菅原道真は林田湊に向かいたい
讃岐守としての新たな職務に身を投じるため、道真は遠い讃岐国への旅に出た。その旅路は船であり、淀川の流れを下る船旅であった。淀川は穏やかな流れを持ち、船は静かに水面を切って進んでいった。しかし、その静けさは道真の心に緊張感を与えた。
「新しい地での生活が始まるんだな。これからの生活、どんな風に変わるのだろうか」
道真は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。心の中で迷いや期待、そして緊張が入り混じる感情を抱えていた。新たな職務、未知の土地での生活。それはまさに新たな一歩の始まりであり、心にわだかまりもあった。
船がゆっくりと進む中、道真は風を感じながら、周囲の景色を楽しむことにした。岸辺に広がる風情ある景色が道真の心を魅了した。そこには鮮やかな桜の花が満開に咲き誇り、人々が船を楽しみながら眺めていた。桜の花びらが風に舞い、笑顔に満ちた人々の声が心地よく響いた。
「あの花達は、新たな生活への幸運を願っているかのようだな」
道真は静かに美しい風景に身を委ねた。桜の花が風に揺れ、川面に映るその姿は、まるで幻想的な光景であった。
やがて船は難波津に到着した。
「難波津に到着したようだ。賑やかな港だ」
難波津は古代からの港である。万葉集には「難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ」と遣唐使の船出を詠んだ歌がある。古代は外交の玄関口であったが、この頃は民間中心になっていた。多くの漁船や商船が行き交っており、活気に溢れていた。船頭が荷物を下ろし、港の人々が忙しなく歩き回り、声が響き渡っていた。
船は瀬戸内海を西に進んだ。海の表情は時には穏やかで、時には荒れた波に揺られた。道真はその全てを楽しんだ。船の揺れに身を委ね、海の神秘的な魅力に心を奪われた。道真は船上で船員達との交流を深め、海の中の生き物などを学んだ。彼らの話に耳を傾けながら、自然の中にある様々な美しさや不思議さを発見し、それに魅了された。
船が静かに進みながら、讃岐国の景色が次第に見えてくる。
「玉藻よし讃岐の国は国柄か見れども飽かぬ」
道真は柿本人麻呂の詩句を静かに詠みながら、讃岐国の風光明媚な風景に思いを馳せた。「玉藻よし」という言葉は、讃岐国を称賛する際の枕詞であり、讃岐の美しさとその国柄に感嘆の意を込めたものである。人麻呂は讃岐国が優れた国柄のためか、美しい景色が広がっており、見て飽きることはないと絶賛している。
やがて船は目的地の讃岐国阿野郡林田郷の林田湊に到着した。
「讃岐の地、林田湊に到着致しました」
船頭が告げた。林田湊は讃岐国府の玄関口である。綾川を通じて舟運で国府と繋がり、大量の人や物資の流通を担う国府の港として機能していた。国府は讃岐国の地方政治の中心地であり、道真の赴任する場所であった。