菅原修成は三芳野神社に勧請したい
菅原道真の子孫の菅原修成は長徳元年(九九五年)に武蔵守であった。道真の子が淳茂で、在躬、輔正と続き、その子が修成である。武蔵国に赴いた修成は武蔵国の歴史や文化に興味津々であった。
「ここが新たな舞台。武蔵守として、道真公の名を讃えるために何かできることはないか」
修成は道真の血を引く者として道真を祀る神社を武蔵国にも作ろうと思い立った。修成は入間郡の三芳野神社に着目した。三芳野神社の境内に足を踏み入れる瞬間、何か特別なエネルギーを感じた。神社の雰囲気、周囲の静けさ、そして神聖な空気が修成の心を引き寄せた。
「この場所は…なんだか神聖な雰囲気が漂っている。ここに道真公を祀りたい」
三芳野神社は平安時代初期の大同年間(八〇六年から八一〇年)に大宮氷川神社を勧請して創建された。この時点で菅原道真は神になっていないどころか、生まれてもいなかった。
三芳野は古くからの地名である。『伊勢物語』第十段「たのむの雁」に武蔵国入間の郡みよし野(三芳野)の里が登場する。『伊勢物語』は在原業平がモデルとされる。業平をモデルとした男は入間の郡みよし野の里の女に言い寄った。女の父親は別の男と結婚させたがった。これに対して母親は藤原氏の出身であり、高貴な身分にこだわり、この男を婿にしたいと思い、以下の和歌を送った。
「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」
三芳野の田の面にいる雁も引板を振ると一方へ寄って鳴くように私の娘も君の方に気持ちを寄せていると歌った。「たのむ」は田の面と男の愛を「頼む」に掛けている。引板は田から鳥を追うための鳴子である。
男は返歌を送った。
「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れむ」
私の方に気持ちを寄せて鳴いているという三芳野の田の面の雁をいつお忘れようか、忘れないと歌った。雁について歌っているが、私のことを頼りにしている娘さんを忘れないとの意味を込めている。
在原業平は和歌に才能を発揮し、美しい和歌を詠むことで心の中に秘めた感情を表現した。業平は元慶四年(八八〇年)に没しており、道真の前半生に生きた同時代人である。道真は業平に和歌を学ぶこともあった。
業平は平城天皇の孫であったが、藤原氏隆盛の時代の中で不遇の貴公子であった。藤原氏に冤罪で左遷された道真と重なるところがある。業平とゆかりの三芳野にある三芳野神社に道真を祀ることは相応しい。
菅原修成は北野天満宮より道真の霊を三芳野神社に勧請した。土地の人々と協力し、神社のために労力を惜しまない修成の姿勢は、地元の人々に感動を与えた。修成は心からの尊敬と感謝の念を胸に秘め、神社の境内で手を合わせた。
「この地であなたを祀ります。武蔵国にあなたの名を永遠に刻みます」
修成は神聖な場所で、祖先の霊を感じながら、道真の精神を称えた。
「道真公の名はここで輝き続ける。この神社が、未来の世代にも愛され、守られますように」
三芳野神社は新たなる菅原道真の拠り所となり、武蔵国の人々に希望と安らぎをもたらした。