菅原道真は冤罪の無念を和歌にしたい
道真は冤罪の無念を和歌にした。
「東風吹かば匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」
風に揺れて梅の花が香りを放つことを求めている。その美しさを楽しむことで、季節や人とのつながりを感じることができる。梅の花は季節や人とのつながりを象徴する。春の美しさを感じることができ、孤独感を払拭する力を持つ。
「あめの下のがるる人のなければや着てし濡れ衣干るよしもなき」
雨の降り続く天の下一面は乾いている所がないからか、冤罪の濡れ衣を乾かして晴らすこともできない。
冤罪の無念の和歌と言えば「東風吹かば」が有名である。しかし、「あめの下」には冤罪の無念がよりストレートに表現されている。
道真の失脚には官打ちの呪いという俗説がある。高過ぎる官職に就くと、かえって不幸な目に遭い、命を縮めるとする。宇多上皇の高すぎる期待が呪いになったという面はあるだろう。
この官打ちの呪いは後の源実朝にも指摘された。源実朝も道真と同じ右大臣に任命されたが、右大臣拝賀の日に鶴岡八幡宮で暗殺されてしまった。これを後鳥羽上皇の官打ちの呪いとする俗説がある。
しかし、後鳥羽上皇は実朝とは良好であり、実朝の官位を上昇させて鎌倉幕府内の立場を強化させようとした。逆に実朝暗殺に絶望して倒幕に傾斜としたとする説が有力である。右大臣は後鳥羽上皇が実朝に期待した故の昇進であったが、これも期待が呪いになる。
道真と実朝には他にも共通点がある。以下は実朝の最後の和歌とされる。
「出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」
主人のいない宿という孤独感が表現されている。その孤独を癒すように、「軒端の梅よ春を忘るな」という呼びかけがある。孤独感と梅の花の美しさが組み合わされ、寂しい思いを吹き飛ばす印象がある。
「出でていなば」の和歌は道真の「東風吹かば」を意識している。実朝の和歌は万葉調とされ、京の公家の和歌と趣きと異なるところが、後世の人々に評価されている。しかし、実朝は本歌取りの和歌も多く詠んでいる。
実朝は承元元年(一二一一年)に北野神社の庭の梅を種子とする梅の木を御所の北面に移植しており、道真を意識している。
但し、実朝が「東風吹かば」を意識して「出でていなば」の和歌を詠んでいたとしても、冤罪の無念まで本歌取りしたかは議論が分かれる。実朝は梅の花を愛した歌人であった。「軒端の梅」の和歌は他にも詠んでいる。
「この寝ぬる朝明の風にかをるなり軒端の梅の春の初花」
実朝が暗殺を予期して道真の冤罪の和歌と重なる和歌を詠んだとする見解がある。「実朝は官位が昇進するなかで孤立感を深め、皆が離れてゆくのを実感していたものと考えられ、公暁から刃を向けられないまでも、誰かに襲われることは覚悟していたのかもしれない」(五味文彦『源実朝 歌と身体からの歴史学』角川選書、2015年、249頁)
逆に「出でていなば」の和歌は道真の二番煎じ色が強く、道真と実朝の運命を重ね合わせた後世の人が作出したものとの説がある。「『六代勝事記』の著者と思われる藤原長兼が、歌人としての実朝を悼んで詠んだ代作であり、『六代勝事記』を原史料とした「北条本」の『吾妻鏡』が惨劇の予兆として、あえて取り込んだものであったと考えたい」(坂井孝一『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』講談社、2014年、264頁)
実朝暗殺時に政所別当の源仲章も一緒に殺害された。この仲章は道真の子孫と縁がある。菅原家は鎌倉時代も学者の家として続いた。仲章は菅原長守の弟子であった。学問の家の生まれではないが、学問に励んだ人物と評されている。
長守の子の菅原為長は北条政子の依頼で『貞観政要』の仮名文を作成して献上した。これは鎌倉幕府三代将軍・源実朝の教育に使われた。さらに為長は実朝の侍講に源仲章を推挙した。




