第三章 赤日 頁四
第三章「赤日」その三十一
輝虎は槍を振るう。
槍が一閃するたび、返り血をあびる。
砂塵が舞い、その中でけたたましい刀槍の音、人馬の声が空を揺るがし、震わせ。それに人の心も振るわされて。
皆、必死の形相で戦っていた。
城を獲るために。未来のために。
菖蒲の旗が、砂塵の中を駆け抜けた
騎馬武者が、輝虎に突っかかってきた。
「いざ」
と一騎打ちを申し出。
「応」
という応えがあがった途端に、討ち取られてしまった。主人をなくした馬が乱戦の中消えてゆくのも構わず。
―大将はどこだ。―
と、しきりに大将をもとめる。雑魚などいくら討ったところで意味はない。戦は大将を討ってこそ勝てるものだ。
「御大将はいずこにあるか。われは大高輝虎なり」
と大声をあげた。その叫びが相手に聞こえ、さっきの騎馬武者のように出てくるのではないかという期待を込めて。
だが、なかなか見つけられなかった。
庄介は十兵衛と激しく槍をぶつけあっている真っ只中だった。
輝虎と並んで一番槍を競いあって、それから乱戦の中はぐれはぐれになってしまった。
十兵衛も輝虎に負けじと槍を振るい。振るううちに、庄介とばったりでくわし、とっさのことにお互い名乗りも忘れて、相手が誰かわからぬまま、そのまま一騎打ちとなった。
「ぬしゃあ、できるな」
と庄介が叫べば。
「おぬしこそ」
と十兵衛も、槍をぶつけながら叫ぶ。お互いに、我知らず、顔がほころぶ。
―こりゃ楽しいわい。―
と、庄介と十兵衛は一騎打ちを楽しんでいた。庄介は、中村家には輝虎以外たいしたものはいないと思っていたが、なかなかどうして。他にも歯ごたえのあるやつがいるではないか。
十兵衛も、武士の性というものを、隠し切れなかった。所詮、そういう生き方をしてきた者なのだ。
―お凛の言うとおり、やっぱりおれは馬鹿なんだなあ。―
と、しみじみと思った。
実成も奮闘していた。輝虎や十兵衛ほどの戦働きができるわけではないが、実成は実成なりに、必死に戦っていた。
「押せ、押して押して、押しまくれ」
菖蒲の旗を横目に、声も大きく家来たちを鼓舞しながら、上手いとはいえぬ槍さばきで乱戦の中を駆け抜ける。
だが敵もさるもの、そうはさせじと押し返してくる。
それでも。
「ひるむな。押せ、押せ、押しまくれ」
と、なんとかのひとつ覚えのように「押せ」ばかり叫んだ。
聖通時は後ろに控え、大高と久遠の、両軍勢の働きを眺めていた。乱戦から少しはなれ、敵が近付けばそれを矢を放ち追い返す、というせこさであった。
通時にすれば、捨て駒の行く末を見届けるというのがこの戦での仕事だった。負けたとなれば、一目散に逃げるつもりだった。
正直、面倒くさいと思った。
しかし。
―おれは何をしている……。―
と、両軍勢の働きを見るうち、自分のしていることを考えるようになりはじめていた。
城を獲ろうと、皆戦っている。誰も後ろを振り向かず、鐘賀城へと向かい、たちはだかる金子庄介の軍勢とぶつかり、押しあいへしあい。
その中で、輝虎や十兵衛、実成は槍を振るう。
次第に、体が震えてくるのをおぼえた。
「ゆくか」
というと、配下のものに突撃の下知をくだした。皆と一緒に戦い、城を獲るのだ。
この「勝ち戦」で、自分だけ傍観していたなど、とても家成には言えない、と。
その攻防戦の報を、常光は諜者から聞いた。
現在中村側の軍勢が、城より打って出た金子庄介の軍勢とぶつかっている、と。
今いる場所は、鐘賀城より一里もない。率いる軍勢は、かき集められるだけ集めて、三千。それが、足踏みでもするかのように、鐘賀城より一里もない距離で、とどまっていた。
「ようし、いい塩梅だ」
と、采配を握る手に力がこもる。
―しくじるなよ、庄介。―
心配があるとすれば、あの荒い鼻息が名物の家来が、無闇に輝虎の首を狙わないかということだ。
下手にそんなことをしてくれたら田尾和孝の二の舞になりかねない、そうなれば、全てご破算だ。ここまで来て、そんな失敗は許されないのだ。この一戦で、中村家成との決着が着けられるのだ。
全ては、輝虎の首ひとつ。それを獲るために、城一つを犠牲にするのだから。
たとえ討ち損じても手は打ってある。
どう転ぼうとも、輝虎に壊滅的な打撃を与えられるのは、間違いない。
それを、輝虎は知らない。
城を獲ろうとひたすらに槍を振るう。
脳裏にお雪の姿が浮かぶ。赤ん坊を抱いていた。
その赤ん坊が、自分たちの子となるのは、いつの日であろうか。その日を迎えるためにはまず、目の前の城を獲らなければいけないのだ。
皆、一緒だった。自分たちの未来をかけて、城を獲ろうとしていた。押し返されても、押し返されても、ただひたすら押しまくって。
思えば十一の年、九つのお雪を妻として娶った。いや、娶らされた。
それが、今日の城獲りへとつながった。
―お雪……。―
歯を食いしばる。胸の中に広がる戦意。それは、言い換えれば殺意ともいえて。澱のように胸の中に降り積もる。
その気持ちのまま、槍の穂先を血に染めてゆき、自身は返り血を浴びる。
気がつけば、知らずに題目をあげていた。お雪も、今頃は同じように唱えているだろうか、と思った。はなればなれでも、互いが同じ題目をあげることで、心はつながっているような気がした。
「修羅」
誰かがそう言っているのが聞こえた。
輝虎がゆく。
槍を振るい、ゆく。
ゆく先々で、修羅という言葉を聞いた。何度も聞いた。
守らねばならぬものがある。そのために、修羅になり、修羅と呼ばれた。
それが、輝虎の生き方だった。
第三章「赤日」その三十二
城をめぐる戦はさらに激しさを増してきた。捨て駒とされた輝虎と実成らの必死の前進が、守る側の金子庄介の軍勢を押しつつあった。
十兵衛との一騎打ちを楽しんでいた庄介だが、次第に自分の兵たちが後ろへ後ろへと下がりつつあるのを感じ取った。
―強い。―
ただそれだけを思った。その時。
「十兵衛、それは大将か。おれによこせ!」
と、こっちにむかってまっしぐらに突っ込む若武者があった。若武者は突っ込みながら。
「わが名は大高輝虎」
といった。
―なに。―
その声が聞こえたか、十兵衛は庄介へ槍を繰り出しながら。
「おぬし、大将だったのか」
と問うた。
「おお、鐘賀城城主、金子庄介じゃ」
「なに、そうだったのか。おれは大高輝虎が家来、津川十兵衛」
と、ようやくにしてお互い名乗りを上げた。そうしている間にも、輝虎は近付く。途中それを妨げようとするものもあったが、すべて輝虎の槍で屠られてしまった。
まるで、竜巻にでも吹き飛ばされるように。
一騎打ちの最中、それをちゃんと見れたわけではないが、気迫はいやでも肌で感じ取ることが出来た。それこそ、その気迫がそのまま竜巻となってこっちにやってきているようだった。
「ええい、くそ」
と吐き捨てると、突然十兵衛から逃げ出した。予定通り、退却をするためであった。
「逃げるな」
と十兵衛と輝虎は一緒に言ったが。庄介は聞かず、引け、と言いながら遠ざかっていった。庄介の号令を聞いた兵たちも、敵兵にかまわず一目散に逃げ出した。
おのれ、と輝虎と十兵衛は庄介を追いかけようとするが、それを後ろから実成がとめる。
「それよりも城を」
と言う。
そうであった、と舌打ちをしながら、輝虎は城へと駆け出した。敵は逃げ出し、城へゆくのを妨げるものはいない。
人の背丈よりやや深めの空掘と、それなりに高い塀に囲まれた木造の屋形を目にし、それが自分たちのものになると思ったとき。
「やった!」
と、輝虎は吼えた。つられて十兵衛や他の者たちも、次々と「やった!」と吼えた。獲った、城を獲ったのだ。
心の中で雪解けがあって、春が訪れるような、会心の心地よさであった。
「獲った、獲ったぞ。あはは……、あっははははは!」
自分でも知らないうちに、そんなことを何度も何度も、吼えた。いつの間にか、えいえいおう、という勝ち鬨があがっていた。
「かっはっは。もう一本」
敵の敗走に、実成も珍しく上機嫌になり、勝ち鬨を家来たちにあげさせていた。よほどこの勝利が嬉しいのだろう。それもそうだ、もし城を獲れなかったら、もう自分たちは終わりだったのだから。
勝ち鬨を背に、逃げ出す敵兵たち。それを見送りながら、通時はごくりと唾を飲み込み。
「やりおった……」
とつぶやいた。
つぶやきながら、輝虎と十兵衛に出くわした。そうすれば、すぐさま馬を降り。
「申し訳ござらぬ」
と平伏する。
輝虎らは通時の様子に驚き、何事かと思った。
「それがし、輝虎どのをあなどり、よもや見事城を獲るなど思っていませんでした。ゆえに無礼な振る舞いをしてしまいました。面目次第もございません」
平伏しながら、これまでの非礼を詫びた。それを見た輝虎と十兵衛も馬を降り。
「何を言われる。それがし、そのようなことなどちっとも気にしておりませぬ。さあ、お顔をお上げください。ともに城へ参りましょう」
と、輝虎は通時の手をとっていった。十兵衛も続いてひざまずき、笑顔で、左様左様、と言っていた。
「輝虎どの……。かたじけない」
輝虎の優しさに、通時は人目もはばからず男泣きしていた。意外に情にもろい性格なのかもしれない。そんな通時を見て、輝虎は彼を見直した。
これからは実成と同様に、良き僚友となってくれるであろう。
「さあ、ゆくぞ」
と、馬に乗り、城に向う。十兵衛と通時と馬を並べて。やがて実成も同じように馬を並べて、城へ向った。後ろには家来たちが続き、皆笑顔であった。
和気藹々としていた。
城門前では、先に城門前に来ていた家来たちが数名詰め掛け、大将を待っていた。彼らは、なにか大声で話し合っている。
城を獲ったことに興奮し喜んでいるのであろう、と思った。しかし、近付くにつれ、様子がおかしいことに気がついた。
なぜ城を獲ったにもかかわらず、彼らは険しい顔をしているのだろうか。通時は、こんなめでたいときにどうしたと、不審に思い。
「何事だ」
と問えば。
「あ、殿。そ、それが、城の中にはひとっこひとりおりませぬ」
という応えがかえってきた。
第三章「赤日」その三十三
「なに」
家来の言葉に通時は、一瞬まさかと思った。しかし。
「まことでございます。ひとはおろか、米粒ひとつもありませぬ」
「そればかりか、門の閂もありませぬ」
次から次へと、耳を疑う言葉が、まるで噴き出すように出てくる。
輝虎と実成、十兵衛は顔を見合わせ。まさかと思いつつも、騎乗のまま家来たちをどかし、門をくぐった。そして、門の閂があろうかと思うところを見れば、確かに閂がない。止め金具も、中を通す大きな角材もない。あったと思われるところには、何かでえぐったような凹みがあった。ということは、取り外したということか。
これでは城の守りがままならぬではないか。そんな門の城を、金子庄介は守っていたのか。
いや、そんな馬鹿なことはありえない。
輝虎は、春を迎えたはずの胸の中に、また再び冬がおとずれようとしているような不吉さを感じ、とっさに馬を降りて槍を家来に預け、城に入り、中をぐるぐるとまわった。
「……」
一階をまわり、狭く急な階段を上り二階へと上がった。そこにも、なにもなかった。ただ、窓から空が見えた。空はにくらしいほど青く澄みわたり、雲やお天道様が気持ちよさそうに浮かんでいた。
何も言葉は出なかった。家来たちの言うとおり、城の中は空だった。ひとっこひとりもいない。
これは空の城ではないか。
しかしなぜ、城は空なのだろう。
十兵衛と実成が輝虎のもとまで来て、同じように絶句する。通時はうろたえはじめてきた家来たちを必死になだめていた。
そういうときに、余計なことを言うものがあるもので。
「城は空じゃというのか。ではこれは、空城の計というものではないか」
とか何とか言って、いらぬ知識の披露をしてくれる。
空城の計とは、あらかじめ空にした城をおとりとしておびき寄せて、奪わせて。敵が奪いとった城の異変に気付き狼狽するその隙をついて急襲し、城もろとも攻め滅ぼす策のことである。
「余計なことを言うな」
通時が、いらぬ知識の披露をしたものを殴りつけ黙らせる。だが時すでに遅し。
「これは敵の策なのか」
城に詰め掛けた兵たちの動揺は、一気に広がった。大将にだけこっそりといってくれれば、また対応のしようもあったろうが、まったく下手に物知りなものほどタチが悪いものはない。
おかげで、勝利の喜びから一変、どん底に突き落とされたような失望感が城の中に広がっていた。まさにこれこそが、常光の狙いであった。
「うろたえるな。お屋形様への使いを出せ。援軍が来るまで、持ちこたえるのだ」
だが策とわかって踏みとどまろうとするものはほとんどなく、我先にと閂のない門をくぐって数名が逃げ出した。
「逃げるな」
と太刀を振りまわしながら、門の真ん中で仁王立ちするが、効果はなかった。皆弾かれるように、通時の太刀をかわしながら逃げ出した。
そうしているうちに、輝虎らが門まで戻ってきた。
輝虎は、預けた槍が地に横たわるのを見て、呆然としていた。
それから、遠くで鬨の声がするのを聞いた。と思うと、逃げ出したものたちが城へととんぼ返りに帰ってきた。
それがなにを意味するのか。
言うまでもない、綾山常光率いる三千余の軍勢が、鐘賀城目掛けて突き進んでいるというこであった。
その中に、さきほど逃げ出した金子庄介もいた。
「どうじゃ、輝虎は強かったろう」
という常光に返す言葉もなかった。
城から少し離れた場所で、諜者が戦の様子を見、庄介が逃げ出すと同時に馬を駆って一足先に常光に知らせに行った。
諜者から知らせを聞いた常光は、ついに三千の軍勢を動かした。動かして、逃げてきた庄介の軍勢と合流した。
庄介は合流とともに、かつて自分が城主をつとめていた城を攻め落とそうとしていた。
三千余の兵がひと塊に、城に向っている。それは大きな黒い化け物が地を這って向ってきているようだった。
その様が、城から見える。
見張り台の立つものが。
「来た」
と叫んだ。叫び声は恐怖に震えていた。三千余の軍勢、地を這う大きな黒い化け物は翼を広げるようにして左右に広がってゆき、城を取り囲もうとしている。逃げ道も塞いでゆく。これでは逃げ出すことは不可能に思えた。
「うろたえるな。門を閉めろ。守りを固めろ」
通時が叫ぶ。なんということだ、と苦虫を噛み潰した顔をする。自分の軍勢の兵たちは、一応は通時の言うことは聞くが、三千という大軍に恐れおののき、戦意を喪失していた。皆おびえ、うろたえ、全身をがたがたと震わせていた。
中には城の屋内へと逃げ込み、猫のように身を縮めているものもあった。しかし、そんなことをしても何の意味があろう。もはやそれすら思いも及ばない。
謀られた。すべては、常光の手のひらの上で踊らされていたのだ。
その時。
「な、なんじゃあれは」
と、空を指差すもの。
その声に、皆空を見上げ、顔色を失った。
空が赤く染まろうとしていた。
まるで死んだものたちの血を吸ったかのように、お天道様がまず赤く染まった。それに続いて、血をしたたらせたかのようにして、空が赤く染まってゆくではないか。
無論下界までもが、赤い空と同じように、何もかもが赤く染まっていった。まるで地獄が降りてきたかのように思われた。
それは錯覚ではなかった。皆、空を指差し。
「空が……」
と足を止め、絶句する。ひとり、ふたり、それから次々と、足を止めるものが続いた。何かよからぬことでもあるのか、なんぞ天魔の仕業なのか。庄介までもが、空を見上げ馬を止めた。
赤い空に怯えて、三千余の軍勢の足取りが鈍くなる。
「……」
さすがの常光も、これには怖気を感じずにいられなかった。皆の言うとおり何かよからぬことの兆しなのか。このまま攻め入ってよいものか、どうか。
「天が泣いている」
ぽそっと、常光はつぶやいた。今の世、この戦国乱世を、天が嘆いているのか。これからおこなわれようとすることに、天は泣いているのか。
先に天に昇ったものたちの血が、そのまま天の涙となって、空を濡らしたというのか。
あまりの空の不気味さに、引き返そうか、という気持ちが沸き起ころうとしたが。ふと脳裏によぎる輝虎の瞳。その瞳の奥にあるもの。常光は歯を食いしばって、それから。
「なにをしている、止まるな、ゆけ、ゆかぬか」
と叫んだ。言うまでもない、家来たちは空が不吉と戸惑った。
「不吉は向こうとて同じことではないか。ならば、いっそ我らがその不吉になって、あやつらを葬り去ってやろうではないか」
馬上より家来たちに向って、そう、ひたすらに吼えた。ここでやめるわけにはいかないのだ。ここでやめれば、戦はまだまだ続く。それを終わらせるために、まずは輝虎の首を獲るのではないか。そのために、城一つを犠牲して策に陥れたのではないか。
「思い出せ、今までの中村家成の所業を、輝虎の修羅のごとき働きを。またあやつらに好き放題させたいのか」
それを聞いた家来たちはお互いに顔を見合わせて、次に常光を見て、「応」とこたえた。
そのとおりだ、ここで空の赤日におびえ逃げ出してしまうことは、中村家成の軍勢を助けることになってしまう。
中村家成のせいで、どれほどのものたちが無念の涙を呑んだのか、どれほどの血が流されたのか。そしてその手先となる娘婿の輝虎を生かしておけば、これからもまた修羅のごとき働きをして、我らを苦しめるであろう、と。
皆、己自身を空のような不吉として、城のものたちを葬り去ろうと、止まりかけた足をまた進めはじめた。
第三章「赤日」その三十四
輝虎は動かなかった。周りが恐怖の色に染まり、乱れに乱れて、がたがたと震えながら応戦しようとするのも気にもとめなかった。
―今までおれのやってきたことは、なんだったんだろう。―
何のために戦ってきたのだろう。何のために、この身を血に染めてきたのだろう。お雪を妻として迎えて、お雪の悲しみを振り切って、結局はこんなことのためだったのか。
空が赤く染まっている。ただぼんやりと眺めることしか出来なかった。今まで自分が殺してきたものたちの血が、空を染めあげたようだった。
その赤い空が、綾山常光の軍勢を呼び寄せたような思いがした。
「輝虎どの、輝虎どの」
「殿、殿」
実成と十兵衛が互いに輝虎の肩をゆすりながら、大声で叫ぶ。そこでやっと、我に帰る輝虎。
「ああ……」
とだけ応えた。
実成と十兵衛は、呆けた輝虎に苛立ちながら、必死の形相でいった。
「逃げましょう」
「逃げる?」
どうやって?
小城に篭るたった五百弱の軍勢でもって、どうやって三千余の軍勢から逃げようというのか。
それ以前に、よくこんな状況で己を保てるものだ、とそんな変なことに気付いた。
「我らが血路を開きます」
その言葉を聞いてもしばらく呆けて、それから、その言葉の意味を理解して。そこでやっと、はっとして。
「血路? 血路を開くとはどういうことだ」
「言うまでもない、我らが殿のために逃げ道をつくるのです」
「何を……」
何を言うのかと思えば、それは、輝虎のために実成と十兵衛が死ぬことにはならないのか。と思えば、実成は、いつもの実成らしいお人好しそうな顔に戻って。
「それがしは、一度ならず二度までも輝虎どのにこの命を助けてもらった。その命、今度は輝虎どののために使わせてくだされ」
「馬鹿な」
自分のために死ぬ。それは善景でたくさんだ、と思っていた。なのに、次は実成がそうなるというではないか。輝虎は首を横に振り。
「そのようなことを申されるな。死ぬのであれば、ともに」
もう助からないと思っている。今までのことを思えば、是非もないと思っていた。
「殿、実成どのだけでなく、それがしもでござるぞ」
と十兵衛がいった。彼もまた輝虎のために死ぬという。なぜ十兵衛までもそんなことを、と思えば。
「それがしは殿の家来でござるでな。家来が殿のために命をなげうつことのどこに、不思議がござる」
などということをさらりと言うではないか。
そうこうしているうちに、敵は迫ってくる。鬨の声が、馬蹄の音が、だんだんと大きくなってくる。それにつられるようにして、地が、空が揺れはじめてくる。
「嫁をもらわなくて、……いや、もらえなくて、よかったでござるよ」
十兵衛は可笑しそうに言いながら、地に横たわっていた輝虎の槍を拾って、輝虎に差し出す。
「馬鹿な、馬鹿な」
輝虎はそればかり繰り返す。自分は、そこまでしてもらうほどのものなのか。どうして自分のために人が死ななければいけないのか。
守るために、戦ってきた。それなのに。
「もうよいのでござるよ。我ら、輝虎どのには、死んでほしくないのでござるよ」
「そうじゃそうじゃ」
ふたりとも、笑顔でそういった。とはいえ、輝虎としては合点がいかない。なら、死なないにしても、それからどう生きろというのだ。
「己が一番の大事とするもののために、生きればよろしゅうござる。それが、我らの望みでござる。それでも聞かぬというのであれば、また、輝虎どのを殴らねばならぬ」
何もいえなかった。
十兵衛から槍を受け取った。それから、数十本の矢が高塀を飛び越えてきた。悲鳴が聞こえた。もう戦にならぬことは、周りを見ればよくわかった。
―もはやこれまで。―
実成と十兵衛は、全ての終わりがやって来るのを本能的に察していた。そこから輝虎を逃がせるかどうか、残りの命を、全てそれに賭ける。
「輝虎どの、実成どの」
と通時が三人に割って入ってきた。気がつけば他にさらに、数十人の心ある家来が、三人を取り囲んでいた。彼らもまた。
「我らが血路を開きますゆえ、そこよりお逃げなされよ」
というではないか。さらに通時まで。
「もうこの城はだめですな。なら、せめて輝虎どのに逃げていただくよりほかはなし、ということで。お願いでござる、どうかせめてもの償いをさせてくだされ。お屋形さまなのことなど、もうよいのじゃよ」
と頭を下げた。その愚慮から勇将を捨て駒にし、挙句にこのような馬鹿馬鹿しいことを迎えてしまって。通時は、家成の主としての素質に、今になって気がついた。そんなもののために死ぬのはごめんだ、しかし、助かりそうにない。なら、このままむざむざと死ぬのではなく、男として、武士として、命を賭けるに値するもののために、戦って死んでいきたかった。
そこまでいわれて、頑固に死ぬといえなくなってしまって。輝虎は黙って頷くしかなかった。
「ゆくぞ」
実成が吼えた。十兵衛も、通時も、心ある家来たちも。
「いざ」
と馬にまたがり、輝虎も慌ててそれに続けば、突然どんと門が開いた。ついに攻め手がやってきたのだ。城のものたちを皆殺しにしようと、皆鬼のような形相をしていた。
城門だけではない、三千余の兵は城を四方八方に取り囲み、空掘に丸太の橋を架け、高塀を取り壊し、次から次へと鼠が群がるがごとくに城へと押し寄せてきた。
実成と十兵衛、通時らは輝虎を取り囲み、まずは城門より出ようと次々と潮のように押し寄せる敵兵を槍で突き伏せていた。
「ええい、どけどけ!」
通時みずから先頭に立ち、城門への道を切り開こうと槍を振るった。それに輝虎らが続く。
その働きが功を奏し、やっとのことで城門をくぐったが、目の前にはまだまだ敵兵が満ち溢れていた。通時もさすがに一瞬ひるんだ、怖くないと言えばうそになる、しかし覚悟を決め満ち溢れる敵兵の中に身を投じた。
「通時どの」
続きながら輝虎は叫んだが、その叫び声は届かなかった。通時はただひたすらに槍を振るっていた。
頭上では矢が、火矢が、飛び交っていた。
城の高塀の中では、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開された。
ところどころで悲鳴があがっていた。
城のものたちは必死の抵抗をこころみるが、いかんせん、多勢に無勢、話にならなかった。
戦にもならかなかった。
容赦はなかった。今まで苦しめられた恨みが満ち溢れていた。
その恨み凄まじく、多勢をたのみにひとりを数人で取り囲み、まるで芋を串でさすかのように槍で突き、大根を切るかのように太刀で斬り殺す。
城に雪崩れ込んだ綾山の軍勢によって、そんな、一方的な殺戮が繰り広げられていた。
血が飛び散り、屍の山と血の川が出来。火矢により、火の手もあがっていた。
城の中では、天井から、上の階で死んだものたちの血が板の継ぎ目から滴り落ちる。そして、その下にあるなきがらにも滴り落ちる。
見張り台のものも、いつの間にか矢でハリネズミにされていて、息絶えていた。丸太の囲いによりかかり、だらんと上半身を垂れ下げていた。と思ったら、頭の重みでずり落ち、仲間のなきがらの上に落ちてきた。
それを、火が包もうとする。
その下界の様を、血の涙で空を染め上げたような赤日が見下ろしていた。
第三章「赤日」その三十五
輝虎は城の中がどうなっているかを思いながらも、後ろを振り返らずに、通時らに囲まれながら馬を走らせた。
「どうして、どうして」
こんなことになったのか。
まわりは、なにもかもが赤くなっていた。
それこそ自分たちは、地獄の真っ只中にいるように思われた。
―おれは、今まで何をしてきたのだ。―
今までしてきたことは、地獄に堕ちることだったのか。ただ、守るもののために戦ってきたのに。それが、地獄に堕ちることだったというのか。
「ぼやぼやするな!」
叫ばれて、はっと我に帰った。それで、そう叫んだのは十兵衛であることに気付き、その方を向いた。
返り血を浴びて、顔中赤く染まっていた。それよりも、家来が主に、ぼやぼやするな、とは。しかし十兵衛はかまわず。
「何も考えるな。ただ逃げることだけをせんかい」
とまた一喝した。
気がつけば、綾山の軍勢の中へ、かなり奥深く入り込んでいた。付き従うものの数も減った。その中で特に戦下手な実成はところどころに傷を負い、息も絶え絶えで、それでもなんとか必死になって輝虎のそばにいた。
四方を取り囲まれて、無論後ろからも追われて。
―十兵衛。―
何もいえなかった。ぽかんとその顔を見、その言葉遣いに、彼なりの必死さを思った。そうすれば十兵衛は、可笑しそうに笑った。
「ははっ」
と笑った。
城獲りの戦の前にも笑っていた。
―ここまで来たら、泣いても仕方ないじゃないか。―
泣いて今までのことがなかったことになるなら、いくらでも泣こう。でも、そうはならない。なら、笑ってゆこうではないか。
我らは、武士なのだから。
輝虎は歯を食いしばり、前に向きなおり十兵衛の言うとおりひたすら前へ前へと突き進んだ。壁のように立ちはだかる敵兵たち。それをなぎ倒しながら、ひたすらに前へ、前へ、と。そしてそのたびに、付き従うものたちは減っていった。
最初鐘賀城を守っていた金子庄介が、輝虎らが城から飛び出すのを見て。
「卑怯」
と叫んだ。大将ともあろうものが、悪あがきか、見苦しい、という軽蔑の念が起こった。が、しかし。
「いやまて、さっきのあやつもおるではないか」
と、途端に嬉々として、十兵衛めがけて突っ込んでゆく。よほど先の一騎打ちが楽しかったのであろう。
「おい、さっきの続きじゃ続きじゃ」
と鼻息荒く変なことを叫んでいる。
それに気付いた十兵衛は、先に一騎打ちをした武者が迫ってくるのを見たが、今はそれどころではない。邪魔そうに苦々しく舌打ちをし。
「あと、あと」
と、しっしと槍を振る。
だがそれで素直に「はい」という庄介ではなく。続きじゃ続きじゃと叫びながら、しつこく迫ってくる。言うまでもない、迫るのは庄介ひとりではない、その配下のものたちも迫ってくる。
まったく仕方ないといいたげに。
「殿、それでは、ごめん」
と馬首を返し、庄介のもとへと向かう。
「十兵衛、よせ、相手にするな」
輝虎は叫ぶが、十兵衛は聞かない。そのまま突っ込み、槍をぶつけ合う。槍をぶつけ合うふたりを囲む人の壁。
その人の壁は十兵衛を押し囲み、押し潰そうとする。
「十兵衛」
輝虎のその声は届かず、かすかに、十兵衛が槍を振るっているのが見えた。庄介自身は一騎打ちでいきたいだろうが、他のものたちの今まで積もりに積もった恨みが、それを許すわけもなく。
手を出すな、こやつはわしの獲物じゃ、という庄介のいうことなど聞かれなかった。
―しまった。―
と思っても後の祭り、庄介と十兵衛の間に出来た人の壁は厚みを増し、ふたりをさえぎる。
「どうせこんなことになると思ったわい」
と庄介に毒づきながら、十兵衛は槍を振るう。まったく馬鹿を相手にするとろくなことがない。と思ったが、また同じように自分も同じ類のものではないか。今まで何度馬鹿と呼ばれたことであろうか。特にお凛のやつに。
―ほんとに、あいつの言うとおりだなあ。―
それがなんだか可笑しくて、思わず笑みがこぼれた。自分には似合いの終わり方ではないか。
「是非もない」
笑って、そう叫んだ。
叫びながら、押し寄せる人の壁の中に埋もれていった。庄介は、それをただじっと眺めてゆくことしか出来なくて、得意の荒い鼻息も、出なかった。
第三章「赤日」その三十六
「十兵衛、やめろ、十兵衛!」
輝虎は思わず馬首を返そうとしたら、傷だらけで息も絶え絶えなはずの実成が。
「十兵衛を犬死にさせたいのか」
といって、輝虎の馬の手綱をとった。
実成に曳かれ(ひかれ)ながら、何度も何度も後ろを振り返った。時折十兵衛の槍が遠目に見えていたが、やがては、その槍は見えなくなっていった。
そう思ったら、今度は前の通時が、脇に槍を食らってしまった。
「おのれ」
と言いながら、脇の槍を左の手で握ったまま、相手を自分の槍で突き返す。しかし、かなり奥深くまで刺さったようで、口から血を吐いた。
「いやこれは、はしたないところを見せてしまったな」
口のまわりを赤くしながらそういい、刺さった槍を抜き。
「実成どの、あとは頼みましたぞ」
といいながら、十兵衛と同じように笑いながらさらに前へとまっしぐらに進み、前方の敵兵の中へと消えていった。そうすれば、道が開かれた。しかし道が開くとともに通時は馬から転げ落ちていて、ぴくりとも動かなかった。
後は、知らない。
輝虎は実成に曳かれながら、残リ少ない心ある家来たちに囲まれて、綾山の軍勢の中を突っ切っていった。
そのことは常光も知っていた。自分たちが取り囲む鐘賀城から輝虎らが飛び出し、この軍勢の中を突っ切って逃げようとしていることを。
「なんと」
それだけだった。それ以上のことはいわなかった。
いう必要もない。それに対しどうするかは、おのずと家来たちが実行するだろうから。
ただ、空を見上げた。
城は燃え出して、その煙が赤い空へと昇っていこうとしていた。
―天よ、我を許さずともよい。閻魔の裁きを受けるのも、やむなし。―
理由はどうあれ、自分の判断で、どのくらいのものたちが死んだのであろう。自分の判断で、どのくらいのものたちを殺したのか。
殺したものたちは、皆が皆中村家成のようなひとでなしというわけではないのだ。
そのひとでなしを殺すために、そうでないもまでも殺さねばならない。
常光は、やがては己も天に昇ることを思いながら、歯を食いしばり、拳を握り締めた。
そんな常光の心など知らず、いつの間にか輝虎は遮二無二に槍を振るっていた。いつまでも実成が手綱を曳くわけにもいかず、なかばやけになって、槍を振るっていた。
「修羅」
という言葉が、また聞こえた。いい加減その言葉も聞き飽きたものだ。
―逃げる修羅などあるものかよ。―
自嘲的にそう思いながら、大高の郷のことをも思っていた。
こうなれば、何としても大高の郷へと逃げ延びて、そこで再び軍を整えなおし、死んだものたちの弔い合戦をするのだ。
それだけを考えて、槍を振るった。
後先のことなどまで、考えが及ぶわけもなく。お雪のことすら、今は何も思わなかった。
「輝虎どの、もうひとふんばりでござる」
と実成が叫べば。
「待っておれ、待っておれよ」
必ずや弔い合戦をせんと、赤い天に昇ったであろう十兵衛と通時に、槍を振るいながら輝虎はそう叫んだ。それを聞いた実成は、てっきり大高の郷で待つ妻の雪の方に言っているのであろうと思い。
「その意気でござる。それでこそ、それがしも励み甲斐があるというもの」
と笑顔でいった。
いいながら、馬から崩れ落ちた。すでに体の数箇所に傷を負い、甲冑もぼろぼろになり、息も絶え絶えであったのだ。それでも実成は気力を振り絞り戦い続けて、輝虎がやっと生き延びようとする気になったことに安堵して、気が抜けたのであろう。
―もうよいかな。借りも返せたようであるし。―
敵が首を獲ろうとしている。しかし、何も気にならず。なぜか安らぎを覚えて、そのまま眠るようにして、実成は瞳を閉じた。
第三章「赤日」その三十七
お雪が目を開いた時、あたりは夕焼けの赤に染まっていた。
手にもつ数珠を握り締め、辺りを見回し、それから本尊を見た。仏壇の中、一枚の紙にえがかれた御文が、浮かび上がるようにして見えた。
その御文は、宗祖の魂を墨に染め流し書いた御文であるという。
その御文を眺めて、自分の腹に手をやり、ため息をつく。
それから、題目を唱えていた。
時間が経つのも忘れ、ひたすらに題目を唱え続けていた。
もう城には、誰もいない。なきがらとなったお藤を除いて、誰もいない……。
いや、いる。自分の中に、もうひとりいる。
そう思うと、胸の中からこみ上げてくるものがあり、次から次へと湧き出るようにして題目を唱える声が出た。
そうしていると、本尊を通して、輝虎の姿が見えてきそうだった。
お雪は、題目を唱え続けていた。
輝虎がこの城に帰ってくることを信じて。
その輝虎はというと、自分でもどこをどうやって走ったのかわからないまま、馬を駆って郷を目指していた。どうやってあの中を突っ切ったのかも、覚えていなかった。実成が死んでから、我武者羅に槍を振るい、やがて目の前が真っ白になって。
気がつけば、自分ひとり。
城から出て、家来の津川十兵衛が、僚友の久遠実成と聖通時が、死んだ。
自分のために、どれほどのものたちが、死んだのか。
その中で、ただひとつ覚えているもの。赤い空に昇る煙。
それは、皆が煙になって赤い空に昇るように思えた。
「……」
何かをぶつぶつとつぶやいていた。
それはお雪が唱えている題目であった。気がつけば唱えていた、それが何度あったのだろうか。
中天にあった赤日は傾きはじめ、山の中に身を沈めようとしている。
影が伸びている。
その影を見た。ほっそりとしていて、頼りなく秋の終わりのすすきのように頭を垂れている。
「修羅か」
輝虎は、寂しそうに笑った。
影は人を映すという。なら、このほっそりと頼りなく伸びたすすきのような影のどこが、修羅なのか。戦に敗れた敗者そのものではないか。
「おれが修羅なものかよ」
ぽそっとつぶやいた。
それでも歯を食いしばり。
「いや、待っておれ、待っておれよ」
という。
何としても郷に帰り着き、死んだものたちの弔い合戦をするのだ。もう、父君のことなどどうでもよい。どうせこの敗戦で許してはもらえないだろうから。
勝敗もどうでもよい。合戦が出来ればよかった、そこで死のうと思った。
それで、お雪はどうするのか。
いや、考えるな、と首を横に振った。女のことなど考えても始まらない。女子供は女子供で、自分たちでどうにかするだろう。
今の輝虎を支えているのは、死んだものたちへの弔いの気持ちだった。それを、弔い合戦という形にしてあらわすことしか、考えが及ばなかった。
やがて陽が落ちた。赤日によって赤く染まった景色が、闇に包まれていった。
その闇から、題目を唱える声だけが、響いていた。
第三章「赤日」その三十八
城の有様を見た常光は、何も言わず口をつぐんで。首を横に振った。
空の赤日はすでに山に沈み、あたりには夜の帳が落ちていた。かがり火を焚いて、自分たちが攻めた城を照らし出す。
かがり火は闇を払い、光を灯し。城のまわりはまるで昼のように明るかった。
その光によって、闇から浮かび上がる焼けた城。骨組みをあらわにして、ところどころが黒く焼け焦げた無残な姿をさらす。
まるで城が食い散らかされたかのようだった。
かつては自分のものだったこの焼けこげた城を、庄介は魂が抜けたような目で見つめていた。
やがては建て替えられるとはいえ、死者が吐き出されるようにして次から次へと運び出されるのを見て、もうこの城はいらない、どこか他の城をくれと常光にお願いしようかと思った。
庄介とて武士である、死というものを恐れてはいない。しかし、戦というにはあまりにも一方的な殺戮がこの城の中で繰り広げられたことを思うと、またこの城に住もうとはとても思えなかった。
ここで死んだものたちの世話は、自分には荷が重過ぎる。
それから、敵味方の区分なく、死んだものたちは丁重に弔われた。死者の大部分は、中村側の兵たちである。
大きな穴を掘らせ、そこに死んだものたちを埋めて、木で作った急ごしらえの墓碑を立てて。その作業中、ずっと従軍の僧らに読経をさせていた。
軍勢三千余のものたちは、常光の死んだ敵兵への弔いように首をかしげていた。かつて自分たちを苦しめていたものたちである、それでなんでこんなに丁重に弔うのかと。
その中で少しでもその心情を察したものは。
「常光様はお優しすぎるお人なのだ」
と、そのお優しいお人が戦で号令せねばならなかったことに、密かに涙した。
死者を弔う作業を見守っていた常光だが、輝虎のなきがらがないことが気がかりだった。どう探しても、輝虎のなきがらがないという。
家来の十兵衛、僚友の実成と通時のなきがらはあったというのに、輝虎はいない。ということは、逃げ切ったということか。
それに対し。
「あやつは修羅どころか畜生以下の卑怯ものでございますな」
と輝虎を非難する声もあった。地獄の餓鬼さながら、たくさんの人の死と引き換えにしてもまだ生を貪るのか、と。
―それは違うだろうな。―
常光はひとり思っていた。
もし自分が輝虎の家来か僚友なら、命を賭けても彼を助けたくなったろう。それだけの価値はある男だ。おそらく、彼らは命がけ、いや己の命と引き換えにして、輝虎を逃がしたのだろう。
輝虎も、その意志を酌んで、逃げ切ったに違いない。
なぜか確信的にそう思う自分が不思議でもあったが、それを思うと、あの時、一騎打ちをした時に見た輝虎の瞳を思わずにはいられなかった。
一点の濁りもない、とても澄んだ瞳だった。その瞳の奥に秘めたもの。
「夫婦雛か」
ぽそっと、つぶやいた。
―もしかすると、ほんとうに助けたかったのは……。―
妻である雪の方は、今自分の瞳に何を映し出しているのだろうか。きっと、雪の方の瞳も、輝虎と同じように、とても澄んだものに違いない。
ため息をつき、光の届かない闇の向こうへと思いを馳せる。
「ゆかねばなるまいか」
大高の郷へ。三千余の軍勢を率いて。
第三章「赤日」その三十九
どれくらい時が経ったのか、走ったのか、わからない。
地獄が降りてきたかと思うほど空が赤く染まって、それから今は、大高の郷にいる自分がいた。
それほど離れていたわけでもないのに、何故か懐かしい景色。
「帰ってきた」
そういった途端、どこか異変を感じた。
人の気配がないのだ。
郷の人々の気配が、まったくなかった。
どういうことだと、郷の家々を一軒一軒まわってみれば、誰もいない。郷の家や家来の邸宅すべてが、もぬけの殻だった。
無論、氏清晴景の邸宅も空だった。
「……」
輝虎は呆然としている。そこに、晴景や八重、千丸がいなくてはいないのに、どうしていないのか。
空の城を掴まされて、それで必死の思いで郷に帰ってきてみれば、郷もまた空、とは。
「お雪」
お雪はどうなっただろうか。心が異様に騒ぎ、飛ぶようにして城へと急いだ。空の郷にあって、知らないうちに、自分がどこか別の世界に飛ばされたような錯角さえ覚えかねなかった。
もしかしたら、お雪すらいないのではないか、と。
山の坂道を登り、城の門まで来て、馬から飛び降りた。それから、鬱陶しそうに兜を地に投げ捨てる。体が震えていた。城に入るのが怖かった。
城もまた、人の気配がなかった。
馬は、輝虎が降りると崩れるようにして倒れた。あっと思って馬を見たが、もう息がなかった。馬もやはり傷だらけで、輝虎に鞭打たれ命を削りながらここまで走ったのだ。
これでまた、自分のために、またひとつ死が積み重ねられた。
それから目をそらし、意を決して城に入れば、廊下になにか着物をかぶせられたものが置かれてあった。その着物はお雪のものだった。
「お雪」
慌ててその着物を掴み、引き剥がせば、斬り殺されたお藤のなきがらがあらわれたではないか。
「……」
絶句し、着物を掴んだまま、後ろへ下がる。背が壁に当たった。
するりと力が抜け、着物が手から滑り落ちる。
「お、お藤」
その名をつぶやくも、応えはなく、ただ瞳を閉じて横たわるのみだった。なぜお藤が斬り殺されて、お雪の着物をかぶせられているのだろうか。
「お雪。どこだ、お雪」
声を荒げて、妻の名を呼んだ。鐘賀城を回ったとき以上の恐怖が、胸をかき乱した。それこそほんとうに、気が狂いそうだった。
―おれは無間地獄に堕ちてしまったのか。―
いけどもいけども、何もない。死だけが積み重ねられた空の世界に、放り込まれてしまったのか。
その時、耳にそっと触れる声。
「あれは」
と声の方を向いた。
それは、お雪の題目を唱える声だった。仏間からしていた。
まさに地獄に仏と、声の方へと走れば、確かに仏間にお雪がいた。
数珠を持つ手を合わせ、本尊に向い題目を唱えていたお雪がいた。
輝虎に気付いたお雪は、唱題を中断し。
「お帰りなさいませ」
と指を畳について頭を下げた。
第三章「赤日」その四十
輝虎は力なく座り込み、力なく頭を垂れていた。お雪は正座し、頭を垂れる自分の夫を静かに見つめていた。
お互いにこれまでのことを話し、それから、沈黙。仏間はしんと静まりかえる。
空気はよどみ、二人の肩に重くのしかかるようだった。のしかかられて苦しいのか、輝虎の肩がぶるぶると震え始め、ぎゅっと拳を握り締めたかと思うと。
「あれは大糞をたれたのだ。屁は風に飛ばされれば終わりだが、糞は肥やしになる。あやつは、その大糞をたれたのだ。それに比べれば、おれの義など屁のようなものだ、ということだ。同じ尻の穴から出すなら、屁よりも糞ということだ」
と、晴景と自分自身を口汚く罵った。
よもや晴景に裏切られようとは。それもまた綾山常光の差し金だというではないか。
空の城を掴まされ、その間に郷も空にされて。
それほどまでにおれは憎まれていたのかと、やるせない気持ちになる。でも、それだけの働きをした。
「この日のために、おれは身命を投げうって戦ってきたというのか。このために、みんな死んだというのか」
郷に帰って、弔い合戦を、と思っていたが。この有様でそれは無理だった。
なんのために、なんのために戦ってきたのだろう。
義のために、といった。しかし、それで得られたものはなかった。それどころか、全てを失った、と思った。
輝虎は、拳を床に叩きつけた。本尊は、お雪はそれを何も言わずに静かに見守っていた。一通り荒れてから、やがて輝虎が静まると、お雪は静かにいった。
「もうよろしいではありませんか。今までのことは夢でございます、夢でございました。これからは、これからの明日を生きてゆこうではありませんか」
「ばかな」
何を寝言を言っているのかと、お雪を憎たらしく思った。生きてゆこうなど、何を言うのかと思えば。
吐き捨てるように、輝虎は言った。
「おれは死ぬ。お雪、おぬしも死ね」
「いやでございます」
「なぜだ。なぜそんなことをいう」
「腹に、ややがおりまする」
「……」
腹にややがあるという。その言葉に、輝虎は金縛りにあったように動かなくなった。
お雪の腹にいるややは、言うまでもない、輝虎とお雪の、ふたりの子供だ。
―こんなときに。―
喉まででかかった言葉を、危うく止めて、まじまじとその腹を見る。
お雪は少しはにかんだようにうつむき、輝虎の言葉を待てば。
「それがどうした」
という、冷たい物言い。
「もうなにもかも失くしたのだ、今さら生きてなんになるというのだ。腹のややとて、産んだところでかえって、むごい思いをするだけだ。ならばここで親子ともども果てるほうがよいではないか」
もう輝虎には、生きることの意味も意義も見出せなかった。今の惨状に、何もかも投げやりになり、お雪の懐妊さえ、何とも思わなかった。
むしろ、またひとつ死を積み重ねさせようとしているように、子をなしたお雪が憎く思えたほどだった。
―なぜこんなときに子をなすのだ。―
ふと、ここにきて初めて自分の妻に対し憎いなどと思う自分に気付いた。ちょっとした気持ちのすれ違いはあったものの、憎いなど思ったこともなかったのに。
どうして、お雪を憎いなどと思わなければいけないのだろう。あれだけ守らなければいけないと思っていたお雪を、憎いなどと。
「生きて」
「はい」
「生きて、何とする。何のために、生きるのだ」
輝虎はがたがたと震えていた。もう混乱する寸前までいっていた。
手は、いつでも脇差にいこうとしているようだった。
それを見て、お雪はそっと、輝虎の手の上に、自分の手を添えた。手に持つ数珠のふさが、輝虎の手を優しくなでた。
「ややのために、ややのために生きてくださいませ。晴景どのは千丸のために明日を生きようとなされております。それと同じように、輝虎様は我が子のために明日を生きようとしてはくれないのですか」
手のぬくもりを感じながら、輝虎はその言葉をじっと聞いていた。
「死ぬのは、ややを生み育ててからでもできまする」
また、沈黙が流れた。思えば、小さいころ鞠をついていたその手は、今は数珠を握っていた。宗祖が魂を墨に染め流したという御文に向かい、題目を唱えた。それは、なんのためか。
「お雪」
救いを求めるように、輝虎はぽそっと、妻の名をつぶやいた。そのつぶやきに応えるように。
「わたくしが恋こがれたお方は、我が子に死ねと言われるお方だったのですか」
という、お雪の言葉。その瞳は澄んでいた。
澄んだ瞳に、輝虎の姿が映し出され、それが濡れてゆき。大きなしずくが溢れ出て、お雪の頬をつたいおちてゆく。
輝虎が、お雪の瞳の奥に見たもの。
幼き日の、ふたり。
ともに鞠をついて遊んでいる。
お雪も、輝虎の瞳の奥に、同じものを見ていた。
第三章「赤日」最終話
綾山常光率いる三千余の軍勢が、大高の郷に入った。
鐘賀城での勝利の余勢を駆って、中村家の所領に入り込み、大高の郷を目指し、最後は中村家の居城である式頭城を落とす。
途中晴景らと合流し、常光は八重と千丸にも会って。
「悪いようにはせぬ」
と、飯歌の城へと向わせた。
まだ戦乱は続く。しばらくは飯歌の城でゆっくりとくつろぐがよいと、そう八重に言えば。
「お心遣い、いたみいります」
と、子の千丸を腕に抱き頭を下げた。
母は、子の未来を思い義父とともに主家を売らざるをえなかった。そうでなければ、討たねばならなかったかもしれない。しかし、実際に会って、そんなことにならなくて済んだことに、常光は安堵した。
母の腕の中で眠る幼子は、己の運命が今激しく動いていることを知らない。今はただ、母の腕の中で眠るのみ。
はたして、自分の名の由来を知ることがあるかどうか。
これからの行く末を案じながら、晴景を案内人として、郷に入り、城に入った。
郷も城も、空だった。
―我ながら、ようやったわい。―
怖いくらいに、なにもかもがうまくいった。
城の中にあるお藤のなきがらは、痛ましいことになっており。それを哀れんだ常光は、家来たちに丁重に葬るように命じた。
聞けば、晴景が斬ったという。
「そうか」
の一言だけで、何も言わなかった。
城の中には、お藤のなきがら以外、何もなかった。輝虎とお雪の姿もなかった。
逃げたか、と誰かが言った。その通り、逃げたのだ。
城の仏間に入り、仏壇を見れば、その中にあるはずの本尊がなかった。
常光の脳裏に、輝虎と、ついに見ることのなかった雪の方が、手に手を取って、当て所のない旅へとゆく様がありありと浮かび上がった。
いったい、どこへ行こうというのだろう。
雪の方が、丸めた本尊を握りしめて、それにこれからの全てを託そうと、そう思っているかもしれないことは、本尊のない仏壇がなによりも物語っていた。
晴景は終始無言のまま。
常光は、それもやむなしと、家来たちを引き連れ城の広間へ行き。もちろん上座に座る。
下座にて晴景が平伏している。
広間の両端に綾山家の家来たちが並び、晴景をじっと見据えていた。常光が、この主を売った老人にどのような沙汰をくだすのだろうと、静かに事の成り行きを見守っている。
「晴景よ」
「はっ」
「よくぞ、氏清の郷と城を明け渡してくれた。礼を言うぞ」
その言葉に、晴景はやや動じたものの。
「ははっ」
と、さらに頭を深く下げた。
それから、三千余の軍勢は、氏清の郷を手始めに、次々と中村家側の郷や城を落としてゆき、その都度綾山家の旗印が立ち並んだ。
輝虎のいない中村家の家来集など、まるで歯ごたえがなく。まさに破竹の勢いで、最後、式頭城を業火の炎につつみこませた。
中村家当主、中村家成は一門のものたちとともに、城の中で自害し果て。
ここに、中村家は滅びた。
その滅びを嘆くものはなく。
焼けた式頭城は、その無残な姿をさらしながら、ただ朽ち果てる日を待つのみであったという。
何も知らぬ小鳥たちが、群れをなして煤けた柱の上に寄り添うようにして降り立った。
お天道様の、恵みの光をうけて。しばしくつろぎながら、あたりをきょろきょろと見回したが、気を惹くものはなかったようで、小さな羽をはばたかせて、皆どこかへと飛び立っていった。
小鳥たちは、どこへ行くのだろう。
山から山へと飛び移りながら、旅は続けられた。
若者が、そんな旅する小鳥たちを見上げる。どこかの峠道で、どこかの農家でもらい受けたらしい車を引いていた。
その車の荷台に、若い女が、身を丸めて横たわり、寝息を立てていた。優しくなでられているような、お天道様の恵みの光が心地よさそうだ。
女は何かの巻物を、大事そうに腕の中に抱いている。
輝虎とお雪だった。
輝虎は護身用の太刀を腰に差してはいるが、ぼろの服をまとい、牢人に身をやつしている。
お雪のおなかは、大きくふくらんでいた。
その寝顔は、安らかなものだった。
母親になるというよろこびに満ち溢れているようだった。
輝虎は後ろを向いて、お雪の寝顔を見た。
その安らかな寝顔に微笑み、前に向き直り車を引いた。
車輪が回る。
足をひとつ動かすごとに、車輪もひとつ回る。
山から山へ、まるでさっき見た小鳥たちのように、旅をして。車輪は回る。
そしてこれからも、回り続ける。
夫婦雛物語 完