西京神人は営業したい
北野天満宮は平安京の右京の京域の外の北側にあった。平安京は北辺中央の大内裏から南に延びる朱雀大路を中心軸として、東側を左京、西側を右京と称し、左右対称で設計された。しかし、右京は湿地帯で住みにくくなったため、寂れていった。かつての右京は西京と呼ばれ、衛星都市または都市近郊農村のようになっていった。
慶滋保胤は、天元五年(九八二年)に執筆した『池亭記』で「東西の二京を歴く見るに、西京は人家漸くに稀にして、殆んど幽墟に幾し」と書いている。
平安京は元々、実用性を無視した過大な都市計画であった。「平安京は、住人にとっての実用性を犠牲にせねば維持できない都市であった」(桃崎有一郎『平安京はいらなかった 古代の夢を喰らう中世』吉川弘文館、2016年、59頁)。為政者が頭の中で考えた都市計画が住民の生活には不便であることは、現代の再開発やマンション建設、外環道などに重なる。
都の大路は儀式で使うための道路であり、生活者にとって不便なものであった。「近世の江戸や京都では、道の両側には町屋が建ち並び、それが一つの町を形成していたが、道を両側の住民を結びつける役割を果たしている。これに対して都城の大路は、両側の地域を分断し、むしろ非日常的な空間を出現させることになった」(北村優季『平安京の災害史』吉川弘文館、2012年、179頁)。道路が町を分断する点は現代の公共事業の道路建設に重なる。
北野天満宮が発展すると西京が北野天満宮領となった。西京には麹業者が集住し、北野天満宮に奉仕する西京神人を形成した。西京神人の先祖は冤罪で大宰府に左遷された道真に奉仕し、道真が亡くなった後に京に戻った人々と伝承される。北野天満宮の創立は怨霊に怯えた藤原摂関家による上からの鎮魂とは別に下からの民衆の動きがあった。
一方で西京神人の本質は「神人」の名称からのイメージと異なり、商工業者である。世俗権力の干渉を排除するために神人となった面がある。中世は寺社が権門として勢力を持ったが、皆が皆、宗教的存在という訳ではない。西京神人は麹業の独占権を得た。その独占権を獲得維持するために戦うこともあった。
暗い夜、北野天満宮の境内に静けさが広がっていた。菅原道真の霊が佇んでいると、突如として影が立ち現れた。それは西京神人の一人、麹業者として知られる男である。
「道真様、お呼びですか」
男は謙虚な態度で頭を下げながら尋ねた。
「ああ、西京神人よ。我が霊廟の周りには歴史の波が静かに流れている。お前たちの先祖が、冤罪で左遷された我に従い、大宰府で苦難に耐え、そして京に戻るまで、その歩みには多くの苦悩があったな」
菅原道真の霊は優雅な雰囲気で応えた。
「はい、道真様。我々は商工業者でありながら、神人としてこの地に奉仕して参りました。権門としての寺社が台頭する中で、我々は神人となることで、世俗権力の干渉を排除し、麹業の営業権を手に入れました」
男は静かに頷いた。
「その意思、我が霊も理解しておる。我々は歴史の一部として認識されることが重要だ」
道真は微笑んで言った。
「道真様、その営業権を維持することは容易ではありませんでした。時折、激しい争いに巻き込まれ、商売繁盛のために武家に奉仕せざるを得ない苦労もありました」
男は真剣な表情で続けた。
「商いも信仰も、人々の生活に結びついている。神人としての奉仕が、お前たちの生業を繁栄させる手段となることも理解しておる。我が霊は、その誠実なる努力を見ている」
道真は考え深く頷きながら言った。
「道真様、これからも我々はこの地に根付き、営業権を守り抜きます。そして、北野天満宮に心からの奉仕を捧げ続けます」
男は再び頭を下げた。
「その誓い、我が霊も共にありたい。歴史の舞台において、お前達が果たす役割は大きい。心して務めよ」
道真は穏やかな笑顔で応えた。北野天満宮の境内には歴史と信仰が交錯する光景が広がった。