豊臣秀吉は北野大茶会を開きたい
戦国時代に終止符を打った豊臣秀吉は菅原道真を信仰していた。秀吉は天正一五年(一五八七年)一〇月一日に九州平定と聚楽第の竣工を祝して北野天満宮境内で北野大茶会を催した。会場の中央には、菅原道真の神霊を招き入れるための祭壇が設けられた。秀吉は菅原道真の霊前に跪き、深い感謝の念を捧げた。
「菅原道真公、吾は九州の平定を果たし、聚楽第の完成を迎えることができました。この喜びを分かち合うために、今日はこの茶会を催し、貴殿の神聖なる霊をお招きしました」
美しく装飾された屏風には豊かな花々や秋の風情が描かれ、祭りの雰囲気を盛り上げていた。菅原道真の霊も、その神聖なる存在を感じさせるように、祭壇の周りに微かな光を灯しているかのようだった。
茶会では茶の湯や芸術、文学の談笑が飛び交い、武将達も武勇譚を語り合っていた。戦国武将達は激しい戦いや政治的な駆け引きに明け暮れていた。しかし、彼らの中にも信仰心を持ちながら、神々への尊敬と信頼を示す一面があった。武将達は戦に生き、命を懸けて国を守る者達であったが、同時に彼らもまた神々への畏敬の念を秘めていた。
秀吉は茶器を手に、菅原道真の霊に向かって再び語りかけた。
「貴殿のお導きがあって、我が世に平和が訪れ、文化が栄えることを感謝しております。この茶の湯を通じて、武士の心と文人の雅な心が交わることで、より豊かな未来が拓かれることでしょう」
茶会は静謐ながらも華やかな雰囲気に包まれ、秀吉と菅原道真の霊の交流は歴史の中に刻まれることとなった。秀吉は、武の力と文化の美を融合させ、時代に終止符を打つ存在として、その名を刻み込んでいくこととなった。
菅原道真の信仰は豊臣家に受け継がれた。秀吉の正室の高台院(ねね、おね、北政所)は慶長一〇年(一六〇五年)に高台寺を創建し、高台寺天満宮を鎮守社とした。冤罪で左遷された菅原道真を鎮守としたことは、北政所の心中に現状を不当とする不満があったのだろう。
この不満は正室を蔑ろにして豊臣家を牛耳る淀殿に対するものとの解釈が伝統的である。これに対して近時は豊臣家の天下を奪った徳川家康への不満とする解釈が有力になっている。関ヶ原の合戦では西軍寄りの行動であったとする。
秀吉の子の秀頼は慶長一二年(一六〇七年)に北野天満宮の社殿を修造した。豊臣家の寺社造営の一環である。豊臣家の金銀を枯渇させようとする家康の策略とする描き方が定番である。一方で寺社造営は豊臣家の天下人アピールにもなる。秀吉が北野大茶会を開催した北野天満宮の修造は秀吉の栄華を思い出させるものになる。また、冤罪で左遷された菅原道真の神社を修造することは天下が家康によって不当に奪われているとのアピールになる。
高台院の兄の木下家定が慶長一三年(一六〇八)に没した。その遺領の相続をめぐって子の木下利房と木下勝俊(長嘯子)の兄弟で争いが起きた。家康は兄弟の分割相続が公平としたが、北政所は勝俊に単独相続させた。これに家康は激怒して家定の遺領を全て没収した。
家康は長男の信康を自刃させ、次男の秀康を冷遇するなど子どもに冷たく、家督相続を優先とする印象がある。しかし、他家については兄弟の一人が遺産を独占することに否定的であった。長宗我部盛親は関ヶ原の合戦で西軍についたが、井伊直政を通じて謝罪し、取りなしてもらえる予定であった。ところが、家督相続争いの対抗馬になりうる兄の親忠を謀反の冤罪で殺害し、これに家康が激怒して改易となった。