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第三章 赤日 頁二

第三章「赤日」その十一


「もうよい、はなせ」

 という言葉を何度言ったか覚えていないが、だいぶ後ろへと引いてから、やっと家来が手綱を放した。もう敵の姿はない。

 整然と隊列を組み、主を待つ自軍のものたち。

 綾山の旗もまた整然と並び、風になびく。

 その風に頬をなでられ、ようやくにして常光は落ち着きを取り戻す。

「ふう」

 思わず漏れる吐息。それに気付き照れ笑いをすれば、家来たちも笑い。あたりは陽の光に照らされているのもあって、朗らかな雰囲気になる。

「ゆるせ。思わず血気にはやってしまってな」

「いやいや、我ら一同肝を冷やしましたぞ」

「左様左様」

 ははは、という笑い声をこぼしながら、隊列の中へと駒をすすめゆく。

「しかしまあ、なんだ」

「は?」

「あの矢は、誰が放った」

 それこそ輝虎の槍に喉を突かれようかとする直前、ふたりの間を矢がかすめ飛んだ。その隙をついて、家来が常光の手綱を引いて下がっていったのだが。

「さて、存じませんな。そこもとは?」

「いやいや、それがしも存じませんな」

「なら、流れ矢であるか」

 家来の会話を聞きながら、常光はほくそ笑むのみ。しらばっくれおって、と言いたげに。どうせ誰かに命じて射掛けさせたのであろう。

 しかしそれで助かったのだ。我ながら運の良いことよ、と思う。

 つらつらと思うに、どのようなことがあろうと、今死ぬのはまずい。黒雲の如き中村家成の侵略を食い止められるのは、綾山常光だけなのだ。

 中村家成が黒雲、ならば、さしずめ大高輝虎はいかずちとしたところであろうか。その名に輝の字がある通り、黒雲より放たれた雷のような若武者。それが輝虎。

 その輝きぶりを見て、男として黙っていられようか。否、黙っておれぬ。とはいえ、それは今後控えるべきであろう。己の立場を考えるなら。

 常光の命は、常光だけのものではないのだ。

 我ひとりの命に、どのくらいの者たちの命がかかっているのか。

 輝虎の家来らしき男が「卑怯」といったが、そういわれることも承知のうえで、生きてゆかねばならぬであろう。

 当主とは、そういうものなのかもしれぬ。

 それを思えば、ほとんど一瞬だけとはいえ、輝虎のような剛の者と男として一騎打ちできたのは僥倖と言ってもよいのかもしれぬ。

 それに、今度のことでわかったこともある。

―討ち取るは、あの娘婿だけでよいな。―

 他は烏合の衆だ。輝虎ひとり討ち取れば、おのずと崩れ去る。まったく統率の取れていないあの戦ぶりはどうだろうか。

 目の前の、整然と並ぶ家来たち。   

 ほんとに同じ武士であるのか、といいたくなるほどだ。

「わしの軽率さのために、みなに迷惑をかけたな。すまん」

 馬上より家来たちに詫びる常光。家来たちは、押し黙って次の言葉を待っている。ふと、輝虎に討たれた田尾和孝を思い出した。

 人のことは言えぬ。その軽率さを苦く思ったことを、心の中でそっと詫びる。

「中村家成との戦、勝てるぞ」

 というやいなや、隊列がざわめく。ざわめくまま、常光は言葉を続ける。

「しかしながら、いまは兵馬を休めるため、引き揚げよう。これまでの戦でみな疲れていよう。その疲れが癒え、次に矢合わせ(合戦)するときが、勝つときである。わしに考えがある、勝算もある。それまで、ゆっくりと骨休みをするがよい」

 おお、という鬨の声があがる。その声に、あたりの空気が震えたようだ。その震えが、肌で感じられた。

 馬上より家来たちに檄を飛ばす常光の背に、太陽。その太陽が、まるで後光のように光っている。さながら仏の遣いのようで。その言葉は予言にも感じられた。

―我らには綾山常光様がおられる。―

 という安堵感。

 家来たちにとって、綾山常光はただ御大将であるというだけでなく、心をひとつにしてともに戦う同志のようでもあった。

 事実、常光自身も槍を手に取り戦っている。それで士気が上がり、皆よく働く。おかげで中村家成の侵略は足踏み状態にある。

 もう一押しで、形勢が変わる。

 かつて家成に泣かされてきた者たちにとって常光は、その名の通り、常に光り輝く希望の光であった。

 しかしながら、と常光はまた思う。

―惜しいかな。大高輝虎。―

 一騎打ちをしたからこそわかる。殺すには、惜しい青年である。血にまみれ修羅の如き働きをしようとも、その瞳の輝きは、そしてその瞳の奥にあるものは。

 そこにこそ、ほんとうの輝虎がある。

 惜しいと思うが、惜しい男だからこそ、討たねばならない。そうせねば、戦はいつまでも続く。

―ご神仏も酷なことをなさるわい。―

  それでもやらねばならない。もし己が今の世に生まれた理由があるとするならば、まさにそのために生まれ出でたのかもしれないのだから。




第三章「赤日」その十二


 本陣宿営の古寺にて、家成の一喝が響く。

 腹を切れ、という一喝が飛んだ。

 それは、久遠実成に向けられたものだった。

 戦の後の軍議において須木屋主水の告げ口により、実成が輝虎を殴ったことが、輝虎が常光と一騎打ちをしたこと以上に本陣中に知れ渡った。

 古寺の庭にて、家成をはじめ数人のものたちがあつまっている。実成はその真ん中、平伏している。

「我が娘婿を殴るのは、我を殴るに等しい。その罪、万死に値する」

 という、家成の言葉。

 家成と輝虎に血のつながりはないとはいえ、舅と婿の、義理の父子の間柄である。家成の娘のお雪が子を産めば、その子は家成の実の孫であり。

 そうなれば、名実ともに大高家は中村家の親族となるのだ。

 それを殴った。しかも大勢の前でやったことで、家成の親族に恥をかかせたことにもなる。

 理由はどうあれ、なんぞ叛意があるのではないか、と勘ぐられるのも仕方のないことであった

 家成は、口々に実成を罵っている。実成は、何も言わず、黙ってそれを聞いている。

「ご父君。しばらく、しばらく」

 たまらず輝虎が進み出た。実成に叛意がないことは、輝虎自身が一番よく知っている。だがしかし。

「さがっておれ」

 と、まともに取り合ってくれようとしない。が、このままさがれようか。

「いいえ、さがりませぬ。どうかこの不肖輝虎の言葉をお聞きくだされ」

 平伏する実成の横で同じように平伏し、輝虎は粘る。

 実成は申し訳なさそうに、横目でちらっと輝虎を見た。輝虎はまっすぐに舅を見据え、その身を岩にでもするかのように、動こうとしない。

 告げ口をした主水はいまいましそうに、苦々しく舌打ちする。いい子ぶっているように見えるふたりのことを、よく思っていない。

 むしろ、そんな忠臣こそ主水の嫌うところだ。中村家の家中にて、欲するままに、虎の威を狩る狐のままに、権力の衣を着飾りたいという、己の忠実なる野心の邪魔になるからだ。

 主水にとって家成は、忠誠心を尽くす対象ではなく、うまくやれば利用できるもの、という認識のほうが大きい。おべっかをもってそれを覆い隠し、家成のおこぼれに預かる。

 これが主水の人生設計といってもよい。

 それはともかくとして。

「言うてみい」

 輝虎の粘り具合を見て、やれやれと言いたげにして、輝虎に発言をうながす。なんで己を殴るようなものをかばうのか、皆目見当もつかないようであった。

 どうもそれはほかの家来たちも同じようであった。

―わけがわからん。―

 と、輝虎を不思議そうに眺めている。家成の娘婿という立場にあることを、どうして利用しようとしないのか。

 これが自分なら、家成や主水と一緒になって実成を切腹させるというのに。

「ありがたき幸せ」

 と一度頭を下げて、それからまた舅を見据える。

「実成どのがそれがしを殴ったことについて。これは、それがしにこそ咎がありまする。猪のように突っ込むばかりで、味方を危険にさらし無用の損害をあたえることを、実成どのに叱っていただいたのです」

「叱る、だと」

「はい、武士として、実成殿に叱っていただきました。それだけのことです。そこになんの罪がありましょうや」

 輝虎殿……、と言おうとする実成を、横目で目配せする。何も言わなくてもいい、と。

「武士としてか……」

 輝虎の言葉を聞き、家成は顎に手をやりながらなにやら考えているようであった。

 実成と輝虎が仲が良いのは、まあ知っていた。その友情の厚さ固さは、確かに天晴れである。これを怒りにまかせて壊してしまえば、むしろ己の当主としての器が問われはしまいか。

 いやそれよりも、舅であり当主である自分に対してしゃしゃり出るようなまねを、ひそかに面憎く思う。

―小僧。―

 とあやうくいいそうになったが、それを堪え。

「ふむ、輝虎の言うことも一理ある。そちは勇のみを頼りによく突っ走っておったの、まさに猪のごとく」

「恐れ入りまする」

「それを実成に叱ってもらったか。なるほど、それはいずれは誰かがせねばならぬことであろう」

 その言葉を聞き、輝虎の胸に安堵が広がる。期待できそうだ。

「よろしい。ここは輝虎に免じ、切腹は許そう」

 その言葉に、実成は驚き、とっさにふかく頭を下げた。実際、すでに死は覚悟していたが、まさかこのようなことになるとは。

―一度ならず二度までも輝虎殿に救ってもらった。―

 という感慨が胸に溢れる。

「だが、手を出すのはやはりやりすぎじゃ。実成よ、そちに謹慎を申し付ける。城へ帰り、沙汰あるまで一歩も外へでることはまかりならぬ、よいな」

 切腹から一転しての謹慎処分。この沙汰に、一同驚き、感心した。主水を除いて。

―ちぇっ。くだらぬ。―

 白けるように、ふたりから視線を外す。見ていられない、という気分だ。

「さすが我が殿。その寛大なお沙汰、我ら一同感服つかまつってござる」

 誰かがそんなおべっかを言った。それから、異口同音に同じようなおべっかが次から次へと聞こえてくる。そのおべっかの中から飛び出すもの。

「いやはや、実成殿をかばう輝虎殿もまた天晴れである。こたびの戦で、すんでのところまで綾山常光を追い詰めるほどの働きをなされ、そしてこれじゃ」

「そうじゃ、なんと頼もしいことか。次の戦も、輝虎殿がおられればこれほど心強いことはない」

 というものであった。

 聞いていて、白けてくる。胸にわだかまりが澱のようにつもってゆく感じがするのは、どうしてだろうか。はっきりいって、違和感を感じる。

「そうじゃな。次こそは常光の首を見せて欲しいものじゃ。頼むぞ、輝虎」

 家成は家成でおべっかが心地良さそうで、知らぬうちに上機嫌になっている。人の心はこうも簡単に変わるものか。

 それよりも、なぜかその場の空気に首を締め付けられているような思いに駆られる。

 義父の心は、いまどのようなものだろうか。それは、知らぬが仏であった。

―さてこのふたり、どうしてくれようか。―

 などと考えているなど、思いもよらなかった。

―お雪は我がむすめとはいえ、あれがどうなろうと知らぬ。―

 なんなら反乱を起こし、その際に殺してくれても構わなかった。だからこそ、大高家のような辺境の小豪族のもとへといかせた、というのもある。

 家成にとって、所詮は、お雪は可愛げのない侍女の産み落とした私生児でしかないのだから。

 それでも一応、利用できるものは利用したつもりであった。それは輝虎の戦働きというかたちで功を奏したかに見えたが、どうも見当違いであったか。

―このわしに意見するなど。可愛くないやつじゃ。―

 どちらにも、父親としての愛情など、これっぽっちもない。

―そうじゃな、いっそのこと……。―

 どす黒いものが、家成の胸中を覆う。常光の軽蔑するとおりの、粗暴な大豪族のままに。  




第三章「赤日」その十三


 綾山常光が一端引き揚げ、中村家成も結局は同じように引き揚げた。

 その引き揚げ具合は実に見事なもので、夜陰に乗じて相手に悟られぬようこっそりと戦場から抜け出したのだ。抜き足差し足忍び足はもとより、馬の口には真綿をかませ、その上から縄で縛り声を封じるという周到さであった。

 もちろん、中村家成はそんなことを知らなかったから。慌てた諜者の報告をあっけにとられる気持ちで聞き、引き揚げの下知を下すしかなかった、という体たらくであった。

―なんと戦の下手なことか。―

 十兵衛は呆れる気持ちであった。なにかにつけて綾山常光に出し抜かれている。

 才木長久までは、少し強いところを見せればそれでよかったのだが、綾山常光はそれが通用する相手ではない。にもかかわらず、家成はまだそれに気付いてなさそうだった。

「愚かな」

 その言葉は、自分たちに投げかけたものだった。相手の力量も知らず、ただの戦をしでかしていたずらに戦死者を増やすだけという今の状況に引き摺られっぱなしだ。

 これを愚かといわずなんというか。

 城下の郷を馬でひと駆けして、郷を流れる川の川原で馬を止め、手ごろな岩を見つけそこに腰掛け空を見上げる。

 青空が広がり、雲がただよう。あの雲はどこへゆくのであろうか。

 馬は近くの森の木につながれて、尾を振りながら静かにたたずむ。草木や花たちは、陽の光をうけ、川のせせらぎを聞きながら、そよ風に気持ちよさそうになでられている。

 郷の人の営みも、その中にあった。

 だが、今の自分たちは。

「義とはなんぞや」

 輝虎は、家成への義のために戦うのだ、というが。正直言って、それに値するようなものだろうか。

 義、とは。

 愛する妻と娶わせてくれたことへの恩義のことか。

 ばかばかしい。

 とは、言わない。

 上下関係というものもある。されば、今自分たちがやっていることに、何の大義があるというのか。

 武士は、大義のために戦うのではないか。

 中村家成のただ領地欲しさの欲望が、武士の大義といえるのだろうか。

 もしそうだとしたら、いまはそんな世の中だということか。

「難儀なものだ」

 ぽそっとつぶやく。そのつぶやきは川のせせらぎに流されてゆく。

 さて、もう帰ろうか。と腰を上げようとしたとき、十兵衛の従者が息を切らしてこちらに駆け寄ってくるのが見えた。

 何事か、と思いきや。

「十兵衛さま、大変じゃ大変じゃ」

 と、十兵衛をみかけるなり叫んでいる。

「どうした、なにがあった」

「そ、それが、輝種さまが、みまかられた」

「なんだと!」

 輝虎の父、輝種が亡くなった。

 その訃報が郷を駆け巡った。

「そうか、死んだか」

 それだけであった。正直、この先代も気に入らない。輝虎が大高家を継ぐと同時に、世を捨て寺にこもって僧となった。それから、一度も見ていない。

 あの先代は、何かあればすぐに神や仏にすがることばかりで、己の力で解決してやろうという気概がまったくなかった。

 そのために、十兵衛の父はわざわざ戦死しなければならなかった。

 人の死をききながらなんと大人気ないと思うのだが、なまじ人の死に慣れている身のため、ほんとうに何も思わなかった。わざわざ悲しむ振りをするのもどうかと思う。

―先代、この不忠を許されよ。―

 とだけ、思った。




第三章「赤日」その十四

 

「そうか」

 とだけ、輝虎は言った。

 城の庭で木刀を振るっている最中、父の訃報が舞い込んできて、しばし空を眺め考え事をしていたが、早速葬儀の準備にとりかかろうとし。

 その前に、お雪に会いにいった。輝種の訃報はすでにお雪も知っており、喪に服するために、仏間で唱題をしようとしていたところだった。

 手にある数珠を見て、輝虎は。

「もう知っていたか」

 という。

「はい、いましがた、お凛から」

「おれの父であるということは、そなたの父でもある。父のために題目を送ってくれようとしたこと、子として礼を言うぞ」

「いえ、当然のことでございます……」

 ふたりとも、訃報の後だけに顔は暗い。その胸中、複雑な思いであった。ともに、輝種の思い出が薄かった。

 千丸と呼ばれていた頃の教育は家来にまかせっきりだったし、輝種自身が父として何かしらの愛情をしめしたことはなかった。それだから、お雪に対しても特に自分から接しようともしなかった。

 いや、輝種にとって、お雪は敗北の象徴のようなものだから、尚更だったろう。中村家成に攻められ、降伏し、その支配下に置かれた上に父権を奪われ、嫁を押し付けられたのだから。

 小なりとも一城の主という身にしては、踏んだり蹴ったり、という感じだったろう。

 それ以前に輝種は、ただ平穏な暮らしが欲しいだけの、おとなしい人だった。この戦国乱世に生まれたところで、どうすることもできず、道端の小石にも等しい存在だった。

―それでも、父は父だ。―

 と思い、輝虎もお雪とともに、本尊の前に正座し、唱題をし。その冥福を祈った。輝種と、その妻お志野がいなければ、この世に生まれることはなかった。

 その後、葬儀は、輝種のいた郷の寺でそれなりにきちんとした形式をもっておこなわれ。城から輝虎以下大高家のものが出席した。

 僧の読経をが、あたりに響く。

 読経の言葉ひとつひとつが、耳を打つ。打たれるたび、輝虎はこれからのことを思う。

 これから、父と呼べるものは、中村家成だけとなった。義理とはいえ、子として、どれだけの孝行が出来るのであろうか。どれだけの孝行をせねばならないのであろうか。

 それは、ご神仏のみぞ知る、というところか。

 家成への孝行は、戦働きしかない。

 戦働きをしてこその、孝行。それが、中村家成の娘婿としての道だった。




第三章「赤日」その十五


 さて、綾山常光である。居城である飯歌の城へと引き揚げてから、軍備再建に力を入れた。

 次に戦をしたときに、必ずや中村家成を撃破するために。

 それから、どのようにして戦をするかという段取りも、家来たちと相談しながら決めていた。その中に、まずは大高輝虎を討つべし、というものがあった。

 いままでの戦で、輝虎以外にこれといった働きをするものがいなかった。ということは、輝虎さえ討てば、あとは簡単だということだ。

 その輝虎を討つために、さてどうすればよいか、いかにして、確実に輝虎の首を獲るか。

 家来たちとの議題は、やがてはほとんどがそれになった。

「聞けば」

「はい」

 評議の最中、常光がいったことは、家来たちをすこし呆気に取らせるものだった。

「輝虎とその妻である雪の方、ふたりは評判のおしどり夫婦であるそうだな」

「いかにも。であるということは、家成への忠義も厚く、先の戦のように修羅の如き働きをするのでございましょう」

―そうかな。―

 と思いつつ。

「その昔は、夫婦雛と囃し立てられたとも聞く」

 といえば。

「その夫婦雛が、鷹となって、我らに食らいつこうとしておる。なんともたちの悪いことではござらぬか」

「そうじゃ、雛のままであれば、そのほうがどれだけよかったか」

「いや、鷹になるとわかっておったからこそ、家成は姫を輝虎にくれてやったのであろう」

 それから、口々に輝虎とその妻への恨み言が評議をしている広間に響き渡った。いうまでもなく、綾山側では情報収集もぬかりはなく、どのような些細なことでも仕入れていた。

 そこに、実際に戦でしてやられた恨みが重なればどうなるか。

 顔を真っ赤にして怒る家来たち。それを見て、常光はあの時の、一騎打ちをした時の輝虎の瞳の奥を思い出す。

「輝虎のみならず、雪の方も討つべし」

 という意見が出た。他のものも、左様と答える。恨みがこもっているだけに、お雪を討つことに関しても、家成と血縁関係にあるというだけで、彼らには殺すだけの十分な理由が出来上がる。

 いやもし、子をなしておれば、その子も討つべし、とまで思っている。

 彼らにとって、中村家成の血筋は天魔の血筋であり、この世から根絶やしにせねばならないものであった。そうでなければ、黒雲が世を覆いつくし、暗黒の世界が出来上がってしまうようであった。

「……」

 常光は黙っている。家来たちのいうことを聞きながら、何か思案しているようだった。

 だが熱くなる家来たちをそのままにしておけば、すぐさま攻め入るべきという過激な意見まで出てきそうだったため、やれやれと思いながら、かたく閉ざした口を、重々しく開く。

「そちらの言い分はようわかった。だが今は、軍備再建のときだぞ。なによりあの家成の気性、このまま黙ってはいまい、またいつも通りこちらへ攻め入るであろう。戦はそれからじゃ。それまで、辛抱せい」

 今度は家来たちが黙る番だった。綾山常光が戦をしているのは、中村家成のような侵略的な領土拡大のためではない。あくまでも、それを食い止めるための義軍的な役割からである。ゆえに、無闇にとこちらから攻め入るわけにはいかないのだ。

 広間に沈黙が垂れ込め、家来たちの怨嗟の念を含んだ空気に、肌をなでられているような重々しさだった。




第三章「赤日」その十六


 輝種が亡くなり、初七日が過ぎて間もないころ、中村家成よりの使者がやってきた。

 すぐに戦支度をし、綾山領内の城を一つ落としてこい、というなんとも突飛なことを使者は告げた。

「……」

 これには輝虎も絶句した。つい先日戦より戻ってきて、それからひと月もせぬうちに、今度は城を落とせ、とは。

 いくらなんでも、無茶な話である。

「ご案じめさるな。なにも輝虎殿の手勢だけでゆけと申すのではない。同じく久遠実成殿にもご出陣のお下知が下っておる、輝虎殿と実成殿のおふたかたをもって、小さくても構わぬゆえ家成公に城をひとつ差し出せば良いのだ」

「実成殿も、でござるか」

「左様。本来ならば切腹といたすところであったが、輝虎殿の働きかけにより一命を取り留め、今は久遠の城へ沙汰あるまで謹慎されておる。しかしながら、こたびの出陣によりお屋形様への罪償いの道を得た、とまあそういうことになるでござろうな」

「……」

 またも輝虎は絶句した。

「輝虎殿よ、おふたりが中村家への忠義厚い家来であることを示されるる絶好の機会でござる。謹んでお受けされよ」

 使者は輝虎の絶句など意に介さず、上座より声高に言った。ひれ伏す輝虎は、ただ、頭を下げた。

 逆らうことは出来ない。

 家成の命令はなにがあっても聞かねばならない。それが無茶なことでも、だ。

 今の生活は、その上に成り立っているのだ。

 使者が帰った後、輝虎はすぐに十兵衛や晴景ら家来を呼んで、この出陣の支度をすぐにさせた。いつも留守をさせている晴景も、今回ばかりはゆかせようと思った。

 輝虎が出せる兵は二百、実成もまた同数だろうから、総勢四百ほどが精一杯である。城攻めをするにはあまりにも少ない。どのような小城であろうが、落とすのは至難の業である。

 このようなときにこそ、晴景のベテランとしての知識と経験が欲しかった。

 だが。

「申し訳ござらぬが……」

 年のせいかこのごろ体調がすぐれぬゆえ、勘弁してほしい、というのである。 

「このような様では、かえって足手まといになるより他はなく。皆の足を引っ張るのみでござる」

 と、輝虎がどんなに是非というのも聞かない。

 ふと気がつけば、なにやら震えているようだ。

―臆したか。―

 やはり、年がそうさせるのだろうか。

「わかった。では、いつも通り留守をたのむ」

 結局、そういうしかなかった。

「晴景殿ももうろくなされたわい」

 十兵衛が憎憎しげに舌打ちしながら言った。若い頃、なにかにつけて若造と呼ばわっていたくせに、今の晴景はただの臆病な老人に成り下がってしまった。

「十兵衛、そこまでいうことはあるまい」

「いいえ、言わせていただきます。この、大高家の一大事というときに、己の安穏のみを考え亀のように頭を引っ込めるなど、同じ家来として許せぬのでござる」

 大高家の一大事。十兵衛も、事の大きさがわかっている。わずかな手勢で城を落とせなど、まるで死ににゆけ、といわれているのと同じではないか。

 それを、いやとも言えず、黙ってゆかねばならぬとは。

 結局のところ、捨て駒ではないか。どうしてかは知らぬが、捨て駒になることを強要されたのだ。それに従うのもまた、忠義だという。

 特に十兵衛の父は、大高家が中村家に攻められた際にわざわざ戦死したのだ、その悔しさは言葉では言い表せない。

 輝虎とて、わかっている。舅が近隣よりどう思われているか、また自分たちはなにをしているのか。

 しかし、どうして家成は突然そんなことを命じたのか。そこが腑に落ちない。

 どこでもよいから、一つ城を落とせ、と。あまりにも曖昧な命令であった。そこに何の戦略的意義があるのだろうか。

 いや、もし落とせなかったらどうするのだろうか。

 輝虎の脳裏に、思い浮かべたくないことがありありと思い浮かんでくる。それを振り払うように。

「とにかく、出陣じゃ。あとは出陣してから考える」

 とだけいうと、奥へと引っ込んでいった。

 家来を背に奥へと引っ込むなど、こんなことは初めてだった。そんな輝虎を見て、十兵衛は苦い顔をする。

 輝虎の行く先のことを、思う。それに罪はないとはいえ、それのためにいまのようなばかばかしい命令を下されたようなものだから。

 ふと、桑の実の味を思い浮かべた。その桑の実を配っていた小さな手のことを思うと、気持ちはますます複雑なものになってゆくのであった。




第三章「赤日」その十七


 輝虎はお雪のいる部屋へと来ると、ごろんと横になり。

「戦だ」

 とだけ言った。

「さきほどの、父よりの使者はそれでありましたか」

「そうだ。いますぐ出陣して城を落とせと言った」

「え?」

 さすがにこれにはお雪も驚いた。先の戦から戻ってきてひと月も経っていないというのに、またゆけという。しかも、城を落とせ、とは。

 しかし、それよりも驚いたのは輝虎の様子であった。部屋へ来るなりごろんと横になるなど、そんな無作法な真似はいままで一度たりともなかったのに。

―なんと無茶なことをいうのだろう。―

 と、父に対して思った。輝虎の今の様子は、そのせいだとすぐに察しはついた。

 思えば、戦戦で心休まる時がない。今はそんな世の中だとはいうものの。

 輝虎は寝転んでじっと天井を見据えている。かと思えば。

「ややは、まだか」

 といった。

「それは……」

「まだか」

 言葉を詰まらせるお雪に、輝虎はため息をつく。

 が、ため息をついたことに気付き。がばっと半身を起こし。

「あ、いや、深い意味はないぞ。気にするな。そなたが元気であれば、それでよいのだ」

 と、慌てていった。その慌てぶりがおかしく、お雪はくすっと笑って。

「お疲れのようですね。わたくしの膝を」

 と、膝枕を申し出た。

「ああ、ありがとう」

 と、輝虎もお雪の申し出のまま、膝を枕にしてふたたび寝転んだ。ふと、包まれるような良い匂いがした。

 戦支度をせねばならぬが、少しくらい遅れてもかまわないか、と。膝の心地を確かめながら、目を閉じた。

 なぜか、お雪を見ようという気になれなかった。

 目を開けられなかった。

 その代わりのように、式頭城で初めて会った時のことが、閉じられたまぶたの裏に浮かんでは消え、また浮かんでは消え、を繰り返していた。

 お雪も、そんな輝虎を見て。輝虎が千丸と呼ばれていた年少のころを思い出していた。

―うそつき。―

 心の中で、ぽそっとつぶやいた。

 あの時、千丸少年は鞠が好きだといったが、ずっと後でそれが嘘だとわかった。

「とんでもございません。殿は鞠で遊ぶようなことはございませんでしたよ」

 初めて会った時のことをお凛にはなしたら、そう驚いて言ったものだった。

 でも、どうしてそのようなうそを言ったのかを思ったとき。このまま騙されていようと思った。千丸は千丸なりに、お雪と仲良くしようと必死だったのだ。

 その必死さが、いまは……。

 できることなら、またあの頃に戻りたかった。

 千丸の必死さが、お雪にのみ向けられていた、あの頃に。

 しかしふたりの時は少なくて、昔の思い出に浸ることも満足に出来ず。すぐに、という命令のため輝虎はお雪の膝にいつまでもいられず、四半刻(三十分)もせぬうちに起き上がり。

「では、ゆくか」

 と言って部屋を出ようとする。

「いましばらく」

「ここに、というか。そうしたいのは山々だが」

「なりませぬか」

 輝虎は物言わず頷いた。お雪の瞳が濡れているように見える。

「おれが戦にゆくのが、そんなに悲しいか」

 喉につまりものがあるような言い方だった。

 お雪が何を言いたいのか、わかっている。しかしそれは、武士の妻にあるまじきことでもある、と輝虎は思っていた。いや、思おうとした。

 だがそれは、口には出せない。

 心の片隅で、同じことを思う自分がいるのも、また確かだったからだ。

 できることなら使者に、「いやでござる」と言ってやりたかった。

 それができれば、どんなに楽なことか。

 お雪を妻として愛してゆきたい、そのために、ゆかねばならぬ。という葛藤が、胸中を支配する。 

「ご武運を、お祈りいたしております」

 濡れた瞳のまま、意を決するようにお雪はいった。輝虎は、そんなお雪を見て、一家の主として、静かに頷いた。




第三章「赤日」その十八


 輝虎率いる二百の軍勢が大高の郷を出立する。菖蒲の旗が風になびく。

 郷を出るとき、目についたもの。田畑が荒れている。

 度重なる戦で働き手を狩り出されて、土地の世話をするものが少なくなり、かつて豊かだった土地が徐々に荒れてきている。

 兵の中に、荒れた田畑をいたたましそうに見るものがあった。

 戦がなければ、鋤や鍬を手に田畑を耕し耕作物を収穫していたはずである。

 その働き手が、戦のたびに少なくなってゆく。はたして、こたびの出陣でどのくらいのものが死んでしまうのであろうか。

 このまま戦が続けば、大高の郷には男が消えていなくなってしまうのではないか。

 そう思うものまであった。

―結局、我らはなんなのであろう。―

 中村家成の家来で娘婿。舅への義のために、戦う。建前としてはそうだ。しかしそれは輝虎ひとりの問題であり、下々のものにしてみればただ辛いだけなのではないか。

 義、とはなんぞや。

 自分にそう問いかける。

「殿」

 十兵衛が物憂げな輝虎を見て、声をかける。

「そのように暗い顔をしてはいけませぬ、大将は常に明るく強く、ですぞ」

 という。

「明るく強く、か」

「左様。でなければ、士気に響きます」

「そうだな」

 と、すこし笑ってみせた。十兵衛とて、わかっている。しかし出陣するとなれば、戦に専念せねばならない。ここで気持ちを暗くしてしまえば士気がさがり、それこそ生きて帰れる確率が下がってしまうではないか。

「そうだな」

 というと、すぅっと大きく息を吸って。

「聞け」

 と後ろを向いて、家来たちに呼びかける。

「こたびの出陣で城を獲れば、おそらくその城をいただくことになるであろう。そうなれば、大高家の所領も増え、お前たちに分けてやれる褒美も同じように増えるぞ。新しい田や畑が欲しいのならば、今まで以上に励むことだぞ。わかったか」

 と大声でわめいた。

 大声を出せば、気持ち心がすっきりするような気がした。

「褒美がふえるのでござるか」

「そうだ。存分に励めよ」

 その輝虎の呼びかけに、兵たちの気持ちは徐々に昂ぶってゆくようで。

「そうじゃな、励めば励んだ分だけ褒美がもらえる」

「もうひと頑張りじゃ、もうひと頑張りすれば新しい土地がもらえるかも知れぬ」

「やろうではないか、わしとて男じゃ、女房こどもにえいところを見せたいものじゃて」

 と、お互いを励ましあい、士気を上げてゆく。

 それもまた、いたたましいような気がしないでもなかった。

 自分たちは、わずかな手勢で城を落とせという理不尽な命令のために出陣しているのだ、これはいわば、特攻のようなものである。

 それを忘れさせねばならない。

 痛む心を抑えて、輝虎は、えいえいおう、と兵たちに鬨の声をあげさせていた。鬨の声をあげながら、皆、頭の中で明るい未来を描いているようであった。




第三章「赤日」その十九


 郷を出立して、やがて久遠の城へと着いた。まずは実成と合流すべく久遠の城へとゆくべし、という指示だった。

 ここには、久しぶりに来る。かつて才木長久に攻められたのを救援すべくいそぎ手勢を率い駆けつけ、その才木長久の軍勢を追っ払ったものだった。

「よう来られた」

 と広間の上座から声を掛けたのは、実成ではなく、年のころ三十半ばの武将だった。こたびの出陣には軍監として、戦地に赴くことになっている。

 軍監とは主将(この場合は中村家成)から直接命令を受けて陣地へと赴く代官のことで、大将らの功罪についての監視と作戦参謀長の役をつとめる。

 たしか名を聖通時ひじり・みちときといった。その通時は高飛車な態度をとって、あごをあげ気味に、威嚇するような目で輝虎を見ている。

―また須木矢主水のような男だな。―

 と、心の中で舌打ちする。いかに相手が家成の娘婿とはいえ、所領に家禄、仕えた年数、すべて家来としての立場は通時が上なのだ。それで、尊大な態度をとっている。通時にすれば。

―おぬしごとき若造が家成公にお目をかけていただき、こともあろうにおひい様までいただくなど、分不相応である。―

 と言ってやりたいのかもしれない。

「お早いお着きであるな。殊勝でござるぞ」

 と、やはり尊大な態度でいった。

「ありがたきお言葉でございまする」

 と返しても通時は、ふん、と知らぬ顔の権兵衛であった。

 この通時、実成謹慎の監視役としても、久遠の城に居座っていた。いうまでもない、実成に叛意ありとなればすぐさまそれを取り押さえるためである。

 そんな役目なのだから、一応人数は揃えてある。その人数は百名。この百名もゆくのだから、城獲りにはあわせて五百名余の人数でゆくこととなるが、それでも、やはり城攻めには少ない。

 尊大な態度は気に食わないが、それはともかくとして、通時はこのことをどう思っているのだろうか。

 脇にいる実成は黙っている。

「さて城攻めの件であるが、どこの城を獲るかはおふたかたで決められよ。それが決まれば支度をととのえて出陣じゃ」

 それだけいうと、さっさと奥へと引っ込んでしまった。

―御家中には、なんと高飛車な人の多きことよ。―

 と、内心うんざりする思いであった。

 そしてまた、これである。やる気が感じられない。

 だがそれも仕方あるまい。捨て駒の行く末を見届けよなど、そんなのは面倒なだけだ。

 しかし、なぜ自分たちは捨て駒としてゆかねばならないのか。

「輝虎殿」

 というと実成は深々と頭を下げ。

「面目ない」

 というではないか。輝虎は驚き実成をまじまじと見やった。

「な、なにがでござるか」

「こたびの出陣のことでござる」 

「それが、なにか」

 実成は知っているようである。実成が知っているということは、通時も知っているかもしれない。固唾を呑んで続きを待てば。

「それがしをお庇い(おかばい)くださったこと、お屋形さまのご勘気にふれたようでござる」

「なんですと」

 信じられないことだった。あのとき、許してくれたのではなかったのか。しかし実はそうではなかった、ということか。

「やはり、お屋形さまは内心は大変お怒りのご様子であったそうで。しかし償いにどこかの城を獲り差し出せば、全ては水に流そう、と申されたそうな」

「そ、そのようなことを……」

「そうです。通時殿より確かに聞いた事でござる、間違いござるまい」

「……」

 絶句するしかなかった。許してもらえなかったのだ。許すそぶりを見せ、このような仕打ちとは。

 家成は、輝虎のことを婿とは思っていなかったのか。では、お雪は。お雪はどうなる。輝虎が死ねば、お雪はどうなる。

 知らずに、身体は震えていた。

―捨てられた。―

 と思った。自分も、お雪も。

 そんな冷たいもののために、自分は戦っていたというのか。そんなものへの義のために、戦ってきたというのか。

 綾山常光という強敵と戦っている最中に、そのようなことを平気でしでかすとは。これにはさすがに、輝虎も愚かと思わざるをえなかった。

 だが、だからといっていつまでも落ち込むわけにもいくまい。歯を食いしばって震えをとめ。実成の手をとり、握りしめ。

「ご案じめさるな。それがしが一番槍をつとめ、見事城を獲ってみせましょうぞ」

 と強気を見せた。 

 城を獲れば許してくれるという、なら、そうしてみようではないか。

 実成は、かたじけない、というしかなかった。




第三章「赤日」その二十


 夜も更け、月がたくさんの星たちを引き連れ夜空に浮かぶ。

 闇がすべてを包み込む。

 式頭城も、中村家成も、なにもかも、包み込む。覇者を志すものといえど、この自然の摂理に抗う事は出来ず。

 燭台の火で、わずかでも払いのけようとする。部屋に、ほのかに灯がともる。

 ともる灯のなかに浮かび上がる、蒼白の美少女。

 お鹿は、灯のなかに座りこんで、長い黒髪をだらんと着物の背に垂れ下げて、燭台を眺めていた。

 瞳の中で、灯がゆれている。

 家成は来ない。

 最近、新しい女を手に入れたようで、お鹿は相手にされなくなってしまっていた。

 その陰気な性格が、家成の気に障ったようで。

 ならいっそ、尼にさせてほしい、と思ったが。それすらも許されない。つけず、はなさず。とりあえず、一応は置いておこう。そんな感じだ。

 そんな飼い殺しにされていて、心に来ないわけもなく。

 満足に食事も取らず、夜も眠れず、ときおり城内をさまよい、世話役の女たちをこまらせることもしばしばであった。

 自分がなぜ生きているのかわからない。

 自分自身が木偶になりつつあるようだが、それすらも気付かない。

 それ以前に、なぜ自分がこのような目に遭うのか。一族は滅ぼされ、自分は慰みものにされ、挙句の果てにこの仕打ち。

 もはや人として生きてゆくことは叶わないのであろうか。

 灯をともす椿の油がなくなったか、部屋が暗闇に包まれた。

 だがお鹿は意に介する様子もなく、闇に包まれるままに任せた。

 それから夜が明けて、世話役の女たちがお鹿の部屋にやってくると。

 お鹿は、燭台を眺めたままの姿で、ぼお、っとしていた。

 朝日が差し込むなかにあっても、その姿はゆらぎ、さながらかげろうのようであった。

 世話役の女は首を横に振り、一歩下がって、また一歩さがって、お鹿から遠ざかっていった。 


続く


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