菅原道真は遣唐使を廃止したい
道真の遣唐使廃止提案は大きな議論を巻き起こした。一部の政府関係者や学者は、遣唐使の伝統を守るべきだと主張し、文化的な交流や外交の重要性を強調した。しかし、道真は自身の経験や調査結果を元に、その理由を具体的に説明した。各地で多くの討論が行われた。遣唐使の伝統を重んじる声もあったが、道真の提案には合理性があるとする意見も出た。
道真は各地で議論し、自身の主張を広く認知させた。民間貿易の発展により、唐の文化を吸収する手段として遣唐使を必要としない時代が訪れていることを説明した。また、遣唐使派遣の危険や財政への負担を強調し、国家の発展のために資源を適切に配分すべきと訴えた。
道真は遣唐使が新羅問題の解決にならないことを説明した。九州を襲う新羅人は新羅王朝の衰退によって生まれた流民や海賊である。新羅王朝に力がないから生じている事態であり、新羅王朝の統制に期待できない。唐も内乱を抱えており、新羅に圧力をかける力はない。新羅の海賊対策は九州や対馬の防衛強化を提案した。
議論は激しくなったが、道真の主張は次第に支持を集めるようになった。その説得力のある論理と現実的な視点は、多くの人々に理解され、共感を集めた。道真の提案は、新たな時代の要請に即したものであり、社会の発展と合理的な資源配分に賛同する者が増えていった。
宇多天皇は道真の提案を受け入れることを決定し、新たな外交政策を模索することとなった。正式な廃止決定はなされず、道真は遣唐大使のままであった。この点は決定できない公務員組織の駄目なところが出ている。道真は一定のジレンマに直面した。道真は遣唐使のままでありながら、新たな外交政策に取り組む必要があった。
遣唐使の廃止は一部の人々には寂しい別れであり、伝統の終焉であった。とはいえ前回の遣唐使は約六〇年前であり、既に事実上廃止されているようなものであった。道真の遣唐使廃止は日本史の教科書にも掲載されているが、道真のしたことは廃止よりも復活阻止が正しい。
以後は唐の模倣ではなく、日本独自の文化である国風文化が発達した。道真は勅撰和歌集の編纂を企画しており、漢詩から和歌へのトレンドの変化も見据えていた。和歌を通じて日本独自の美意識や文化を表現し、文化の発展に寄与したいという強い思いを抱いた。
しかし、遣唐使の廃止を江戸時代の鎖国のように考えることは正しくない。民間の貿易は活発に行われていた。「当時文物の輸入は民間の貿易とともにますます盛んになり、もはや遣唐使の必要がなくなったというのが実際である」(伊藤正敏『寺社勢力の中世 無縁・有縁・移民』筑摩書房、2008年、118頁以降)
数年に一度の遣唐使よりも民間貿易船の方が海外文化の流入にインパクトがある。民間貿易船は公的なものではないため、遣唐使と異なり、役所の文書には記録されない。そのため、歴史学者の目に留まりにくく、取り上げられにくい。




