菅原道真は讃岐守を嘆きたい
才能を活かすことができないことは、非常に苦しいことである。失望で気持ちが一杯になった。自分の才能を活かせなくなったことに対して悲しみ、その後の人生についても不安を感じた。このような非常事態に直面することは、誰にとっても辛いものである。
役割に反する仕事を押し付けられることほど屈辱的なことはない。転生前の人生でも役割に反する仕事を押し付けられた屈辱がある。他にやる人がおらず、能力があるというだけで役割に反する仕事を押し付けることは不正義である。目の前の問題を解決することしか考えない。
役割に反する仕事を押し付けておきながら負担を減らそうとしない。どうしても役割に反する仕事をしつけなければならないとしたら、できるだけ最小限にすることで負担を減らそうとするものである。ところが、分からない人の質問に答えさせるなど余計な負担を増やすことしか考えない。役割に応じた成果を上げるよりも、目の前の仕事が回ることを良いことと考える近視眼的な発想である。
人は役割に基づいて仕事をしている。役割に反する仕事を押し付けられたならば反発する。組織が人にやらせたいことがあるならば、きちんと役割を定義することが筋である。きちんと役割を定義することができない。しかし、誰かにやってもらいたい。それなのに使い潰すだけの覚悟もないという保身第一の役人体質の卑怯な人間は能力のありそうな人に押し付けて、これまでのスキルと能力を活用して頑張れと要求する。これは最低である。それを適材適所と良いことであるように考えるならば、役割を理解していない。ロールベースならば適材適所ではなく、適所適材である。
点数稼ぎのヒラメ役人体質ならば押し付けられて喜ぶかもしれないが、役割を考える人間ならば、役割に反することを押し付けられて、その仕事が評価されても「馬鹿にするな」と言いたくなる。役割に反する仕事を押し付けなければならないならば、「仕事ができなくて当然だ」くらい言うことが配慮である。
わざわざ職場の忘年会で名前を読んで「担当外の仕事も果たした」と全員の前で貶めようとした。「担当外の仕事も果たした」と評価するならば、まるで本来の担当の仕事ができないから担当外の仕事をしているように聞こえられる。それは担当者を貶めるマイナス評価になる。名前を呼ばれることを事前に知ったため、そのような忘年会は欠席した。忘年会スルーである。
道真は私塾の管家廊下を運営していた。最初は菅原家の書斎で講義していたが、学生が増えて廊下にも広がったために管家廊下と呼ばれた。この日も菅家廊下では学生らが座り込み、熱心に勉強していた。
「あなたの教えがなければ、私達はここまで来ませんでした」
「私達はあなたの教えを忘れず、学問の灯を絶やさないでしょう」
学生らは道真に近づき、心からの感謝を伝えた。
「私も讃岐守として仕事を全うしますが、学問への情熱は決して失われません」
道真は学生らの言葉に勇気づけられ、決意を新たにした。
管家廊下の学生達は強力な学閥を形成していた。道真の讃岐守任命は、菅家廊下の勢いが増大することを恐れた学者達による陰謀であった。彼らは道真を都から遠ざけようとした。
「道真は讃岐守として遠くの国に行くことになる。菅家廊下の影響力を弱める絶好の機会だ」
「そうだ。彼を都から遠ざけ、私たちの学閥を築かねばならない。彼がいなければ、私たちが主導権を握れる」