一条天皇は北野天満宮に行幸したい
一条天皇は寛弘元年(一〇〇四年)に北野天満宮に行幸する。この背景には複数の説がある。
第一は道長の発案とする。道長は師輔の子孫として北野天満宮への信仰を少なくとも表向きは持っており、天皇を動かして行幸させた。
第二に道長に反発する一条天皇の発案とする。伊周や定子の中関白家を応援したい気持ちから冤罪被害者の道真を祀る北野天満宮に行幸したとする。
行幸の日は京中が賑わった。宮廷の人々が装いも新たに華やかな雰囲気の中、一条天皇は優雅な従者たちに囲まれ、北野天満宮へと足を運んだ。天皇の行列が北野天満宮に到着すると、既に多くの人が集まっていた。その中で、比叡山延暦寺の僧、是算が目を引いていた。是算は菅原氏の出身であり、知識と深い信仰心を兼ね備えた僧侶であった。天皇の目にも留まり、北野天満宮の別当職に任命されることになった。
是算はこの重責を受け入れ、喜びとともに責任感に満ちた表情を浮かべた。是算は北野天満宮と延暦寺を結ぶ存在となり、その影響はますます広がりを見せた。これを契機として北野天満宮は延暦寺の末社となり、天神信仰の神仏習合が加速した。
是算は北野天満宮で神職らとの会議を開いた。宮中の人々や地元の信者たちとの交流を深め、神仏習合を進めることを目指していた。
「是算様、この天神信仰の発展に感謝いたします。皆、心から神仏の存在を感じています」
「お言葉光栄に存じます。我々は朝廷と延暦寺、そして地元の信者と協力し、更なる結びつきを築いていくべきです」
「それにしても、この寛弘元年の行事は思いがけない驚きでしたね。帝が行幸されるなんて」
「確かに皇家の方々にご参拝いただくことは、我々にとっても大きな栄誉です。この機会に神仏習合を進め、皇室との結びつきをより深めましょう」
「是算様のお考えに賛成です。これからも地域との調和を大切にし、信仰の輪を広げていきましょう」
是算は北野天満宮を重要な拠点として神仏習合を推進していった。
神仏習合は仏教上位となりがちであった。その背景は以下の時代小説で語られている。
「だいたいからして、神よりずっと遅れてやってきたくせに、なにゆえ仏たちはああも偉そうなのであろうか」
「そら。簡単な話や。仏さんには教義があるさけな。わしら神には教義どころか理屈もあらへんやん」(浅田次郎『大名倒産 下』文藝春秋、2019年、177頁以下)
一条天皇の次に三条天皇が践祚する。皇太子には中宮藤原彰子の子の敦成親王(後一条天皇)が立った。道長にとっては孫であり、早く孫を天皇に即位させたいために三条天皇に譲位を迫り、対立関係にあった。
三条天皇は長和二年(一〇一三年)に祭日に過度の贅沢や飽食を禁止する政策を出した。この政策は菅原道真の飽食の禁止の理念に沿ったもので、節度ある生活を求めるものであった。ところが、道長は面従腹背で「例年に万倍す」と評するほどの贅沢が横行するように人々を煽った。道長は道真の飽食の禁止の理念への無頓着を露わにした。
「天地に恥ぢる行為である」
藤原実資は日記で道長を弾劾した。道長の姿勢は藤原時平と醍醐天皇の関係と正反対である。時平はわざと贅沢な振る舞いをして醍醐天皇に叱責された。これを見た他の貴族達は贅沢や飽食を止めることになった。実資の祖母は時平の娘である。時平が築いた質素で節度ある生き方に深く影響されており、贅沢を煽る道長の驕りに許せない思いがあった。
道真の左遷に批判的だった藤原忠平の子孫は道真の怨霊の加護を受けた。道長の代に最盛期になったが、それ以降は下り坂になる。そこには道真の加護が向かなくなったことがあるだろう。