花音は北面天満宮に出かけたい
翌日、二人は長崎街道を進み、六座町の北面天満宮を目指した。長崎街道は豊前国小倉から肥前国長崎までの街道で、佐賀を通っている。六座町は穀物座、縫工座、煙硝座、木工座、金銀座、鉄砲座の六つの座で構成されたことに由来する。佐賀藩祖の鍋島直茂が鍋島から商人を呼び寄せて、独占的な商人の集団「座」を設けた場所である。北面天満宮も肥前の国府鍋島町蛎久から移された。
街道の歴史が染み込んだ町並みを歩く中、二人は菅原道真を祀る天満宮に心を引き寄せられた。
「もうすぐ北面天満宮だね」
花音が嬉しそうに振り向くと、風斗は頷いて、少しだけ足を緩めた。
「うん、道真公を祀る神社って、やっぱり空気が違う気がするよな。…知ってる?道真って、学問の神様だけじゃなくて、連歌の神様でもあるんだって」
「えっ、連歌が出来たのは道真公よりも後の時代じゃないの?」
花音が首をかしげると、風斗は少し声を低くして続けた。
「本能寺の変の直前に、明智光秀が愛宕山で連歌を詠んだって話、聞いたことある?」
「ある!『ときは今 天が下しる 五月哉』でしょ?あれって、本能寺の変を起こすことを宣言したとする説もあるね」
光秀は美濃源氏の土岐氏の末裔であった。土岐氏の末裔の自分が天下を治めるという意味が込められているとの説もある。
「そう、愛宕百韻の連歌会では光秀は『乱れふしたる菖蒲菅原』とも詠んでいるんだよ。ちょっと難しい句だけど…」
花音は目を見開いた。「それって、菖蒲と菅が入り乱れているってこと?でも菅原って…道真公の名字じゃない?」
「その通り。菖蒲はね、昔から節句に使われ、武の象徴でもあるけど、ここではちょっと乱れた情景を表してるんだと思う。で、菅原は文字通り菅の原でもあるけど、光秀はそこに、冤罪に苦しんだ道真の影も重ねていたのかもしれない」
「なるほど…光秀って、謀反者のイメージが強いけど、実は心の奥底では道真公みたいに、自分も冤罪で追い込まれたと感じていたのかもね」
風斗は静かに笑った。
「連歌は、過去と今をつなぐ力があるのだよね。道真公が後に連歌の神ともされたのも、きっとそういうところなんだと思う」
二人は鳥居をくぐり、ゆっくりと境内へと足を進めた。北面天満宮は名前の通り、鳥居と社殿が北を向いている。これは神社として異例である。二人は参道をゆっくり歩いた。鳥のさえずりと、かすかに香る風が、二人の間を穏やかに流れていく。空気がひんやりとしていて、夏の暑さが少し和らぐように感じた。
「なんだか不思議な雰囲気だね」
花音が言った。
「この神社、普通の神社とは少し違うんだよ。菅原道真公の霊がいるって伝えられてるんだ」
風斗が応える。
「道真公に会えるかもってこと?」
花音が半信半疑で問いかける。二人は社殿の前に立ち、賽銭箱に硬貨を入れた。
「天神様は時平の讒言で冤罪になったので、お賽銭は紙幣ではなく、硬貨で出します」
花音の言葉に風斗は笑った。それから二人は手を合わせ、静かに祈った。その瞬間、風が強く吹き、木々がざわめき始めた。ふと周囲を見渡すと、辺りの風景が一変していた。かつての六座町がそこに広がり、商人たちが忙しそうに行き交っていた。
「これは…何が起こったの?」
花音は驚きの声を上げる。その時、目の前に白い衣を纏った老人が現れた。その姿はどこか厳かでありながら、穏やかな微笑みを浮かべている。
「そなた達、何ゆえここへ?」
老人が優しい声で話しかける。
「あなたは…菅原道真公?」
風斗が恐る恐る尋ねた。
「そうじゃ。ここ北面天満宮はわしが祀られておる場所。だが、何を求めておるのか、そなた達の心は見えぬ」
道真の霊は彼らを見つめた。花音は少し迷いながらも、静かに言葉を紡いだ。
「私達は、佐賀の歴史や人々の思いを知りたくて来ました。特に、道真公の知恵や経験から何か学びたくて」
道真の霊は静かにうなずき、ゆっくりと語り始めた。
「学びたいと願う心は尊い。わしもかつて、学問を愛し、国のために尽力したが、時に人の思いはねじ曲げられるものじゃ。それでも、真実を追求することを恐れてはならぬ。そなた達も、その志を持ち続けるのじゃ」
道真の言葉は、深く二人の心に響いた。佐賀という土地の歴史の中で、人々の努力や思いが形作られてきたこと、その一部として自分たちも何かを学び、未来へつなげていくべきと感じた。やがて風が止み、辺りは再び静かな神社の風景に戻った。道真の霊は消え、二人は現実の世界に戻っていた。
「本当に…道真公だったんだね」
花音が呟く。
「うん、僕達も何かを学んで未来に繋げなきゃいけないんだ」
風斗も深くうなずいた。風にそよぐ木々の音が、まるで時の層をめくるかのように心地よく響いていた。
花音と風斗は長崎街道を進む。八戸町から長瀬町にかけて道沿いに並ぶ古い家々の形が目に入る。その家並みは独特で、まるでのこぎりの歯のようにぎざぎざしている。
「これ、どうしてこんな形になってるんだろう?」
花音が不思議そうに尋ねる。
「戦いの備えとして作られたっていう説があるらしいよ。家のカギ形の部分に隠れて、敵を不意打ちするためとか、荷車を置くためだとか」
風斗は小さな観光案内板を見つけ、それを読み上げた。
「なるほどね。こんなふうに歴史の中で工夫されてきたものが、今も残っているのって面白いね」
花音は感心したように言う。二人は街道を進みながら、道端に並ぶ側溝の蓋を見つめた。その上には、江戸時代の旅人の姿が絵として描かれている。
「この旅人の絵、当時の人々の生活が垣間見える感じがするね」
花音が笑顔で言った。
「そうだね。長崎街道は江戸と長崎をつなぐ重要な道だったから、ここを旅する人も多かったんだろうな」
風斗が応じる。道を歩くにつれて、花音と風斗の想像はどんどん膨らんでいった。かつての商人たちが荷車を引いて忙しなく行き交う姿、旅行者たちが一息つくために腰を下ろしている姿、そしてこの道を守るために戦に備える人々の姿。長崎街道は歴史そのものが刻まれた場所だった。
「こんなふうに、昔の人々の思いや工夫が今の街並みにも息づいているんだね」
花音はしみじみとつぶやく。風斗もうなずいた。
「佐賀って、福岡と長崎に挟まれていて、観光では少し見落とされがちかもしれないけど、こんなに深い歴史があるんだね。街全体でその魅力を伝えようとしていることがわかるよ」
二人は再び歩き出した。
「佐賀って、本当に特別な場所だね。こういう歴史が大切にされているのを見ると、自分たちも何か残したいって思うよ」
風斗が静かに言った。この街が持つ深い歴史の一部に触れられたことに感動を覚えていた。
「そうだね。この街の空気を感じながら、もっといろんなことを探してみたいな」
花音も前を見据える。のどかな風景が広がる中、二人の心は、過去と未来をつなぐ長崎街道の物語に包まれていた。この穏やかで豊かな歴史を持つ佐賀で、彼らの探求は続いていくのだろう。