太田道灌は天神曲輪を築きたい
室町時代には禅僧によって渡唐天神という信仰が生まれた。天神となった道真が僧に渡って参禅した。道服を着た天神像が描かれ、詩文の題材となった。武田信玄も「渡唐天神像」の絵を描いている。道真の姿を描くことは、道真への敬意を示す一環と捉えることができる。道真は冤罪で滅ぼされた人物である。道真の信仰には冤罪の悲劇への同情や怒りへの共感が込められている。
道真は遣唐使を廃止して国風文化を促進した人物と位置付けられがちであるが、中国文化を軽視した人物ではない。むしろ中国文化に馴染んでいたからこそ、わざわざ遣唐使を派遣するまでもないという結論になった。中国文化に通じていたため、遣唐使を派遣しなくても中国の影響を受けた文化を育てる自信があった。中国風の姿で描かれることは道真の理解に合っている。
扇谷上杉氏の上杉持朝は長禄元年(一四五七年)に重臣の太田道真と太田道灌の父子に川越城を築城させた。鎌倉公方に仕えて鎌倉の扇谷に居住したため、扇谷上杉氏と呼ばれた。しかし、享徳の乱で鎌倉公方と関東管領が対立し、鎌倉公方の足利成氏は古河に拠点を移し古河公方と呼ばれるようになった。持朝は古河公方に対抗するために武蔵国に進出し、川越城を本拠地とした。
太田道灌は川越城の縄張りに三芳野神社も含めた。三芳野神社を含む一帯は天神曲輪と呼ばれました。この時に道灌が三芳野神社に天神を勧請したとする説もある。神社には静寂が広がり、神聖な雰囲気が漂っていた。道灌は畏れ多くも天神に向かって一礼した。
「この地に天神をお招きし、川越城を築き上げる。我が上杉家の守護神となってくれ」
道灌は畏れ多くも天神に向かって一礼した。
「天神は我々に加護を与え、地域を守る存在です。誠心誠意、神聖な心でお祀りいただければ、必ずや上杉家の繁栄をもたらしましょう」
宮司は答えた。
「天神よ、私の家族と共に、この地を守り抜くことを誓います。どうか我が上杉家に幸福をもたらしてください」
道灌の心には神聖な使命感と未来への希望が深く宿った。
道灌の活躍によって扇谷上杉家の勢力は大きく拡大した。ところが、道灌は文明一八年(一四八六年)に名声を恐れた主君の上杉定正によって謀反の冤罪で暗殺された。冤罪で左遷された菅原道真に重なる。
「私の心はただ家族と上杉家の繁栄のために動いているだけです。どうしてこんな疑念が…」
「お前の名声は上がり過ぎている。それが余の嫉妬を買っている。お前の存在が上杉家の滅亡を招くというのだ」
「それは誤りです。私の行動はすべて上杉家のために…」
道灌は驚愕と悲しみを込めて言った。
「当方滅亡」
道灌の暗殺時の言葉である。自分を失えば扇谷上杉家は弱体化して滅亡すると予言した。これも死後に怨霊と恐れられた菅原道真に重なる。この予言は扇谷上杉氏の運命を大きく揺るがすこととなる。扇谷上杉氏は小田原北条氏に侵食され続け、天文一五年(一五四六年)の河越夜戦で滅亡した。