菅原道真は内覧を生み出したい
宇多上皇は譲位してからも道真らのブレーンを側近として実権を握った。ここで道真は内覧と院政という平安時代の政治を規定する仕組みを生み出した。道真の知恵と決断力が、時代を切り拓く重要な役割を果たすこととなった。
時平と道真に許された特権は内覧と呼ばれる。天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見ることである。内覧は摂政や太政大臣のような地位ではなく、職務である。職務であるために実権がある。地位よりも役割を求めるジョブ型の発想がある。地位よりも役割、職務に焦点を当てた発想が成功の鍵だった。
後の長徳元年(九九五年)に道真と同じく権大納言の藤原道長が藤原伊周との権力争いを制して内覧に任命された。道長の姉の詮子は道長の関白任命を求めたが、それは実現しなかった。「権大納言に過ぎなった道長を執政者とするには、関白に任じるわけにはいかず、そこに内覧という地位が二十三年ぶりに復活した」(倉本一宏『藤原道長の権力と欲望 「御堂関白記を読む」』文藝春秋、2013年、41頁)。
一方で道長は内覧を最大限に活用した。道長は摂関政治の最盛期を現出した人物とされるが、関白に就任せずに内覧に留まり続けた。関白になると太政官の合議に参加できなくなるためである。地位が上がると名誉職的性格が強まり、実権から遠ざかることを嫌った。
「正式の摂政・関白になると官符作成の上卿になれないのに対し、内覧だとそれが可能であることから、みずから上卿として政務を執りたいという希望をもち内覧のままでいた」(森田悌『王朝政治』講談社、2004年、67頁)
地位だけでは権限が得られないことは関白も同じである。後の藤原実頼は関白に就任したが、天皇の外戚でなかったために揚名関白と呼ばれた。名ばかり関白という意味である。平安時代末期には藤原忠通が関白、弟の頼長が内覧になり、関白と内覧が併存し、内覧の頼長が実権を握った。
宇多上皇は院政の先駆的な存在になった。上皇(太政天皇)は天皇を退位した人がなるものであるが、隠居ではなく、政治権限の上で天皇と同格以上の存在であった。最初の上皇は持統天皇である。持統天皇は孫で幼少の軽皇子を即位させるために、その成長を待つために自ら天皇になった。そのような持統天皇であるから、軽皇子が文武天皇として即位した後も実権を持ち続けた。
孝謙上皇も淳仁天皇への譲位後も政治の実権を持ち続けた。
「朝廷の祭祀と小事は今帝行ひ給へ。国家の大事と賞罰は朕が行う」
孝謙上皇は上皇の優越を宣言し、淳仁天皇を廃してしまった。
平城上皇も嵯峨天皇と並び立つ存在になり、この状態は二所朝廷と呼ばれた。この対立を薬子の変で解消した嵯峨天皇は、譲位後は天皇中心の政治を尊重し、自分は一歩下がった。しかし、これは嵯峨天皇の自制によって実現したものであり、上皇の権威が消滅した訳ではなかった。後の院政での上皇の権威は天皇の父親であることによるところが大きいが、上皇そのものの権威による面もあった。
「公的な場における私的な関係の進出という一般的風潮にのって、「父子の儀」を背景とする上皇の発言力が次第に強められたことにもよるが、一面では太政天皇固有の政治的地位が底流となって承けつがれていたことも見逃してはならない」(橋本義彦『平安貴族』平凡社、2020年、96頁)
天皇の父親としての上皇の権威は、外戚の朝廷支配への対抗となった。藤原北家は自分の娘を天皇の妃にして、生まれた子どもを天皇にして権力を握った。これは姻戚関係による皇室の私物化であるが、儒教道徳から否定できない面がある。
儒学は忠孝を説いている。天皇も母親である皇太后に孝行しなければならない。皇太后は父親である藤原北家に孝行しなければならない。こうして、藤原北家が権力を握ることは一種の正当性を持つこととなった。
道真は藤原北家の権力私物化に対抗しようとしたが、一方で儒学者として天皇が母親に孝行することを正面から否定できなかった。そこで院政が対抗手段になる。天皇は父親に孝行しなければならない。この論理で宇多上皇は藤原北家に対抗できた。
この論理は白河法皇に始まる院政に継承された。院政になっても国政上の重要な決定が天皇にあることは変わらず、上皇が執行することはできなかった。天皇が父親や祖父の上皇に孝行することで上皇は院政を行うことができた。院政が天皇の父親や祖父であることを要件とした所以である。元天皇だから治天の君になれるのではなく、現天皇の父親や祖父だから治天の君になることができた。道真は院政の発明者であった。
道真は宇多上皇から院御所で諮問を受けた。
「道真、最近の情勢を考えると、朕の護衛を強化する必要があると感じている」
「はい。滝口の武士たちを中心に、院武者所を設けて警護を強化致しましょう」
「それは心強い提案だ。滝口の武士たちは信頼できる者ばかりだからな」
院武者所の武者は宇多天皇時代の滝口の武士の大部分を任命した。これは滝口の武士が天皇と私的な主従関係の性格を持っていることを示すものであった。
菅原道真が滝口の武士らに対して演説を行い、院武者所の発足を宣言する。
「皆の者、今日より院武者所が正式に発足する。滝口の武士達は院の護衛として、その忠誠と力を発揮してほしい」
武士ら一斉に頭を下げ、道真の言葉に応える。
「はい、我々が全力でお守り致します」
院武者所の武士らが初任務として宇多上皇の護衛を行う。
「全員、気を引き締めて。院の安全が第一だ」
緊張感が漂う中、道真も現場を見守る。
「この者たちが院を守ってくれる。信頼しているぞ」




