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第三章 赤日 頁三

第三章「赤日」その二十一


 お鹿が白痴になっているということにも関心を示さず。家成は家来の須木屋主水の娘をよく可愛がってやっていた。

 正確には、主水の娘ではなく、養女である。主水は娘がおらず、そのため、めぼしい娘のいる自分の家来から、養女としてそれをもらいうけ、家成に貢いだ。

 もし娘が子をなせば、血のつながりはないとはいえ、中村家の親族となる。そうなれば、今よりも高い位置につける。

 それこそが主水の狙いであった。いたずらに戦場で命を危険にさらすよりも、このやり方の方が安全であり、確実である。

 輝虎は真正直に戦場で頑張っているが、主水から見れば、頭が悪いと思う。もっとも、そんな頭の悪いものがいなければ、戦場で面倒くさく危険な思いをせねばならないのだが。

 頭の悪さもまた使いようである、としたものか。

「これこそが、世の渡り方というものよ」

 と、自分を誇らしく思っていた。事実、家成も主水に目をかけてやっている。よほど娘が気に入ったのであろう。

 お鹿は美しいが、いかんせん性格が暗い。なぜそうなのか考えることはなかったが、とにかく暗い娘は家成の好みではなかった。

 それに対し、主水の娘は明るく、よく家成になつく。

 これもまた、主水の計画通りであった。そのような娘を選びだし、養女としてもらいうけたのだから。

「なにが娘婿だ、ざまを見ろ、だ」

 と、ひそかに輝虎をののしる。娘婿であるということを生かさず、生かせず、捨て駒にされてしまって。

 さすがに、奇跡でも起こらない限り、輝虎の武勇をもってしてもわずかな手勢で城を落とすなど、無理であろう。

 所詮、武辺一本の正直者など、その程度なのだ。なにも無理に槍働きなどせずとも、出世は出来るのだと、近しいものにあからさまに言い捨ててもいた。

 輝虎を捨てる、ということは、娘である雪姫も捨てるということで。邪魔になる親族としてのライバルがいなくなることに、安堵と快勝の気持ちでいっぱいだった。

 朝方出仕した式頭城の窓から見える朝日、空。その空の向こうにいるであろう輝虎たちがどんな思いをしているのかと思うと、たまらないくらい、心地よくなって。

 我は勝った、と会心の雄叫びをあげたくなるのだった。  




第三章「赤日」その二十二


 来ぬか、まだ来ぬか、と常光は待ち受けていた。中村家成がまた攻め入るのを待ち受けていた。

 今度こそ、確実に完膚なきまでに叩き潰せる、という自信と確信。

 そのための準備も怠りない、なにより、士気も高い。

 そんなときに、入った吉報。

「申し上げます」

 から始まった家来の言葉に、常光は小躍りしたくなるような気持ちだった。

「中村家成の娘婿、大高輝虎およびその僚友久遠実成と聖通時の軍勢が領内は鐘賀城へと向かっておりまする」

「数は?」

「およそ、五百」

「五百?」

 思わず耳を疑った。鐘賀城は平地にある小城で攻めやすいとはいえ、わずか五百でそこを落とすというのか。城攻めには、五百は少ない。

「間違いではないのか」

「それがしも、諜者に何度も確認したのですが、間違いではなく、まこと五百であるということです」

「それはおとりで、別に軍勢が控えておるのではないか」

「それも、ないようです」

「?」

 わからない。なぜそのような無理な攻撃を仕掛けるのか。しかし、それよりも軍勢の中に輝虎がいる。

「まあよい、輝虎が来ているというなら、かねてより打ち合わせていた通りのことをするまでよ」

 と、家来に何か指示を出す。

 この指示を実行にうつすのは気が引けるのか、家来が自分の部屋から飛び出した後で、苦い顔をする。だが、それもやむなし、と自分に言い聞かせていた。

 まずひとつ。鐘賀城を預かる金子庄介に使いを出す。

 もうひとつ、常光の指示を受けた隠密の者三名が、大高の郷へと向っていた。

 そうとも知らず、輝虎らは鐘賀城目指して進軍する。なるべく国境近くにあって、平地で、攻めやすい小城、ということで、進軍先は鐘賀城となった。

 そこを落とし、家成に差し出すのだ。

 とにかく、早めにしなければならない。遮二無二に駆けた。もし篭城をされて援軍が駆けつければ勝ち目はない。

 よしんば落とせても、まさか置いて帰るわけにもいかず。そこへ城を取り戻さんと大軍を持って来られればひとたまりもないから、そうなる前に、落とした直後に使者を出し家成に援軍を頼まなければいけない。

 どうやって落とすか、とにかく力攻めしかない。下手な策では時間が長引き失敗するのがおちだ。もっとも、どう足掻いても失敗という公算のほうが大きい城獲りなのだが……。

 留まるも地獄、行くも地獄、そんな心境だった。

 そんな中で、自分たちを迎え撃つために敵方が城より打って出てくれることをひたすら祈っていた。そうなれば、道は開ける。

 己の槍働きで、敵方を木っ端微塵に打ち砕き城を奪い取るのだ。そうなるように、我知らず、題目を唱えていた。

 輝虎は題目を唱えながら、修羅になろうとしていた。

 お雪も、いまごろは仏間で本尊に向って、おなじように題目をあげているだろう。いくさというものに、今の世に、悲しみを覚えながら。




第三章「赤日」その二十三


 鐘賀城の城主、金子庄介は常光からの使いから受け取った書状を見て、ふむと鼻息荒く頷き。

「よく承ってござる」

 と野太い声で言った。

 それから、戦闘準備に入った。輝虎らを、城より打って出て迎え撃つために。城兵は五百。互角の兵数である。

 それとは別に、大高の郷へ向かった隠密の者三名。

 大高の郷へ入って、接触するものがある。

 大高輝虎の家来、氏清晴景。

 晴景はまさかそんなものが来ているとも知らず、邸宅で孫の千丸をあやしていた。

 千丸は泣きっぱなしだ。それを見て、自分も泣きたい気持ちだった。

 こんなにも愛しているのに、どうして笑ってくれぬのか。

 すまぬと嫁の八重に千丸を返し、自室の濡れ縁で日向ぼっこをする。老齢にさしかかり、いまや安穏のみを求める老人となった晴景。

 かつて若者らをこわっぱだの若造だのと呼ばわったころの気概はなかった。

 気概はないが、気がかりなことがある。あの、捨て駒にされたともとれる無理な城獲りの命令。なぜ家成がそんな命令を下したかは知らぬが、何かで怒らせてしまったのかもしれない。というくらいの想像はできた。

 それからの、大高家の命運は、おのずと連想させられた。

 いままで中村家成という大きな存在が背後についていた。それがなくなり、裸同然にされたのだ。それで城を獲れ、などと。

 輝虎が何かで家成を怒らせて、見切りをつけられてしまった。

 そうに違いない。

 そうなれば、大高家はどうなる。それに仕える我らはどうなる。

 千丸はどうなる。

 気がかりは日増しに大きくなり、それは不安に形を変えた。

 特に孫への愛情が複雑に絡まって、自分でもどうしようもないくらいだった。

 善景亡きあと、孫の千丸だけが心の支えだった。

 戦でたたかい、戦死するのはいとわない。だが、もし千丸が敵の手にかかってしまうなど、考えただけでも気が狂いそうだった。

 中村家より棄てられた、大高家という宙に浮いた小豪族に仕えることに何の意味があるのか。どのような未来があるというのか。

 千丸は、その未来に身を置かねばならないのか。

「わしはどうすればよい」

 お天道様に向って、ぽそっとつぶやいた。

「綾山常光さまにお仕えすればよろしゅうございます」

 という声が返ってきた。

 これには晴景も驚き、四方八方を見回したが、人の姿は見えない。空耳かと思ったが、それにしてもなんともいやな空耳ではないか。

 実際、それも考えていたのだから。

「己が一番の大事とするもののために余生を捧げるならば、それしかありますまい」

 といいながら、誰かが目の前に現れた。さも自宅の庭を歩くかのごとく、氏清家の邸宅の庭を歩き、晴景の前に姿を現したもの。見たことはない、郷の者ではなさそうだが。

「お、おぬしだれぞ」

「それがしは綾山常光様にお仕えする者でござる」

「げっ」

 狼狽し、声にならぬ声をあげて立ち上がり、腰の刀に手をかけた。しかし。後からまたふたりと現れた。ひとりは女だった。

 いつの間にこの三人は邸宅に入り込んだのか。

「よろしいのですかな。我らは三人、おひとりで敵いますでしょうか?」

「ひ、ひとを呼ぶぞ」

「どうぞ」

「……」

 あまりにも堂々とした態度に気圧され、力なく座り込んだ。白昼堂々と綾山常光の手のものがここまで入り込んでくるなど、しかも、こっちの内情にも詳しそうで。それがどういうことなのか。その衝撃は大きかった。

 完全に、なめられている。だが、いまや我々はその程度のものでしかない、ということだろう。それで意地を見せたところで、どれほどのことがあろうか。そう痛感せざるを得なかった。

「まず、我らの話をお聞きくだされ。千丸さまがかわいいと思うのであれば……」

 晴景は、力なく頷くしかなかった。




第三章「赤日」その二十四


 輝虎らの向かう鐘賀城では、城主金子庄介がしきりと動いて迎撃の軍勢を整えつつある。

 常光よりの書状には、城に篭るな、打って出てよ、とあった。

「それこそ我らが望むところ」

 と鼻息が荒い。

 城に篭り援軍を待つなどかったるい、打って出て思いっきり暴れまわりたい。それが庄介の好きな戦い方であった。

 またそんな主に仕える家来たちも同じだった。

「はよう来いはよう来い」

 と、嬉々として輝虎らを待っていた。

 それと同時に、城の女や子供たち非戦闘員の避難も着々と進んでいた。

「しかしのう」

 庄介は戦の準備を進めながら、不満げにつぶやいた。

「城をくれてやれ、とはのう」

 書状には、常光の捻り出した策が書かれてあった。城に篭るな、打って出てよ、とあるのも策のひとつであった。

 鐘賀城は、先祖より受け継いだ城ではないが、庄介が綾山家に仕え、その働きを認められて常光より預かった城だった。

 それだけに愛着もあるのだが、それどころではない、ということか。

 むしろ、中村家成との戦いがこの城一つの犠牲ですむのなら安いもの、ということか。

 書状にはしっかりと、戦の後の、建て直しの普請代くらい出してやる、と付け加えられていた。

 向かう先で迎える側が何をどう考えているかなど知らず、輝虎は必死になって駒を進めていた。

 休憩もそこそこ、とにかく急げやと。

 軍監の通時はそんな輝虎の意中など知らず。

「疲れた」

 といいすぐに休みたがる。

「通時殿、お疲れなのはわかりますが、事は急を要します。なにとぞ、ご辛抱を」

 といっても聞かない。だからといってまさか軍監を置き去りにするわけにもいかない。実成も輝虎と同じようにいさめるのだが、あまりいさめすぎると無用の恨みを買い家成に何を言われるかわかったもんじゃない。

 そのためやむなく、途中途中でしばしの休憩をとった。

 馬を下りた輝虎は家来の一人に手綱を持たせ、もどかしそうに腕を組み同じところをぐるぐる回り、落ち着きがない。

 それを見る十兵衛は、手綱を持ったまま馬のそばでどかっと腰を下ろし、ため息をつき、ふと城のある方角を向き空を見上げる。陽が紅く染まって、山々の中へと沈もうとしている。

 ほんとなら、ここで休憩をせず夜通し駆け抜けて鐘賀城にゆくつもりだった。

―さてお凛のやつは、どうなることやら。―

 以前、自分を嫁にしろと言われたことがある。しかし、嫁など要らぬと、それを突っぱねた。

 大高家が中村家の家来である以上、いつか、今のような城獲りにゆかねばならぬようなことがあるのではないかと思ったが。ほんとうにそうなってしまうとは。

―だから要らんと言ったのだ。―

 しかし事はお凛だけには留まらないだろう。大高の郷そのものの未来がこの城獲りにかかっているのだ。

 いや、大高の郷だけではない、実成の治める久遠の郷も同じだ。

 いま城獲りにゆく皆はもちろん、それに関わるものたちの未来がかかっているのだ。

―おのれ。―

 歯を食いしばり、拳を握り締める。今は、おのれ、以外の言葉は思い当たらなかった。 

 その十兵衛が思いを馳せる大高の郷では、氏清家の邸宅で、八重が床に突っ伏して泣いていた。

 千丸は女中にあずけ別室で寝かしつけている。

 義父より話しがあるというので聞いてみれば、それからただ泣いてばかりだった。

「なんのために我が夫は死んだのでございますか」

「いうな」

「でも」

「殿はかわいい、しかし、孫はもっとかわいい」

 その言葉に、八重は返す言葉もなく、泣き続けるしかなかった。

「泣くな八重、ゆけ、ゆかぬか」

「……」

 何も言わず、涙をぬぐいながら立ち上がり、義父の言うがままに千丸のいる部屋へ向う。そこで、女中にすべてを話し。旅の支度を整えさせる。

 最初驚いていた女中だが、八重の様子に何もいえなかった。

 千丸は何も知らず、すやすやと眠っている。その寝顔を見るのが、八重には辛かった。

 陽はだいぶ傾き山に沈もうとしている。支度を終える頃には丁度良い加減の暗がりとなるだろう。

 女がひとり、部屋に入ってきた。常光の命で大高の郷にやってきた隠密の女だ。

「飯歌の城につくまで、わたくしが千丸様をおあずかりいたします」

 といった。

 旅の間、千丸の世話は全て自分が引き受けるという。旅に慣れていない八重が、道中千丸の世話をするのは大変だろうからと、そのために、来ていたのだった。

 常光は、輝虎の家来の家庭事情まで探りを入れていた。そこで、晴景という良い戦略的素材を見つけた。

 隠密をもってそれをそそのかし、大高家を内部から分裂させるのだ。ただ分裂させるだけではない、輝虎が出陣している留守の間に、ひとつ仕掛けてやるのだ。

 八重は、女を赤くなった目で睨みすえ。

「結構です」

 といった。

 子を連れて、生まれ育った郷を出ていかざるを得ないことになってしまって、八重は、ただ無念さをつのらせるばかりだった。




第三章「赤日」その二十五


 金子庄介は城外の野原に陣を敷き、輝虎らを待ち受ければ、向こう側の森より馬のいななきが聞こえ、それから人馬の影が現れて、砂塵が舞う。

「来たぞ」

 騎乗にて、槍を片手に庄介は鼻息荒く言った。

「来ておりまするな」

 隣にいる家来も同じように鼻息を荒くして言った。

「さて、おぬしら手はずは心得ておろうな」

「はい。輝虎と一戦を交え、さっさと逃げて城をくれてやれ、と」

「そうだ、抜け駆けは許さん。これを破るものは斬る、よいな」

「心得ました」

 と言いながら、後ろを向き城を見る。

「しかし」

 せこい、といいたかった。そんなことをしなくても、我らが正面切って叩き潰してやろうものを。

「なんじゃ?」

「いえ、常光さまもよくお考えになることで」

「言うわ。まあ、おれもおぬしと同じ事を考えておるわい」

「せっかくのお城でございますのにな」

「それよ、しかし確実に輝虎を討ち取るためには、やむをえん」

 庄介も後ろを振り返り、城を見る。せっかく手に入れた城なのに。だが、この一戦のあとで新しくなるというのであれば、文句も言えない。

「まあよい、一戦を交え退くまでは本気でやってやるわい。敵に弱いと侮られるなど、心外じゃ」

 正直いって、正面切って輝虎とぶつかり、それを打ち破ってやりたい気持ちが大きい。だが、常光の策を実行することが大事である。

 影が濃くなると同時に旗印が見えるようになって、人馬の声も聞こえだし、砂塵も大きくなってくる。近付いてくる。

「ふっ」

 と笑った。

「楽しそうですな」

「まあな」

 庄介は笑顔で応える。退けという命令は不満だが、それまでは本気でぶつかる気でいる。相手は、中村家で武勇第一とされる若武者、大高輝虎。

 腕が鳴る。まるで腕白小僧がこれから合戦ごっこをするような、胸のときめきを覚えずにはいられなかった。

―おれは武士なのだ。―

 という強烈な自覚。強いものをもとめ、命を賭けて戦うことの歓喜を覚えたものの、快感。

 大高輝虎、相手に不足はない。

 おのずと、また一段と鼻息は荒くなる。

 槍を握る手に力がこもり、その槍の穂先にまで自分自身の力がみなぎってゆくようであった。




第三章「赤日」その二十六


「見えた」

 輝虎は叫んだ。

 目指す鐘賀城が、見えた。興奮のあまり槍の穂先で城を指し示す。

 森を抜け、広い野原に出た。その野原の向こうに、鐘賀城があった。小さな平城だ。

 輝虎の槍の穂先の向こう、中天が傾きかけようとしている。鐘賀城は陽の光を受け、ひなたぼっこをするように、静かにたたずんでいる。

「あ、あれは」

 実成が言った。

「敵は城外に出て、我らを待ち受けておりまするぞ」

 ということは、途中物見に見つかり報告されたか。何も知らなければ、外で待っているわけもない。

「むしろ好都合ではないか」

 と通時は言う。篭城などされるより、この野原で揉み潰してやったほうが戦術的に楽だからだ。その後、城を獲ってすぐに家成への使者を出す。

 常光が大軍をもって奪い返しに来てもなんとかふんばって、家成よりの援軍を待てばなんとかなるだろう、と思っていた。

 輝虎は歯を食いしばった。槍を握る手に、力がこもった。そうすれば。

「殿、どっちが一番槍をとるか、競争しましょう」

 と、隣にいた十兵衛は言う。

「なに」

 いきなりなにを、と思って十兵衛を見た。

 笑っている。これから遊びにゆく無邪気な子供のように。

「十兵衛」

 輝虎は一瞬呆気にとられたが、その笑顔につられ、頬をほころばせてしまった。

「ぼやぼやしていると、置いていきますぞ」

「そのときは、おぬしの背中を突いてでも先頭に立ってやるわ」

「おお怖や。ならそれがしも本気でお相手しますぞ」

「望むところ」

 というと、声を立てて、笑った。ここまで来たら、泣いても仕方がない。どうせゆくなら、笑ってゆこう。

 我らは、武士なのだから。

「あっはははは」

 という、ふたりのけたたましい笑い声が進軍する中に響いた。

 これには通時はぽかんとした。だが実成は、まともにふたりを見ることが出来なかった。

 自分のために捨て駒にされてしまったのに、それを恨むどころか、敵陣を前にしてこうして笑っていることが、実成には心苦しかった。

―どうしてお屋形さまは咎をおれひとりに背負わせなかったのか。―

 しかし、不思議と自分も笑っていた。なぜか、心苦しさは解けてゆくようになくなり、いつの間にか、楽しいと思っていた。

 輝虎と一緒にいることが、輝虎と一緒に戦うことが。

 気がつけば、皆笑っていた。最初こそお互いに顔を見合わせ何事かと思ったが。

 結局は、輝虎と十兵衛の笑い声につられて、皆笑いだして。

 これから戦場となる野原に笑いが響きあっていた。




第三章「赤日」その二十七


 ふたつの集団がひと塊になって、お互いに近付こうとしている。

 それぞれの旗がはためいている。馬はいなないている。

 陽の光が刀槍に反射して、きら、きら、と飛び散るようにきらめいている。

 輝虎は大きく息を吸った。

 それから、我知らず題目を唱えていた。

 庄介は、鼻息も荒く、槍を構える。

 後方で弓の弦が引っ張られ、きしむ音がする。

 馬は、徐々に速度を上げてゆく。

 頬を風がなでてゆく。

 目の前には、敵。

 打ち倒すべき敵がいる。

 ぴたっ、と題目をとめた。

「かかれ」

 と叫ぶや否や、槍を構えて馬を走らせる。

 横で十兵衛が輝虎を追い抜こうとしている。

「十兵衛、一番槍は渡さぬぞ」

 というと同時に、数十本の矢がふたりの頭上を跳び越し、目前の敵目掛けて勢いよく落下してゆき、それに当たった不運なものたちを転ばせる。

 向こうからも同じように数十本の矢が飛んでくる、後ろのものたちがそれで転ばされてゆく。

 だが目もくれず、ひたすら馬を走らせた。そうしている中で、再び題目を唱えていた。唱えながら、仏間にいるであろうお雪を想った。

 題目が効いているのか、輝虎に矢が当たることはなかった。

「まだまだ」

 距離はある。あきらめず、十兵衛は輝虎を追い抜こうとして必死だ。そうしている間にも、向こうとの距離は縮まってゆく。

 馬蹄の音が、鬨の声が、野原に響き渡り、くうを揺らす。全速力で馬を駆けさせ、目の前の景色は吹き飛ぶようにして流れてゆく。

 全身で、空を、風を裂いてゆく。馬を走らせるにつれ、馬蹄の音が早まるにつれ、空の、風の壁は厚さを増してゆき。それを、全身で体当たりし、打ち砕いてゆく。

 打ち砕かれた風の破片が、頬を切り裂かんとするばかりにしてなでながら、駆け抜けてゆく。その風は涼やかだった。

 もう向こうの兜に目鼻顔立ちまでわかるようになってきた。皆、顔を赤くして、目を血走らせて、まるで鬼のようだ。

 その中に、鐘賀城城主金子庄介もいた。庄介もまた、一番槍をとろうと家来と張り合っている。

「その修羅の首、わしが貰い受けるわ」

 と叫んだ。どさくさに紛れ、あわよくば輝虎の首を、と思っていた。家来に抜け駆けするなと言いながら、しっかり自分が抜け駆けすることを考えていた。

―ようは輝虎の首を獲ればよいのじゃろうが。―

 と、それが庄介の言い分であった。それよりも、輝虎は、娘婿から、修羅と呼ばれるようになっていた。先の戦で、あわや綾山常光を討ち取ろうとしたほどの働きをして以来、そう呼ばれるようになっていた。

 馬が、騎乗の武士たちが、陽の光を受けきらめく槍の穂先が並んで、その先頭に輝虎がいて。向こうに、すぐ目の前に同じように、鐘賀城のものたちがあって。

 激突した。

「一番槍とった!」

 という輝虎の叫び。その叫びが終わるころ、馬から落ちるもの。そのものは胸から血を流して、もう動くことはなかった。

 どこかで同じように。

「一番槍とった!」

 という叫びがした。それを聞いた庄介は、家来に先を越された無念さを、鼻息も荒く槍をもって目の前の騎馬武者にぶつけた。

 それから人馬刀槍入り乱れて、合戦となり。   

 砂塵舞う中、血が流されていった。 




第三章「赤日」その二十八


 そのきざしは、突然やってきた。

 仏間で、数珠を手に本尊に向って題目をあげているとき、こみ上げるもの。

 そのきざしが消え、落ち着きを取り戻したとき。お雪は自分の中で何が起こっているのかをさとった。

 これは、と思い、真っ先にお藤のもとへといこうとした。

 このことを、お藤に一番に言おうと。ほんとうなら輝虎にいいたかったが、今は戦にいっていない。

 その代わりというわけではないが、お藤もこの日を待ち望んでいたのだ。

 九つのときに大高家に嫁いで、何年になるだろう。

 はやる気持ちを抑え、お藤がいるであろう奥の部屋へと向っていた。

 そしたら、なにやら城内が騒がしくなった。

 急に男たちの声がしたと思ったら、女たちの声もする。なぜかともに大きな声を出していて、喧嘩でもしているのだろうか。

 声は城の入り口から広間にかけての渡り廊下からしていた。

 こんなときにと思いつつ、なんだろう、と思って声のするほうへと行けば。

 そこには、なぜか甲冑姿の晴景がいて、同じように甲冑姿の家来数名もいた。その中に、隠密の男もひとりいるのだが、お雪にそれがわかるわけもない。

 お藤とお凛に数名の侍女と女中が、それらとなにやらもめているようだった。

―どうしたのだろう。―

 あまりのことに声も出ず、呆気にとられる気持ちでそれを眺めていた。それにもお構いなく、怒号が響いた。

「はようこの城から出てゆかぬか」

「いいえ、そうはまいりませぬ」

「聞き分けのないことを」

「それは晴景どののほうじゃ。血迷うたのか」

 今何といった? 城を出てゆけ?

 なぜ晴景はそんなことを。

「あの」

 おそるおそる、お雪はそこにいる者たちに声をかけた。かりにも城主夫人の自分をさしおいて、何を論議しているのか、とまではお雪は思わなかったが。これはただ事ではないというくらいのことはわかった。

「もう大高家は終わりじゃ。殿はいった先で討ち取られ、やがてはこの城に綾山の軍勢が押し寄せるのだぞ」

「何を縁起でもないことを。殿のご武勇は晴景どのがよくご存知のはず」

「そんなもの、焼け石に水じゃ。常光様がそのように手はずを整えておる。このままでは、そちらも危ういのだぞ。そうならぬためにも、城から出よと申しておるのに」

「聞こえませぬ。我ら女たちは、殿の勝ちを信じ、お帰りをお待ちするまで。それを、こともあろうに千丸どの惜しさに寝返るなど。それこそ武士の風上にも置けぬ。この無様を善景どのがご覧になれば、そのご心痛いかばかりか」

 お雪の声など聞こえぬか、晴景らとお藤ら女たちは喧々諤々の口論を繰り広げている。いやそれよりも、晴景が千丸惜しさに寝返る、とは。これは、どういうことなのだろうか。

 お藤が善景の名を出したのが堪えたか、晴景の体が震えだした。

「のう晴景どの、なぜお優しいあなたさまがそのようなことを申されるのですか。千丸どののことも、殿を信じておれば……」

 お藤は必死の説得を続けていた。しかし。

「聞けぬと申すか」

 と言いながら、晴景は太刀に手をかけた。女たちは怯んだが、お藤は毅然として。

「太刀になど手をかけて、どうなさるおつもりじゃ」

 といった。その刹那。

「こうするのじゃ」 

 と、白刃がきらめき、鮮血が舞った。お藤は、舞い散る鮮血の中、髪を振り乱し、仰向けに崩れ落ちた。

 その鮮血に弾かれるようにして、女たちは悲鳴を上げながら、一目散に城から出て行った。残ったのはお凛だけだった。がたがたと震えていて、あまりのことに足が動かないらしい。

「お藤!」

 お雪は叫んで、崩れ落ちたお藤に駆け寄ったが。すでに息絶え、目は閉じられていた。

―そんな、どうして。―

 乳母として、乳飲み子のころから大切に育ててくれた育ての母が、よもや兇刃に倒れることになろうとは。

 しかも、お藤に一番にいいたいことがあったのに。

 あまりにも衝撃が大きすぎるのか、涙も出なかった。ただ、うつろにお藤のなきがらを瞳に映し出すことしかできなかった。

「おひい様ですか」

 血塗られた太刀の切っ先をお雪に向けて、晴景はいった。

「ご覧になりましたか。もはや大高家はこれまで。悪いことは言いませぬ、お城より出られ、尼にでもなられた方がその御身のためでござる」




第三章「赤日」その二十九


 晴景の目は血走って、口をつむぎ震えながら鼻で大きく息を吐いた。自分でも、この狂い様が痛いほどわかっているのだろう。

 お雪に刃を向けるということが、どういうことか。

 さすがにこれには、晴景の家来も、狼狽しているようだった。仮にも、中村家成の娘である。それを、斬るか。

 いや、もうすでにこうして裏切っているのだから、家成の威光など関係ない。一番大きいのは、まだ小さなおひい様だったころを知っていることだった。

 嫁いで間もないころ、慣れぬ他家での寂しさから、よく泣いていた。それを、幼い主だった輝虎が何度も優しく慰めてあげて、ともに手まり歌を口ずさみ、鞠をついていたものだった。

 それのみならず、お雪のために、輝虎は十兵衛相手に打ち負かされても打ち負かされても、泣きながら喧嘩をして。

 それを、心温まる思いで見ていた。いや、今斬ったお藤だって、お雪の恋を知って、感激の涙を流していた。

 なのに、今こうして裏切り、お藤を斬り。さらにお雪に刃を向けねばならぬとは。なんという因果のめぐり合わせであろう。

―これが戦国という世だ。―

 晴景は、心の中で必死に言い訳をしていた。今こうせねば、千丸の未来はないのだ。  

「お、おひい様」

 お凛は、声を震わせ搾り出すように、ようやく「おひい様」とだけいった。それ以外のことが、何も出ない。ただ、がたがた震えているだけだった。

 十兵衛相手に喧嘩で勝ったことがある、といっても、昔と今とでは勝手が違う。いつも自慢している昔の武勇は、所詮は昔のものでしかなく。今は、無力な女でしかないことを痛感していた。

「お凛」

 ふと、自分が呼ばれたのに気付いて、その方を向いた。お凛は震えていた。それを見て。

「もう、いいのですよ。ありがとう」

 といって、微笑んだ。

 それは、自分に仕える侍女に、ではなく。初心な自分に恋というものを教えてくれた、仲の良い友達に向けるような微笑だった。

「おひい様……、ごめんなさい」

 お凛は、そういうと手で顔を覆いながら、駆け足で城から出てゆく。その後姿を見送ってから、ふたたび目をお藤のなきがらに向けた。

「……」

 何も、言葉は出なかった。

「どうなさるおつもりですかな」

 と晴景が問うた。返答次第では、お藤二の舞である、と。

 お雪は、ぽそっとつぶやくようにいった。

「わたくしは、大高輝虎の妻です。ここで、お帰りをお待ちしています」

 晴景の手が震え、太刀もつられて震えた。

 お雪は、ここで輝虎を待つという。

「それはご本心から、ですか」

「はい」

 即答だった。今さっきお藤を斬った、そのお藤の血がついた太刀など目にも入らないらしい。じっと、目を閉じたお藤をみつめていた。

 その横顔は、晴景の裏切りを責めるでもない、お藤の死を悲しむでもない、ただじっとお藤のなきがらをみつめながら、まるでお藤のなきがらの、そのまた向こうに何かがあるような、遠くをみつめる眼差しをしていた。

 瞳は、濡れているようでもなく。そのみつめるものを映し出すように、澄んでいた。

 晴景の手の震えが止まった。と思うと、太刀を鞘に収めくるりと背中を見せて、家来どもを無視して城から出ようとする。

 殿、おひい様はどうするのですか、と隠密の男が言ったが。

「捨ておけ。女ひとりになにができる」

 と吐き捨てる。

 お雪は関心がないように、何の反応も示さなかった。男たちはみんな出て行って、城にお雪ひとりが残された。




第三章「赤日」その三十


 常光の仕掛け、それは晴景を裏切らせ、郷の城でひと暴れさせて、城を空にさせることだった。

 大高家において晴景の存在と信頼は大きい。それが裏切って、城でひと暴れしたとなれば、その動揺は大きなものになるだろうし。それでみんな驚いて逃げ出して、城は空になるだろうと見込んでいたが。

 見事常光の見込みどおりとなった。

 もちろん、そんなことをしでかした晴景が安穏と常光の到着を待っていられるわけもなく。万一中村側から手勢を向けられればひとたまりもないだろうから、城でひと暴れしたあとに綾山領内へと逃げ込む手はずになっている。

 それに先駆けて、八重と千丸は、隠密の女とともに綾山の領内へと逃げ出していた。その護衛のために、もうひとりの隠密の男がつねに太刀を抜ける体勢で、一緒に歩く。

 道中、やはり足が堪えた八重はやむなく千丸を女に預け、杖をつきながらほうほうの体でよろめき歩く有様だった。女はやはり慣れているのであろう、千丸を抱きながらも、足取りは軽い。

 隠密の女と男は、八重にも千丸にも無関心そうで、ただ常光の命令を遂行することのみに専念していた。

 もうすぐ小屋がある、そこで休みながら晴景たちを待とう。ということだが、八重にはその小屋がまだまだ遠く感じられて、足は重くなる一方だった。

 千丸は、女の腕の中ですやすやと眠っていた。もう、お雪に抱かれることもないなど、知る由もないし。自分の幼名の由来を、知ることもないかもしれない。

―おまえさま、お許しを、お許しを。―

 心の中でそればかり唱えていた。我が子の未来と引き換えに、大高家を売らねばならないとは。その大高家のために、善景は我が子の顔を見ることなく、みずから命を絶ったというのに。

 これから、心の底から笑えることがあるだろうか。どのような顔を、我が子に見せれば良いのだろうか。

 八重は、このような時代に生まれたことを、呪わしく思わずにはいられなかった。

 その八重らが捨てねばならなかった城で、お雪はまた仏間に戻って、本尊を前にうつむき、手は膝の上に置かれ、その手に持つ数珠をじっとみつめていた。  

 ゆびさきに、赤い血がこびりついている。仏間に戻る前、お藤の手を胸元に置き合わせ、着物をかぶせた。そのときに、ゆびさきに血がついた。

 誰も、城に来ない。

 晴景の寝返りは郷全体に大きな衝撃を与えて、それで、みんな次から次へと郷から逃げ出していた。もうここにいても仕方がない。新天地を求めて、みんな郷を捨てた。

 誰も大高の城など気にも留めなかった。誰も城の中のお雪のことなどかまわなかった。

 もう、輝虎らはいった先で、討ち取られているかもしれない。

 もはや、大高家に未来はなく、終わりだけが足音も立てずにひたひたと近付きつつある。皆、そう思っていた。

 お雪は、何も思わなかった。思えなかった。

 手の数珠を、ゆびさきの血を、じっとながめながら。ながめているうちに、まどろみにおそわれて。

 やがて、倒れこむようにして横たわって、瞳を閉じて眠りこけてしまった。

 本尊は、横たわるお雪を前にして、窓から入る陽の光を受け止めていた。

 その陽の光が、赤く染まってゆく。

 まだ陽は落ちず中天の空に浮かんでいるというのに、その姿は、赤く染まりつつあった。まるで、死んだものたちの血を吸いとったかのように、赤く染まりつつあった。

 白い雲も、青い空も、染みわたるような赤い陽によって、赤く染まってゆき。

 ついには、空そのものが赤く染まった。赤い空に、赤日せきじつが浮かんでいた。

 眠りこけるお雪を、本尊を、赤日の光がつつみこむ。

 赤日の光につつまれて、本尊も、お雪も、赤く染まっていた。


続く

次頁にて完結

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