藤原基経はボイコットしたい
道真が雨乞いの儀式をした仁和四年(八八八年)に都では阿衡の紛議が起きる。当時は藤原基経がキングメーカーになっていた。彼は知略に長けた政治家として知られ、その強いリーダーシップで権力を掌握していた。
光孝天皇は仁和三年(八八七年)八月に重病に倒れ、後継者のいない状況に直面した。光孝天皇には東宮(皇太子)がおらず、その苦悩は深まるばかりであった。基経は臣籍降下していた源定省を皇族に復帰させて東宮にすることを要請した。これを受けて定省は親王になり、皇太子になった。
光孝天皇は病床に基経と定省親王を呼んだ。左手に基経、右手に定省の手を取り、力を振り絞って基経に言った。彼の声は弱かったが、言葉は鮮明であった。
「我が子のように定省を輔弼して欲しい」
それが光孝天皇の最後の言葉になった。基経と定省親王はその言葉に心を打たれ、固く誓い合った。彼らは光孝天皇の思いを受け継ぎ、朝廷の未来に尽力することを決意した。しかし、「我が子のように」とはならなかった。
光孝天皇が崩御すると、定省が践祚して宇多天皇となった。宇多天皇は基経のお陰で天皇になれたものであり、基経に政治を任せるつもりであった。一一月二一日に基経に詔を出した。
「万機詳細に渡って百官を指揮し、案件は皆、基経に関り白し、その後に奏し下すことは、全て従来通りにせよ」
これが関白という言葉の初出である。関白というポストが成立した訳ではない。「関り白す」という役割・仕事ができたことを意味する。現代の日本型組織と異なり、当時の日本は欧米流のジョブ型と親和性があった。
基経は一一月一六日に辞退を表明した。これは本気の辞退ではなく、再三求められて渋々就任する形にしたいという形式的なものである。このため、宇多天皇は改めて橘広相に詔勅を書かせた。基経を関白に任命した。前回と同じ文言ならば芸がない。そこで広相は詔勅に以下の文言を追加した。
「朕と基経は水魚のようなものである。宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」
この文言が問題になった。文章博士の藤原佐世は、阿衡が名誉職で実権がないと指摘した。
「阿衡は位貴くも、職掌なし」
阿衡は中国の殷王朝で任命されたものであるが、具体的な職掌はない。このまま阿衡を引き受けると、職掌のない名誉職に追いやられる危険があった。ここにも地位よりも役割を重視するジョブ型の発想がある。
基経は怒って一切の政務を放棄した。宇多天皇は基経に職務復帰を促したものの、基経は応じなかった。基経のボイコットによって朝廷は大混乱した。藤原北家の協力なしに朝廷は成り立たないと印象付けた。
基経は陽成天皇の時も政治意思を示した陽成天皇に不満を抱き、自邸の堀川第に籠って、しきりに辞表を提出した。基経の機嫌をうかがう公卿達も基経に合わせて内裏に出仕しなくなった。元慶元年(八八三年)には実務官人は堀川第に赴いて実務を処理するようになっていた。




