藤原師輔は祭文を捧げたい
菅原道真に対する信仰は民衆からの動きと権力側からの動きの二面性があった。権力側からの動きには藤原摂関家の信仰があった。藤原師輔は北野天満宮に熱心に信仰し、天徳三年(九五九年)には自家の繁栄を祈願する祭文を捧げた。
師輔の心には、自らの男系の子孫が国家の棟梁となり、万機の摂禄を意に任せ、太子の祖を成すことを望む野心が燃えていた。同時に女系の子孫が国母や皇后、帝王の母として名を馳せ、姓・藤原の氏を千代にわたり繁栄させることを夢見ていた。
師輔は藤原忠平の次男である。菅原道真は冤罪で左遷されて怨霊になった。冤罪を作った藤原時平の子孫は衰退し、冤罪に反対した弟の忠平の子孫は栄えた。
道真の怨霊の庇護は忠平の子どもの代に決定的になった。忠平には実頼と師輔の兄弟がいた。兄の実頼が官位は上で、藤氏長者であった。師輔は右大臣であり、摂政・関白にはならなかった。しかし、師輔の子孫の九条流が摂関家の嫡流となった。
実頼は時平の娘の能子と婚姻した。このため、時平に対する道真の祟りの影響を受けたと言われている。これに対して師輔は北野天満宮を熱心に信仰した。師輔は外面上、調和を保ちながら、裏では神々の加護を得て家門を栄えさせるための策略を巡らせていた。
「世間的には彼は、つねに兄の実頼に対して家礼の儀をとったと伝えられるが(『左経記』)、それだけ彼は自己抑制にたけていたのであろう」(角田文衛『平安の春』講談社、1999年、18頁)。
師輔の長女・安子は村上天皇の女御となり、その子である憲平親王が冷泉天皇となり、守平親王が円融天皇になった。このため、九条流は外戚としての地位を強化した。実頼の娘の述子も村上天皇の女御となったが、子をなさずに早世した。
現代人感覚では「述子が早世し、安子が数人の皇子女を産んだことは、天満天神の加護のお陰であると言えば、それはそれまでの話である」となる(角田文衛『平安の春』講談社、1999年、20頁)。当時の世界では説得力を持って語られただろう。北野天満宮の庇護と、師輔が築いた家門の栄光が、朝廷における九条流の名声を不動のものとした。師輔の孫が藤原道長である。
師輔は子孫のために「九条殿の遺誡」と呼ばれる訓戒を残した。そこでは「人に会っても無駄口をきくな」と無駄なコミュニケーションを否定する。また、「朝夕の食事は多飲多食を慎め」と飽食を否定する。飽食の否定は道真の政策にも沿ったものであった。