藤原道長は冤罪が後ろめたい
菅原修成が北野天満宮より道真の霊を三芳野神社に勧請した長徳元年(九九五年)は疫病が蔓延した年であった。元々、正暦六年として始まったが、疫病の蔓延で改元することになった。疫病の蔓延も菅原道真の祟りと恐れられた。
この疫病の蔓延では多数の貴族が亡くなった。「宮廷儀式などで接触することの多い官人たちの間に、感染が急速に広まったということなのであろう」(北村優季『平安京の災害史』吉川弘文館、2012年、92頁)。逆に庶民には感染が広がらなかった。新型コロナウイルス感染症も初期はパリピや金持ちが集中して感染する傾向があった。
当時の最高権力者の藤原道隆も亡くなった。但し、道隆の死因については諸説ある。
第一に疫病である。
第二に酒の飲みすぎなどからきた飲水病(糖尿病)の悪化とする。
第三に疫病で免疫力が落ちて糖尿病が悪化したとする。
道隆の死後は弟の道兼が関白になったが、すぐに疫病で亡くなった。このために七日関白と呼ばれる。
この疫病の流行で門戸を閉ざす人々が増えるようになった。当時の人々は疫病を百鬼夜行のようなものと恐れていたが、門戸を閉ざすことはソーシャルディスタンスになり、正しい感染防止策になった。忘年会や学校行事を強行してクラスターを発生させる現代人の方が感染症について無知なところがあるだろう。
道兼が亡くなると道兼の弟の藤原道長と道隆の子の藤原伊周の権力争いが起きた。道長は長徳二年(九九六年)の長徳の変で甥の藤原伊周を大宰権帥に左遷させた。伊周は左遷の命令に行方をくらませて抵抗した。その間に北野天満宮に参拝して冤罪を訴えていた。大宰権帥への左遷自体が道真を連想する。朝廷は長徳三年(九九七年)に大赦を出し、伊周は京に帰還した。道長には冤罪で左遷を続けることに後ろめたさがあった。
しかし、道長の嫌がらせは続いた。都に戻った後も伊周を帥殿と呼ばせた。伊周は内大臣になっており、前内府と呼ぶことが正しいが、それを道長は認めようとしなかった。「伊周を追い落とした道長こそが朝廷の事実上の最高権力者となっていた当時、伊周に政争の敗者であることを忘れさせまいとする道長の意向が、人々の意識を陰に陽に強く規定していた」(繁田信一『かぐや姫の結婚 日記が語る平安姫君の縁談事情』PHP研究所、2008年、226頁)。こうなると道真の怨霊の加護は道長よりも道長に対立する人々に向けたくなるだろう。道真の怨霊の加護は冤罪に反対した藤原忠平の子孫に向けられていたが、藤原道長の代になると怪しくなった。