菅原道真は桓武朝を振り返りたい
道真は宇多天皇の側近としての役割を担うこととなった。道真は宇多天皇の信頼を得つつ、天皇の政務や政策に対する助言をする重要な存在となった。道真は天皇の側近として精力的に働いた。道真は宇多天皇の理念や信念を理解し、それを具現化するために様々な政策や改革を提案した。国内外の情勢や民意を適切に把握し、的確な判断を下すことに尽力した。
宇多天皇は道真を高く評価した。
「道真は学者としての才能がある。それに、あの頭の回転の速さは尋常ではない。あれほど優秀な人間は見たことがない」
宇多天皇は道真の有能さを高く評価するとともに、道真の人柄についても高く評価していた。
「道真は真面目過ぎるところが玉に瑕だが、そこが可愛いところでもある」
宇多天皇は道真のことが好きだった。
「道真がいれば安心して死ねる。道真ならばきっと私の期待に応えてくれるだろう」
道真は京の政治の中で様々な陰謀や対立に直面した。彼の公正さや信念は多くの人々から支持されていたが、既得権益は根強く、道真の前には困難が立ちはだかった。道真は自らの心の葛藤と向き合いながらも、公正さを保ちながら政治に取り組んでいった。
彼は周囲の人々との対話を通じて、様々な意見や視点を尊重し、最善の選択を模索した。道真の姿勢と行動力は、徐々に周囲の人々の信頼を勝ち得ていった。彼の誠実さと公正さは政治の闘いの中で光り輝き、人々の間で高い評価を受けた。
宇多天皇は天皇になる予定の存在ではなかった。臣下としての経験を持っていたことが逆に指導力を発揮することになった。この点は桓武天皇(山部親王)と共通する。山部親王は生母の出自が低いため、天皇になることは想定されていなかった。しかし、皇后の井上内親王と実子で皇太子の他戸親王が廃されたことで皇太子になった。
桓武天皇は平城京から平安京に遷都し、平安時代という新時代を始めた天皇である。桓武天皇は自己の政策を推進するために母方の出自の低さを補おうとした。母方の祖母は土師氏であり、埴輪など墓葬に関わる一族であった。桓武天皇は土師氏に大江、菅原、秋篠の姓を授け、政治の舞台に登場させた。この菅原氏から道真が登場する。宇多天皇は道真を重用することでその指導力を借り、政治の舵取りを試みた。
一方で桓武天皇は怨霊を生む側であった。井上内親王の廃皇后と他戸親王の廃太子は政争により冤罪であった。二人は庶民に落とされて大和国の宇智郡の邸に幽閉され、急死した。その死は自然死ではなく、暗殺とされた。彼らは怨霊として畏れられ、その怨念は都に漂い始めた。
桓武天皇は弟の早良親王を藤原種継暗殺の容疑で廃太子にした。早良親王は無実を訴えたが、淡路国に配流される途中に急死した。その死因には異説があり、抗議の絶食によるものとされる一方で、桓武天皇が意図的に飲食物を与えないで餓死させた可能性も囁かれていた。早良親王も怨霊として畏れられ、崇道天皇と追称された。
道真は冤罪被害者として怨霊になる逆の立場である。怨霊信仰が広まり、後の天神信仰を準備した時代であった。奈良時代も長屋王の変のように怨霊として畏れられる冤罪事件は存在した。この時代も藤原四兄弟が天然痘で亡くなることが祟りと言われるなど怨霊信仰は見られる。一方で『論語』の「子は怪力乱神を語らず」という意識もあり、表向きは怨霊を無視していた。平安時代から怨霊が堂々と畏れられるようになった。
また、早良親王には飲食物を与えないで餓死させたとする説があるが、それは後に大宰府に左遷された道真に対する手口と重なる。怨霊の魂は時空を超え、歴史の中で交錯し、語り継がれる運命にあった。




