第一章 夫婦雛 頁二
第一章「夫婦雛」その十一
婚礼の儀も、よく覚えていない。ただ、質素なくせに作法だけはしっかりと堅苦しい。ふたりとも、カチカチに固まっていた、それだけは覚えている。
やっと会えた、とはしゃぎたいのを堪え。輝虎は作法にのっとって、上座に座して。その横にお雪。
小さな子供がおめかしをして、並んで座っている。
だれかが言った。
「ほんに可愛らしいのう。夫婦雛じゃ」
それを皮切りに、一同囃し立てる。家成もその中に混じっていた。
堅苦しい作法に身をかたくしながら、上座にあるふたり。
酒もまわり、みな機嫌が良い。
それを見る、一人の女性。髪に白いものが混じっているが、よく見ればそれほどに老けてはいないようだが。どこかしら苦労の影がしのばれる。
女性、お藤はお雪を眺めながら。何度も何度も。
―まだ九つというに、もうお嫁に行かされるのか。―
と、そう思った。しかも相手は主君の征服した家の嫡男ときている。
―家成様も、なんと無慈悲な。いくら一夜情けをかけただけの侍女の子であるといえ。―
そうとも思いながら、潤んだ目でなんとかお雪を見守っている。だが、ほんとうに可愛らしい。
花嫁衣裳に身を包み、顔を下げ気味にして、静かに喧騒の中に身をおいている。その横には、亭主となるこれまた幼い童子。
人形のようだ。
かわいらしい。
ほんとうに、かわいらしい。匠の技でこしらえた雛人形をふたつならべたのだ、と言えば簡単にだまされそうなほど。かわいらしい。
お雪は、その名の通り色白で。初めて、いや生涯一度きりになろう婚礼の儀に身をかたくしている。それは、輝虎も同じだった。
その輝虎も、色白く田舎の小さな豪族の子にしては良い顔立ちをしている。成長すれば、さぞ美男美女の素敵な夫婦になるであろう。
それを思うと、乳飲み子のころから手塩にかけて育ててきた乳母として感慨深かった。
しかし……。
と、お藤は思う。
いや、今はめでたい席である。それは後回しにしておこう。
今はただ、縁あって結ばれたふたりを、この夫婦雛の将来に幸あらんことをと願うばかりであった。
第一章「夫婦雛」その十二
戦、降伏、元服、婚礼と慌しい日々が過ぎ去り。早二年の月日が流れた。輝虎とお雪、晴景や十兵衛らは二つ年を重ねた。
小高い山の上にある大高城という小城の主は、幼い輝虎に代わり。先代輝種は、隠居をし出家もして、寺にこもった。
輝種の役目は、もう終わったのだ。これからは、その生涯を終えるまで念仏を唱えるだけ。
戦もあった。野心燃え盛る家成は、飽くなき領土欲をもってその勢力図を塗り替えてゆく。それに、大高家も協力しなければならない。
だが、まだ幼い輝虎には戦は早すぎるので、代わりに晴景や十兵衛がわずかばかりの手勢を引き連れ戦場を駆け巡った。
戦のたびに、若い十兵衛は見違えるほどに精悍に、逞しくなってゆく。一軍を率いる大将としての貫禄も出てきている。それを見ながら。
「おれも早く戦にゆきたい」
と、輝虎は言い。
その度に。
「もうしばらくのご辛抱でございまするよ」
と晴景はなだめるのだ、が。それも耳に入らぬと、若すぎる主はひたすら木刀を振るった。
十兵衛はそれを見て。
「まだまだ!」
と、喝を入れる。稽古の相手をするたびに、輝虎はぼこぼこにされる。
容赦はなかった。戦に出て一働きしたいというのなら、なおさらであった。それが十兵衛なりの忠義の現れであったし、それぞれ兄弟のように接してきた男同士なのだ。
庭での稽古中、熱くなりすぎて木刀を放り投げお互い激しく殴りあった事もあった。一度や二度ではない、何かのたびにそうなってしまうことが多くなった。だが、あまりにも体格差と経験が違いすぎていたし、なにより、十七の十兵衛と十三の輝虎(共に数え年)では無理もないことだった。
最近また一段とその回数が多くなった。とにかく輝虎は十兵衛に突っかかるのだ、それこそ親の敵のように挑みかかる。
だが、その都度その都度、輝虎は口から血を流し、地に伏せて悔し涙を流し、十兵衛は怒鳴った。
「それくらいで泣くようでは、大将などつとまりませぬぞ!」
涙が頬についた土を洗い流してゆくのを感じながら起き上がり、再び挑みかかろうとするところを、晴景が慌てて止めた。
よしなされ、もう十分でございます、と言った後十兵衛を睨み。
「やりすぎだぞ」
と戒める。その度に十兵衛は、甘すぎると言いたそうに舌打ちをする。彼自身、やるというのなら、何度でも相手になってやるという気持ちでいるのだ。そうでなくてなんで稽古の相手がつとまるものか。
晴景自身も武士であり男である、野暮ったいことは言わない。だが、やはり主家来の最低限のけじめはつけていてほしい、というのが本音であった。
しかし、どうしてまた殿はそのように勘気を起こしだしたのか、これでは稽古というより本当に喧嘩でしかない、と気がかりだった。
当の輝虎はというと、今度は地べたに座り込み、涙をひたすら溢れさせるのみであった。
そこには、負けた悔しさだけがあった。
だから、それは止まることはなく、いつまでも続いてゆくのであった。
第一章「夫婦雛」その十三
「なんともまあ」
お雪の乳母として共に大高家にやって来たお藤は、呆れたように言った。家来にぶちのめされた主の姿を見て、頭を抱えたくなってしまった。
この若い主は自分の立場と言うものがまるっきりわかっていないようであると、そんな印象を持たざるをえない。
いくら教養というものが行き届いていないような僻地の小豪族の家とはいえ、そこまで酷いものかと、ため息をつくことが多かった。
「お姫様が心配していますよ」
その通り、お雪は最近は、はらはらどきどきと輝虎を心配する日々が続いた。それを言われるたびに、輝虎はばつが悪そうに苦笑いをするだけだった。
家来の十兵衛と事あるごとに大喧嘩ばかりして、自分のことをあまりかまってくれないと、お雪はお藤にこぼしていたのだ。
「わたしはもう、きらわれてしまったのでしょうか」
九つで他家に嫁ぎ、まだ十一になったばかり。心細いと言うものではない、ただ不安で仕方なかった。
「すまん」
と言いながら鞠をつくも、腫れた頬は痛々しく。輝虎はそのことばかり考えているようだった。それがお雪には辛かった。
それに気付けない輝虎も、やはりまだ子供だった。
ちなみに、夫婦としての営みはというと……。言うまでもなく、なかった。まだふたりとも若すぎる。それでそういうことがある方が、かえっておかしいというものであった。だから、寝所も別々だった。
だが、もうそろそろ一緒に寝るくらいはいいのでは……、と言う声が侍女たちの間でささやかれ始めていた。
その為には、何としてもふたりが仲良くしなければいけなかった。
「あの頃は……」
ある日の夜、お藤はお雪を寝かしつけた後、自室の布団に潜り込んで考え事をしていた。真っ暗な中、薄ぼんやりと見える天井を見ながら、ぽそっとつぶやいた。
「輝虎様も優しかったのに。毎日お姫様と鞠で遊んでいたのに」
嫁いで間もない頃、主としての稽古や習い事の合間を縫って、よくお雪の元にやってきては、鞠をついて遊んでいた。
生家とはまるっきり違う他家の雰囲気に慣れなくなかったり、寂しくなったりして、よく泣くこともあった。その度に、輝虎は優しく声を掛けてお雪を慰めようとしていた。
それは夫婦と言うよりも、ふたつちがいの兄と妹という感じだった。
第一章「夫婦雛」その十四
こんな事もあった。
外に出ていた輝虎が、何かを持ってやって来た。それを見せた途端。
「きゃっ」
と、お雪は悲鳴を上げて泣き出してしまった。
お雪の悲鳴を聞いて、すわっ、と晴景とお藤が駆けつけてくれば。カブトムシを手に、おろおろとする輝虎がそこにいた。
「お雪、どうした。なぜ泣く、泣いているだけではわからぬではないか」
必死になって、輝虎はお雪をなだめようとしている。だが、一向に泣き止む気配がない。
ふたりの大人は、それを見てきょとんとしていた。どうやら、輝虎は獲ってきたカブトムシを見せようとしたようだった。
「殿、あの……」
仕方なく、お藤は耳元でこそっと、言ってやった。
「お姫様は虫が嫌いなのでございます……」
それを聞いて、輝虎は不思議そうにしていた。だが、女子は男のように虫取りをしないし、虫を好きにもなれないものだと言ってやったところ、ようやく言われた事がわかって。慌ててカブトムシを庭に放り投げて。
「お雪、わたしが悪かった。許してくれ。虫が嫌いとは知らなかったのだ」
と懸命に詫びた。だが、それでもお雪は泣き止まない、よほどショックが大きかったのだろう。それどころか。
「虫もきらいですが、輝虎様もおきらいです」
と言い出したのだ。虫を手づかみして平気でいられるなど、お雪にとっては信じられなかった、そういうものは虫と同罪であった。
「わたしがきらいになったのか。すまん、この通り許してくれ」
頭を床につけひたすら詫びるも、どうもお雪は許してくれそうになかった。ただ。
「おきらいでございます」
と言うだけだった。
「こまった」
たまりかねて、輝虎は救いを求めるように大人たちを見る。晴景は、その様が可笑しいのか笑いをかみ殺している。お藤は、どこかに行っていた。
庭に放り投げられたカブトムシは、そ知らぬ顔してどこかへと羽ばたいていっていた。
やがてお藤は鞠を持ってきて、輝虎に渡した。
「そうだ、鞠で遊ぼう。鞠は好きであろう」
渡されるや否や、小さな両手で包み込んだ鞠をお雪に差し出す。すると、大粒の涙をこぼす目に光が戻って、鞠をじっと眺めた後。
「もう二度と虫などお見せになりませんか」
と言いながら鞠を取ろうとする。その時、お互いの指先が触れた。お雪の目は、泣き腫らされて真っ赤になっていた。それを見ながら、輝虎は言った。
「神仏に誓って、もうせぬ」
「ほんとうですか、約束ですよ」
「ああ、約束だとも」
このときになって、ようやくお雪の顔に笑顔が戻った。
いつの間にか大人は姿を消して。それに気付かず、ふたりは手まり歌をくちずさみ、無邪気に鞠をついていた。
第一章「夫婦雛」その十五
それからも、輝虎と十兵衛の稽古を超えた大喧嘩はおさまることはなく。家来たちの間では、子供どうしがいがみあって、あれでお家が保てるかと、いい陰口のエサになってしまって。
いい加減、晴景も腹に据えかね。
「殿……」
と、真っ赤な頬の若い主に言った。
雨雲が空を多い、小雨をぱらつかせる湿り気の多い日だった。汗がべたつくのをこらえ、ふたりとも机に向かい領土の統治に関することを色々とこなしている時、合間を見計らって晴景の口が開いた。
「このごろのあれは、いくらなんでも……」
手加減しない十兵衛も十兵衛だが、懲りない殿も殿である、と小言をいい始める。そんな輝虎は、うんざりするように応えた。
「わかっている」
「ならばなぜあのような」
「あれは、稽古だ。稽古の相手は十兵衛をおいて他にはない。それだけのことだ」
「しかし、木刀をかなぐり捨てて相手につかみかかるなど。戦でそのような働きをする武者など、古今聞きませんがな」
「事と次第による。太刀を失えば、そうするしかないだろう」
「ですが、相手もまた丸腰というわけではありません。いかな豪傑でも、丸腰で武器を持つものに勝つのは」
「……」
黙りこむ輝虎。そっぽを向いて、庭をじっと見る。
その時、拳が強く握り締められるのを、晴景は見逃さなかった。もう、喋るのも面倒くさい、という若い主を見て。まだまだ子供でおわすなあ、と内心ため息をつく。
「お姫様も心配されておりまする」
「……」
黙したまま、その細い首が頷く。小雨の滴る庭先に、輝虎は何を思い浮かべるのか。晴景にも、子供はいる。だけれども、輝虎の年頃のころは、多少の反抗期はあれど、そこまで意固地になることはなかった。
「哀れに思し召さぬか?」
「何が」
哀れ、それがお雪のことだと察し。急に首を返し、輝虎は晴景を見据える。だが、老臣は続ける。じっと、目と目を合わせ、決して捕らえて話さない。
「考えてもみなされ。お姫様はまだ十一でござる。嫁いで二年になるとはいえ、幼き身で他家にゆき、共はお藤殿だけ」
「それがどうした」
「殿」
「なんだ、早く言え」
早く言え、と命令口調だが。輝虎の声がわずかに震えている。内心、このお人好しそうな老臣がそのように接するのは今回が初めてで。それまで、どこかなめていた。
晴景はたしかに、武士にしてはお人好しではある、が。そこは、この乱世に生きる武士なのだ。その気になれば、輝虎など遠く及ばない人生経験を積み重ねている。
「そのお姫様のだんな様は、どこのどなた様でございましょうな」
「おれだ」
「で、ござる。それがわかっておいでか」
「わかっている」
「いいえ、わかっておりませぬ」
いつになく厳しい晴景に、輝虎はやや閉口しているようだ。さきほど十兵衛にのめされ、今度は晴景の小言。握り拳につづき、奥歯を噛み締める。
構わず、小言は続けられる。
「わかっておいでなら、なぜもっとお姫様にかまってあげませぬ。毎日毎日、輝虎様はとおっしゃっておいでじゃそうな。ここで頼れるのは、殿だけなのですぞ。か弱き女子の身のお藤殿に何もかもまかせっきりにして。もし、万一のことがあれば、お姫様の身は誰がお守りするのでございますか。如何?」
そこまで言わせるな、と言いたげにため息をつき。晴景はずっと、じっと若い主を見据えていた。その若い主は、歯をかちりと鳴らせた、と思ったら。声を殺し、突然涙を溢れさせた。
「わかっている、わかっている」
それから、ただ、そればかり繰り返すと。爺、と言って。何事かぽつりぽつりと語り始めた。
第一章「夫婦雛」その十六
「わかっている、わかっているのだ」
「ならばなぜ」
「爺、他言するなよ」
はらはらと涙をながす若い主が、自身にとっては大切なことを今話そうとしているのを察して。晴景は黙って頷いた。
「十兵衛、あれは」
「あれが、どうか?」
「あれは、お雪を馬鹿にしおった」
「は?」
咄嗟には何のことかわからないが、何も言わず黙って話を聞き始める晴景。その晴景に、とつとつと輝虎は語り始める。
「毎日毎日、おれを鞠遊びなどに駆り出して。あのお姫様はおれを軟弱ものにするつもりなのか、などとほざきおったわ」
「ほ、ほう」
「おれがお雪と鞠をつくのは、お雪を哀れに思って、一緒に鞠をついているのだ。爺の言うとおり、お雪は寂しそうじゃ、それがいたたまれぬ」
「は、はあ」
「だが、十兵衛はそれがちっともわかっておらぬ。この間も、おれをぶちのめした後、鞠遊びにウツツを抜かすからだと言いやがった」
言いやがった、と一城の主が足軽言葉など使って、その無念さいかばかりかと思い、それと同時に、この若い主の心情が少しは理解できたような気がした。
「十兵衛にしてみれば、お雪は仇の家の娘じゃ。それも気に食わぬのであろう」
一理ある。十兵衛の父、太郎左衛門は中村家との戦で討ち死にしている。十兵衛自身はお雪には大げさなほどの敵意はなくそれなりに気は使ったりするものの、その心境は複雑かもしれない。それが、輝虎にぶつけられているのかもしれなかった。
全ては推測でしかないが、十分ありうることでもあった。思わず、どちらも子供じゃと言いかけて、止めた。
「お雪を守るのは、おれしかおらぬ。おれが守らずに、誰が守るのだ。だから、お雪を馬鹿にして罵るものも決して許さぬ。たとえ十兵衛であろうとも……」
それから、輝虎は黙り込んだ。涙は止まらない。大粒の涙が頬を伝って拳に落ちる。けれども、涙では無念さは洗い流せない。
輝虎の言葉を聞きいささか安心はしたものの、やはり子供だのうと、心の中でつぶやいた。そのいかにも子供らしい無邪気さは、確かに微笑ましいかもしれない。だが、もっと大切なこともある。それに気付けないのもまた、無邪気さゆえか。
気がつけば、涙のつたう輝虎の頬が紅い。やはり気恥ずかしかったらしい。
それを見て晴景は。
「殿、お姫様をお想いであれば。十兵衛に仕返しの喧嘩など仕掛けるよりも、おそばにいてあげなされ。それがなによりも、お姫様のためでござるよ」
と、さっきとはうってかわって優しく言った。その晴景の頬も、年甲斐もなく紅くなっていた。
第一章「夫婦雛」その十七
さて十兵衛である。
この若者は、暇があればいつも木刀を振り回すか馬を駆るかしている毎日を送っていて。いかにも男くさい性質の持ち主だった。それだけに、自身が武士である、という自覚も強い。戦でも、よく働く。
主のそのまた主である、中村家成から。
「戦である」
と、声がかかるたびに、わずかばかりの手勢を引き連れては槍を突き突き戦っている、のだが。
その度に。
「面白くない」
と、苦い顔をする。
中村家は、父の仇である。当初、「戦での仇は戦が終わればなし」のならいに従い、その遺恨を消そうと思ったが。
どうもそれが出来ない。
晴景はベテランだけあって、今は中村家の陪臣(家来のそのまた家来)としてよく働く。
ゆえに、晴景の気苦労は耐えない。それについて説教をすることもあった、しかし。
「わかっているのだが……」
と、苦い顔をするだけで黙り込んでしまうだけだった。仕え甲斐のない先代のために……、という侍としての悔しさ。せめて、父を討ち取った者を討ちたかったが、それも出来なかった、という子としての哀しさ。
それらがごちゃ混ぜになって、自分でもどうして良いのかわからなかった。
そのうっぷんを、戦で晴らせば。敵の首級をいくつも挙げて、手柄も立てられたが。それは仇の家に貢献していることでもあり……。
「親父、おれはどうすればよい?」
と、上の空で、空を見上げてつぶやいた。
自身馬上にあり、目の前には草原が広がる。今日もまた戦だった。命を懸けて、主のそのまた主の家の領土拡大のために働かないといけない。
向こうに見えるは、幾多もの兵たちと、それの上げる土ぼこり。みな目を血走らせて、いまかいまかと突撃を待っている。
空は晴天、絶好の戦日和であった。
十兵衛は鎧兜に身を包み、右手には槍。その槍で何度その兵たちを屠って(ほふって)きたか。
「十兵衛!」
怒鳴りつける声。十兵衛と同じ馬上にある若者、氏清晴景の子、氏清善景の声だった。年は二十歳。今回のこの戦、体調を崩した年寄りの父に代わり、この善景が大将として戦に出ていた。年の若い十兵衛は副将だった。
中村家に敗れて降伏した時には、父とともに敵と戦おうとしたが。その機会はなかった。戦いらしい戦いをしたのは、十兵衛の父、太郎左衛門のみといってもいい。しかも、命を懸けて主家の名誉を守らんと、自ら討ち死にを果たしたのだ。でなければ、大高家が腑抜けのそしりを受けかねないと思ったのだ。
「ん?」
大将の怒鳴り声を聞き、とぼけた返事をして。
「お、おう。おるわおるわ、おれの槍に突かれたがっている連中が」
と、語気を改め気を吐いた。
「どうした、おぬしらしくもない」
「そうかな」
「そうだぞ、さっきまで、ぼおっとしおって。まさか怖気ついたのではないだろうな」
「なんの。いつもの通り、この槍で一働きをするまでのことよ」
「ならいい」
と、言いながら、ごくりとつばを飲んだのは善景だった。この善景、父に似てお人好しの面相をして、その通りお人好しであり。戦働きよりも、内政の仕事に向いている温和な性格の持ち主だった。
自身それをよくわかっていて、戦のたびに十兵衛を頼りにしていた。その十兵衛が、いつもと違う様子を見せて、にわかに不安になってしまったのだ。
―情けない……。―
と、思いながらも。今回の戦で頼るのはやはり十兵衛しかいない。
善景も槍を構え、十兵衛に目配せすれば。十兵衛は頷いた。敵方の人数はこちらとそう変わらない。どちらも作戦らしい作戦もなく、正面切ってのぶつかり合いになりそうだった。
「腕が鳴るわ」
と言うや否や、突然陣太鼓の響きが高らかになる。ほら貝が鳴り、空を揺るがす幾多もの叫び声がこだまして。地響きが轟く。
「来たぞ!」
「よし、我らも行くぞ!!」
真っ先に十兵衛が駆け出す。それに続く善景。これではどっちが大将かわからない。うしろからは、自軍の兵たちがわめきながら大将と副将に続く。
双方ぶつかり合う。太刀、槍の弾ける金属音が響き、それを人の喉より押し出された声が掻き消して。青い草原が血に染まる。
第一章「夫婦雛」その十八
どこまでも広がる青空。お天道様は恵みの光を地上に降り注ぎ、それを取り囲む雲たちは思い思いの姿になって、風の向くまま気の向くままの空の旅を満喫してるようで。
青空は、青空が広がる限り、どこに行っても青空を見る事ができて。お天道様も同じように見る事ができる。
「今日はまたよい日和にございますね」
障子は開け放たれて、部屋から大空を眺められる。お雪は、その空の青さに微笑んだ。輝虎はそれを見て、頷いた。
「ああ、いい日和だ」
「輝虎様」
「え?」
「いまいちど……」
と言いながら、ちいさな手で包んだ鞠を差し出した。最近、輝虎は鞠をつくのが上手くなった。さっきも、手まり歌を唄いながら、鞠をついてくれて。
「や、次はお雪の番だぞ」
「でも、いまいちど輝虎様が鞠をつかれるのをみとうございますもの」
「みたいのか? そんなによかったかな」
「はい、ようございました」
「そうか」
と言いながら、鞠を受け取り、こほんと咳払いをして。再び手まり歌を口ずさんで、鞠をつく。我知らず頬を緩ませ、まんざらでもなさそうだった。
それが終わって、満面の笑みでお雪に鞠を差し出す。
「さあ、次こそお雪の番だぞ」
「はい」
お雪は鞠を受け取って、はきはきとした声で手まり歌を唄い、鞠をつく。
ひとついしだん(石段)あがりゃ
ひとつまりつけ
ふたつあがりゃ
ふたつつけ
おてんとさま(お天道様)は
それみてわらへ(笑え)
みっつあがりゃ
みっつつけ
よっつ いつつ むっつ ななつ やっつ ここのつ
とう
とうあがりゃ
とうまりつけ
とうあがりゃ
そこはおじょうど(お浄土)
それ
おてんとさまが
わろうとる
おてんとさまも
つけや つけや
まりつけや
「お粗末さまでした」
鞠をつき終えたお雪は鞠を床において、おじぎをして。輝虎は、何故か頬を赤くして、ぼおっとしていた。
第一章「夫婦雛」その十九
鞠若子。
いつの間にやら、輝虎は家来よりそう陰口をたたかれるようになっていた。
先の戦で、十兵衛と善影が血みどろになって戦っているときにも。輝虎はお雪とともに鞠をつき遊んでいた。
いや、輝虎も家来たちやその家族とともに、戦勝祈願のお祈りをしている。何も思っていないわけではない。
なにより、輝虎時自身早く戦にゆきたいのだ。だが、まだ若すぎると留守番をさせられているのだ。
その合間、お雪のそばにいてあげたにすぎない。もとより、家来たちとて同じことをしていたではないか。
幸か不幸か、鞠若子の陰口を輝虎は知らない。知らないから、陰口なのだが。
先代のときは念仏、で今は鞠。家来にしてみれば、二代も続き、主と仰ぐものがこの体たらくでは。とため息をつくことが多い。
主とは、そういう目で見られる存在なのだ。いかに幼い身でも、しっかりして、家来を安心させなければならない。
幸いにも、それを心配する家来もいる。氏清親子であった。
「父上……」
と、とある晩。城下にある氏清氏の邸宅で、善景は晴景と酒を酌み交わしながら問うた。
「殿が鞠若子と言われていることですが」
「あれか」
晴景は我知らず、酌を手にしたまま顔を伏せた。善景は続けた。
「はい、そうです。今日も、他のものがそう言っておりましたので、注意をしたのですが」
「ふむ」
「なんとも、苦い顔をしておりましたよ。良い子ぶりおって、と言いたげに」
「そうであろうな」
「父上はそれについて何とも思っていないのですか」
そう言われて、晴景はしかめ面をし、酒を飲み干した。勢いあまって、げっぷをした。
「思っておる、だが。待たねばなるまい」
「待つとは、何を待つのですか?」
「初陣じゃよ」
「……」
善景は黙り込んだ。それは、彼自身考えなかったわけではなかった。
所詮、我々は武士である。どのように人をいつくしもうが、戦でかくたる働きをしてこそ、その価値が認められるのだ、と。
それは、今までの経験からいやというほど痛感していた。
「それまで、言わせておけい」
「ですが、あのままでは、家来どもの団結力が乱れかねません。皆が殿をあなどり、まともにお下知(命令)を聞くかどうか」
「それは、殿次第じゃ。それより」
じろっと、息子を睨む晴景。目じりのしわには、今まで乱世の世で生きてきた年月が刻まれているようであった。
「お下知は、聞いてもらうものではない。聞かせるものじゃ」
善景はなにも言わない。居室の中で、風がそよいだようだった。燭台の火が、揺らいだようだった。
第一章「夫婦雛」その二十
その鞠若子の輝虎は、今日も十兵衛を相手に木刀を振るう。
だが、今までと違うのは、決して木刀をかなぐり捨てたりしないことだった。
「よいですかな、十兵衛に勝ちたければ……」
決して武器を捨てぬことだ、と晴景が教えたのだ。
むしろ、十兵衛に木刀を捨てさせるような気構えでゆけ、とも教えた。これが、以外に効果てきめんであった。
お互い木刀をぶつけながら。
―や……。―
と、十兵衛は異変に気付いた。輝虎は決して木刀を捨てようとしない、ひたすら打ってくる。隙だらけでところどころにアザをつけてやったものの。
すこしあせった。
―はて、いつもなら……。―
木刀をかなぐり捨ててつかみかかってくるのが、この鞠若子の殿様は、すこしはやり方を心得たようだ、と。内心感心してもいた。
「もういいでしょう。今日はこれまで」
いつになく穏やかな物言いで、稽古が終わった。さすがに、指南役が先に木刀を捨てるわけにもいかない。
ただそれだけのことだった。それが、大きかった。
「おれは殿をあなどっていたようでござるわ」
稽古を終え、輝虎とわかれた十兵衛は、井戸端で井戸水を飲みながら同僚の善景に言った。
「あなどっていた?」
「お、いやいや。そう怪訝な顔をするでない。なに、あの鞠若子殿もすこしはやり方を心得たようでござる」
鞠若子、その言葉が十兵衛からも出た、善景を前にして。それがどういう意味か。みんな、輝虎のことをそう思っていると、思っているのだろうし。また、善景もそうだろうと。
何より、幼い頃から兄弟のように接していた十兵衛ですら、そんなことを。と思うと、心中穏やかではなかった
十兵衛は同僚が眉をひそめるのを見止めて、少しぎくっとした。
「あきれたものだ」
「なにがでござる」
「むしろ、それはおぬしがもっと早く教えねばならんことだ。おぬし、今の今まで、何を教えてきたのか」
「い、いや。それは……」
「あと二、三年もすれば初陣にゆかねばならん。その時に、初陣首を取られたら、それはだれのせいだ」
「……」
何もいえなかった。武道の指南役は、年も近く幼い頃よりともに遊んだ十兵衛に任されている。それが、最近まで稽古以前の大喧嘩をやらかしていたのだ。
まさか、本番でもそうしろというわけでもないだろうに。
「憎いか?」
咄嗟に、十兵衛はわからなかった。憎いか、とは。
「太郎左衛門殿をお討ちになった家成公が憎いかと、聞いておる。また、その家成公の娘婿になられた殿も憎いか。鞠若子など、おぬましでそう言うのか」
「よ、善景殿」
「ならば」
「どうか、その先を言うのはご勘弁くだされ」
「殿の首と、姫の首をはねればよい、そして、津川家の旗を立てればよい」
「……」
いよいよ、十兵衛は黙り込んだ。輝虎と雪姫の首をはね、反逆せよとは、善景も似合わず怖い事を言う。それは、自身が一番感じていた。
「それが、太郎左衛門殿のお望みであることならば」
「ちがう」
必死になって、十兵衛は声を絞り出した。この、豪気な若者がそこまでうろたえるのは、珍しいことだった。
「親父は、親父はただ殿のために……」
ぶつぶつ念仏を唱えるような喋り方になって、さすがにこのときになって、善景は十兵衛が哀れになってきた。
続く