいられなかった。

「まるでおれが殿をならず者に仕立てたみたいな言い方だな。それに男児に向かって馬鹿などと、いくらおぬしでも聞き捨てならぬ」

「へぇ、ならどうするのさ。あたしを斬るのかい」

「斬りはせぬ、だが、謝れ。さっきのことを謝れ。いくらなんでも無礼だろうが」

「いやだ」

 と、お凛は十兵衛に向かい、あかんべえをする。もうしっちゃかめっちゃかで話にならない。

 だいたいこのふたり、何を話すためにお互い顔をあわせたのか。それなのに城の隅で喧嘩である。まったくこの様は、どうであろう。



第一章「夫婦雛」その三十九

 

 十兵衛とお凛が城隅で喧嘩をしているころ。

 また輝虎の部屋を訪ねるものがあった。

「よろしゅうございますか?」

 と言う声にはっとして。

「いいぞ」

 と応える。

 が、顔はふすまにむかっても、目は壁を見ようとしているのはどうしてだろう。

 それもそうだった、よろしゅうございますか、と言うその声は、お雪のものだったからだ。

 やがてふすまがそっと開けられて、すこし足をたたんだ正座気味の姿勢で、お雪は部屋に入り。同じように、そっとふすまを閉じた。

 その間、輝虎は畳を見ていた。

「輝虎様」

 指先を畳につけると。細い、澄んだ声で自分の亭主を呼んだ。だが、亭主は気まずそうな眼差しのまま、頷くのがやっとだった。

 やや一息の間があって。

「ご武運を、お祈りいたしております」

 という言葉。

 それから。

「ありがとう」

 という応え。

 このしばらく前の、壁とのにらめっこ。ただ時間がすぎゆくだけだった。

 すると、ため息が出た。そしたら、そうだ、と思い立って。

 今、こうしていた。

 そうしたら、ありがとう、という言葉がかえってきた。

 ありがとう、と言った人は、困ったように照れ笑いをしていた。

 それを見ていたら、おかしくてこっちも笑っていた。




第一章「夫婦雛」その四十


 それから三日ほどのち。

 新しい鎧具足が威風堂々と、朝日のさす大広間に仁王立ちして。

 その具足を身に着けているのは、他ならぬ輝虎であった。

 出来立てなのでほころびも無いし、椿油が功を奏し、つやもある。

 つくりこそ質素ではあるが、一城の主がつかうものだけはあった。

 同じように鎧具足で身を固める家来たちの、なんと貧疎なことか。やがては輝虎の鎧具足も同じようになるのだろうが、今は真新しい。

 輝虎は、家来たち一同を見回し。

「では、陽が中天に昇るころ、出陣とする。それまで、飯でも食って英気を養っておけ」

 と命じ、立ち去ってゆく。立ち去ってゆくとき、一陣の風が家来たちをなでていったようだった。

 十兵衛は拳を握り締め、この間のお凛との喧嘩は無理矢理忘れて、叫びたい気持ちを必死でこらえて気合と根性を飯より先に腹に溜め込んでいる。

 そうかと思えば、そばでは氏清父子が親子して涙ぐみ。

「ようございました、ようございました」

 と、肩をたたきあっている。

 あれから六年、この日をどのような気持ちで待ち望んだことか。

 下手をすれば、なかったかもしれないどころか、今自分たちはこの地上にはいないのだから。

 それは、女たちも同じだった。

 あのとき、攻め手から女であることの悲劇と悲惨さを味わっていたかもしれないのだから。

 でもそれはなく、若殿の凛々しい武者姿を見ることが出来ようとは。

 いつも元気で騒がしい女中や侍女たちも、輝虎の姿を見るたびに押し黙り黙礼をし。中には氏清父子よろしく涙ぐんでいるものまであった。

 やさしげな面持ちににじむ優雅さ。鎧具足を身にまとっていても、荒々しさは微塵も感じなかった。

 今改めて見れば、幼少のころの鞠若子というあだ名が、良い意味でとても似合う。通り過ぎるたび、そよ風に頬をやさしくなでられるような気がした。

 そして、その行く先に、ささやかな嫉妬がおくられて。そよ風に流される

 お凛ですら、この間十兵衛と喧嘩したことをいとも簡単に忘れて、そうだった。

―くやしい。―

 ふと、素直にそう思う自分に気付いたときには。輝虎はお雪の部屋の中。

 お藤は、挨拶をすませてさっさと部屋を出た。

 婚礼の儀のとき、大きくなれば素敵な夫婦になるであろう、と思ったが。その通り、ふたりが相対したとき、自分の予感が当たったことに感激すらしていた。

 今度は、晴景に見つからないようにと気を配って、城の隅へ。

 お雪は、つつましやかに指先を畳につけて亭主を出迎える。

―またおれも同じことを繰り返すものだ。―

 と輝虎は自分に呆れながら、この間と同じように困ったように照れ笑いをしていた。 

「座っても、いいかな」

「まあ」

 亭主の言葉に、お雪は可笑しそうに笑い。微笑みながら。

「ここは輝虎様のお城でございます。なにを遠慮なさることがございましょう」

 と言った。

「や、たしかにそうだった」

 やっぱり困ったような照れ笑いの輝虎。この間、お雪を悲しませたことをまだ引き摺っているようだ。

「いやしかし、城といってもそなたのいた式頭城に比べれば、小さいものだ」

 と座りながら言う。

「いいえ。小なりとも、お城はお城でございまする」

「そう言ってくれるか。ありがとう」

「どういたしまして」

「そうだな。そしておれはこの城の主なのだ。この城を、守らねばならぬ」

 この城を守る。それは大高家やその領土、家に仕える家来たち、さらにはこの家に嫁ぎにきたお雪を守るということ。

「この城一つが、おれの全てだ」

 と、しみじみと言った。

 だから、今こうして鎧具足を身にまとっている。

 不思議なものだった。初陣の知らせを聞いたときにあれほど昂ぶっていたのがウソのように、落ち着いていた。

 こうして、お雪と向かい合わせに座っていて。鎧具足の重さも忘れて。

 自分が何を言いにきたのか、忘れる始末だった。

―どうしよう。―

 言葉もない。阿呆なやつよ、とおのれをののしり、頭の中で必死になって言葉をつむぎだそうとする。

 いや、何を言うべきかはわかる。肝心なのは、それをどのように言おうか。それが思い出せぬ。

「……?」

 お雪は輝虎の沈黙に少し戸惑ったが、ややあって口を開いた。

「そのお姿、とても凛々しゅうございまする」

「お、そ、そうか。いや何、この鎧の重いこと重いこと」

 なにやら、すっとぼけた応えをかえしてしまった。

 お雪もお雪で。

「まあ。それは大変でございましょう。輝虎様を乗せるお馬も、さぞ大変でございましょうね」

 と、ふたりして、すっとぼけてしまっていた。




第一章「夫婦雛」最終話


 そうではなくて。

―おれは何を言っている。―

―わたしったら、何を。―

 戦を前にして、ここまでとぼけられるものか。

 なんともかんとも、お互いの気持ちは太陽より先に中天に昇っているようで。

 恥ずかしそうに輝虎は右手でうなじをかき、何か観念したように、それでも明るく、ため息をついて。

「それでは」

 と、立ち上がった。

 そうすれば、お雪もそれに続いた。「えっ?」という感じで、何かを待っているように、じっと亭主を見据えていた。

「大丈夫、初陣首など取らせはさせぬさ」

 お雪が自分のことを心配してくれているのだと思い、つとめて明るく優しげに言った。その言葉を信じないわけではないのだろうが、右手がやや上がり袖がゆらいだ。 

 それに釣られるように、裾もゆらいだ。

 ゆらぐたび、ふたりの距離が縮まってゆき。輝虎の障子を開けようとしていた手が、すーっと動いて、お雪の手に届いた。

 一緒に鞠をついていた手が、ふれあった。

 指先すこしからませれば、年月を感じた。お互いを瞳でうつしあい、今までのこともその瞳の中から見出せそうで。

 どちらからともなく、ひきあうようにしてさらに近づき。

 瞳を閉じて、ゆっくりと、互いの唇が近づいて。触れた。

 生まれて初めての、くちづけだった。 

 本当の太陽が中天に差し掛かるころ。

 お雪が城から見下ろすもの。

 ひとつの小さな一団が旗をなびかせ、のどかな田園風景を見せる大高郷を横切っている。

 その先頭に、輝虎がいる。

 それを、ずっとずっと、見守りつづけた。やがてそれは、小さな点になって、見えなくなっていった。

 その間、口ずさむ手まり歌。

 

 おてんとさま(お天道様)は

 それみてわらへ(笑え)

 

 そこのところを、何度も繰り返して。空を見上げた。

 青い空の中、雲が白く筋を引きながら風に流されて。

 お天道様は、その雲が可笑しいのか、笑っているようだった。笑いながら、その恵みの光でお雪を優しくなでていた。


第一章「夫婦雛」 終わり

第二章「あやめ(菖蒲)の旗」に続く

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